第11話 氷解 -解 大詰め-
「虻川先生。こちらの瀬戸さんはですね……」
私の緊張は最高潮に達した。冷や汗が背中をじっとりと湿らせる。
「男性なのです」
頭を殴られたような衝撃。
思わず声が出そうになる。
この美しい人が、男性……?
とても信じられなかった。
瀬戸先生は目を閉じ、かすかに震えていた。
「虻川先生が見た、スーツ姿の男性というのは、瀬戸さんなのです」
虻川さんはしばらく驚愕の顔を浮かべていたが、ある疑問を口にした。
「でも……だとしても、なぜ消えたの? 私、ずっとあの扉が見える位置に座っていたのよ? 誰かがあの扉から出て来れば、絶対に気がつくはずよ。それが、レイちゃんだとしたら尚更よ」
そうだ。そうなのだ。別に男性の正体が瀬戸先生であることや、その性別は問題ではないのだ。人間が消えるという現象が問題なのである。
「先生は、男性の姿をした瀬戸さんを見たからこそ、とても単純な、ある事実に気が付かなかったのですよ」
「単純な事実……」
「そうです。あの扉の向こう、個室へと通じる扉の手前にある鎧戸の通じる先が、スタッフの控え室だということに」
あの鎧戸は用具入れではなかったのか! なんて単純な解答なのだろう。
「なんですって? じゃ、じゃあレイちゃんはただ、あの鎧戸の中に入っていっただけってこと?」
その問いには瀬戸先生が応えた。
「そうです……。怖がらせてしまって申し訳ありません」そう言って頭を下げる。
「いいのよ! 謝らないで。私の方こそごめんなさい。私、人が消えたなんて……そんな子供みたいな勘違いを……ああ、恥ずかしいわ!」
「先生が勘違いなさるのも仕方のないことなのです。その大きな理由は二つあります。それこそがこの怪談が怪談となった理由……根源なのです」
「根源……」
「一つ目の理由は、虻川さんが目撃した瀬戸さんが男性の姿をしていたという事です」
それがなぜこの怪談の根源と言えるのだろうか。別に、登場人物の性別が女性だって構わないのではないか。
私は、想像する。
色白で髪の長い女性が、憂いた表情をたたえてあのドアを開けて中に入っていく。しかし、いつまで経っても出てこない。心配になって様子を見にいくがその姿はどこにもなく、その女は氷のように溶けてなくなってしまっていた……。
ほら、ちゃんと怪談として成り立つではないか。
しかしこの怪談には、何か違和感がある。なんだ?
もう一度、初めから想像してみる。今度は、なるべく普通に、怪談的にならないように……。
すると違和感の正体がわかった気がした。“消えたのだ“という結論が飛躍しすぎているのだ。だって、冷静になれば、あの鎧戸の先が別の部屋に繋がっている可能性にだって思いつくはずだ。
この怪談は、そんな単純な事実に気がつけなくなってしまったことにより生まれたのだ。その理由は、登場人物の性別が男性だったからだと詩織さんは言う。
ふと、自分の手元をみると、今日作った編み物が目に入った。
可愛いくできたなと一瞬思考が停滞する。
次の瞬間、脳の回路が繋がった感じがして、詩織さんの言わんとしていることが理解できた。
「あ。そういうことか」
虻川さんが目を丸くして見つめてきた。
「どういうこと?」
「ええっと、なんて言ったらいいんですかね……」
うまく説明できず、言葉を探す。
「あの、その……男性は異質なんです。だから……」
その時、ポンと詩織さんが手を叩いた。
「その表現がぴったりね。ありがとう真琴ちゃん。そう、異質なんです。いや、そう言い切るのはいけませんね。異質だと感じてしまうのです。ここは手芸店ですから、このお店に訪れるお客さんも、そして店員さんも、ほとんど女性ですよね?」
そう言われて、虻川さんは、はっと何かに気がついた顔をした。
「お気づきになりましたか。このお店では、男性は、お客さんでも、もちろん店員でもなく、異質な存在と認識されてしまうのです」
「確かにそうだわ! 私、その時お客さんじゃなくて、お手洗いを借りにきた人だと思ったのよ!」
詩織さんは頷く。
「人間は異質な存在、得体の知れない存在を認識するとき、理論的な思考よりも、非現実的な思考をする傾向があります。例えば、真夏の蒸し暑い夜に、コートを着込んだ女が出てくる怪談などを聞いたことはありませんか? これは、夏に冬服を着ているという異質な存在を、幽霊の類であると認識するから生まれたものです。冷静に考えれば、非常に短絡的な思考ですよね? しかし、人間は異質な存在に出会った時、本能的に恐怖を感じるようにプログラムされているのです。これは、進化の過程で獲得した生存本能だと私は考えています。
虻川さんは大きく頷いた。
「そういうことだったのね。それで、もうひとつの理由というのはなんなのかしら?」
そう、この怪談の根源は二つあるのだった。
「それは、あの鎧戸です。ねえ、真琴ちゃん。あの扉を見た時、その先はなんだと思った?」
突然話を振られて多少動揺するが、正直に答える。
「用具入れかなって思いました」
「そう。普通そう思うわよね。だから、あの扉の向こう側は心理的な密室となってしまったのよ」
そう言いながら、詩織さんは扉を指差した。
「でも、珍しいですよね? 中折れ式の扉を部屋の扉にするなんて。あの先が別の部屋に繋がっているって、よく気がつきましたね。中を覗いたんですか?」
私は、疑問を口にした。
「いいえ。覗いてはないわ。でも、きっとそうだと思ったの」
「すごい推理力ね。まるで推理小説の探偵のようだわ」
虻川さんが感心したように言う。
詩織さんは笑いながら否定した。
「推理なんかではないんです。私が飲食店を営んでいるから気がついただけなのです。瀬戸さん。このカフェは、後からできたのではないですか? はじめはただの手芸店になるはずだったのでは?」
瀬戸さんは本当に驚いたようだ。
「そうです。開店直前になって、オーナーがカフェも併設したいって言い出したんです。それからはもう、お店の改造やらなんやら大変だったと聞いています。でも、なんで分かったんですか?」
「それは、実際にお手洗いをお借りした時に気がつきました。あの扉のノブはただの把手で回りませんよね?」
そう、確かにそうだった。
私は、先ほど面食らったことを思い出す。
「でも、ドア枠の方には、サムターンキーの錠がはまる溝があったのです。それで思いました。元々この扉は、鍵がかけられるような扉だった。でもなんらかの理由により今の扉に交換されたのだと。お手洗いに入ってみるとその理由もなんとなく分かりました。あの扉も、洗面台も、お店全体がアンティーク調で統一されていて、こだわりを感じます。しかし、便座だけはごく簡素なものでした。これだけインテリアにこだわっているお店において、その便座はいささか浮いていました。それで、最初はお客様が使用することを想定していなかったのではないかと気がついたのです。つまり、あの扉の向こうは元々、スタッフ専用の空間だったのです。ですから、当然入り口の扉は鍵付きだったのでしょう。お客様に解放するにあたって、この店の雰囲気に合う扉に付け替えたという訳です。では、なぜ元々従業員専用だったお手洗いを解放したのか? それは、カフェとしても営業をするためとしか考えられません」
詩織さんは淀みなく答える。
やはり推理ではないかと心の中でツッコミを入れた。
「でも、なんで理由がカフェ営業するためだってわかるんですか?」
私は疑問を口にする。そこだけが分からなかった。
「あのね、食品衛生法上、喫茶店営業する場合は、“客用便所”の設置が義務付けられているの。客用と従業員用を必ずしも分ける必要はないけれど、お客様が使用できるお手洗いが必要なのよ。それでピンときたの」
「なるほど……」
確かに、BARオーナーの詩織さんだからこその気づきである。
探偵は続ける。
「しかし、あの扉の向こう側が従業員専用の空間だったとすると、絶対に必要なものが無いのです。それは、更衣室です。それで、あの鎧戸の向こうが更衣室なんだろうと予想できたのです。そして、その戸を見てみると、鍵付きでした。中折れ式で鍵付きは珍しいですし、用具室であればわざわざ鍵を設ける必要もないですから、私は確信し、その瞬間に全ての謎が解けたのです。ちなみに、元々、鎧戸はなかったのでしょう。従業員専用の空間との境界は今見えているあの扉だったのですから。しかし、お手洗いをお客様に解放するにあたって、更衣室との境界に扉を設ける必要が出てきた。しかし、構造上想定されていない箇所に扉を設置するスペースはなく、あのような中折れ式の扉としたのでしょう」
全ての謎が解かれ、怪談はたった今、死んだ。分かってしまえばなんてことのない、単純なことだったのだ。
しかし、だとしたら何故詩織さんは真相を語りたがらなかったのだろうか? 瀬戸先生にははっきりと恐怖の色が浮かんでいたのを思い出す。
「でもどうして、詩織さんも瀬戸先生も言いづらそうにしていたんですか?」そう口にした瞬間、私はしまったと思った。
この怪談の謎を明らかにするということは、瀬戸先生は男性であるという事実を明らかにすることに他らならない。つまり、彼女の体と心のねじれが暴露されるということである。この事実を人に打ち明けるということはとても勇気のいることに違いない。しかも相手は、常連客であり、おそらく友人でもある虻川さんである。今までの関係が壊れてしまうかもしれないと恐怖することも頷ける。でも、友人だからこそ、虻川さんには知ってもらいたいと思う気持ちもよく分かった。あの時言った、『虻川さんには特に知ってほしい』という言葉を想うと、胸が締め付けられるようだった。
「あの、ごめんなさい……」
私は、咄嗟に謝ることしかできなかった。
瀬戸先生は、微笑みながら「いいのよ」と応えた。
「私ね。結婚もして、子供もいるの。体は男で心は女、でも恋愛対象は女性なのよ。捻れているでしょう? 家族には言えてないの。編み物のことも、当然この障がいのことも。普段は普通の会社に勤めているのだけれどね、どうしても大好きな編み物に携わる仕事がしたかった。だから家族には内緒でこのお店でパートとして働いていたの。バレない様にするために、出勤時はスーツなのよ」
そう言いながら微笑む瀬戸先生は少し苦しそうだった。
「そんなことないわ」
虻川さんが、真剣な眼差しではっきりといった。
「レイちゃん。あなたは捻れてなんていない。あなたの性別は男性よ」
私は、どきりとした。なんてことを言うんだと思った。
瀬戸先生も困惑しているようだった。
虻川さんは優しく語りかける。
「みんな難しく考えすぎよ。そもそも、心に性別なんかないのよ。身体的な性別はきちんと区別できるわ。でも、心は違う。何がどうなったら女性なの? 編み物が好きだったら? 可愛いお洋服が好きだったら? 男性を好きになったら? 違うわよね。きっと誰もきちんと定義出来ないのよ。みんな、社会通念上の女性と男性の嗜好や特徴と比較して、なんとなく識別しているだけなのよ。そんな曖昧な尺度で測れるほど人間の心というものは単純ではないわ。身体的な性別がどうであれ、人はどんなものを好きになってもいいのよ。心は体よりも、もっともっと自由なの。だからね、私はレイちゃんのこと、ちっともおかしいとも思わないし、ましてや、捻れているなんて思わないわ。性別にこだわると言うのならば、あなたは男性よ。でも、それは身体的にそうだというだけ。そして、それがなんだっていうの? 私の大切なお友達には変わりがないじゃない! 手芸店には女性しか来ないなんて思い込んでいた私が偉そうに言えることではないかもしれないけれど、でも、今言ったことは本心よ」
瀬戸先生は首を振りながら「ありがとうございます」と言った。
それは、絞り出すような声だった。
瀬戸先生の瞳からは涙がこぼれていた。ずっと心の奥に抱えていた大きな氷塊が解けて、涙となって溢れているかのようだった。
どこか遠くで、獣の咆哮の様な声が聞こえた。
氷解 -了-
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