第9話 氷解 -解 二の幕-
詩織さんからあの怪談を聞いた翌週の月曜日、私は、T駅の改札で詩織さんを待っていた。
時刻はもうすぐ十五時半を回ろうかというところである。
西東京ではかなり発展している方であるT市。その名を冠したT駅は巨大で、駅ビルには大きなショッピング施設が二つも入っている。
改札口は平日の昼間だというのに多くの人で賑わっていた。特に、子供を連れた母親の集団、いわゆるママ友グループが多い。私は、ぼうっと楽しそうな親子の集団を見ていた。
不意に声をかけられる。
後ろを振り返るとそこには、詩織さんが立っていた。
マスタードイエローの柔らかなニットに、少し長めの黒のペンシルスカート、足元はモスグリーンのローファーというシンプルながらスタイリッシュな出立ちだった。
女の私から見ても、詩織さんは完璧なスタイルで、道ゆく多くの女性が詩織さんを一瞥しては、驚きの表情を浮かべている。何だか、私まで誇らしい気持ちになった。
詩織さんは申し訳なさそうな顔をしていた。
「待たせちゃったかな?」
「いえ、私も今きたところです」
私は慌てて否定する。
楽しみにしすぎて、待ち合わせの三十分前に着いてしまったことは内緒だ。
「それで、その、虻川さんという方とは直接お店で落ち合うんでしたよね?」
「そうそう。そろそろ行きましょうか?」
そういって、詩織さんはT駅の南口の方へと歩き始める。
私は道ゆく人の邪魔にならないよう、詩織さんの少し後ろについて歩いた。
今日、夜行は定休日である。
週に一度しかない貴重な休みを私だけのために使ってくれる……のであればどれだけ嬉しかったか。
今日の目的は、あの怪談の調査だ。怪談の現場となった手芸カフェに行くのだ。そこで、体験者の女性、虻川さんという人とも落ちあう手筈になっていた。
T駅から歩くこと十分あまり、目的の手芸カフェに到着した。
なんの変哲もない雑居ビル。そのビルの一階が手芸カフェであった。詩織さんの調べでは数年前にできたばかりとのことであったが確かに綺麗なビルだった。
店の入り口の扉は温かみのある木製で、大きなガラス窓がついていた。
そこから覗ける店内は、向かって左側、店の大部分が手芸用品店のようだ。そして右側には小さなカフェスペースが設けられていた。カフェには、六人掛け用の長テーブルが一脚、二人掛け用のテーブルが三脚、それらが全て一直線に並んでいた。
そして、長テーブルに一人の年配の女性が座っていた。おそらく、あれが虻川さんであろう。
詩織さんについてお店に入る。
すると、羊毛だろうか、マフラーに顔を埋めたときに感じるあの香りと、それに混じって印刷されたばかりの本の香りが微かにした。
どうやら、相当数の手芸本も取り揃えているようだった。
「先生、お待たせしました」
詩織さんが、長テーブルの年配の女性に声をかける。やはり、この人が虻川さんであっているようだ。
詩織さんはこの女性を先生と呼んでいたことが気になった。知り合いの女性とは聞いていたが、どんな関係なのかは詳しくは聞いていなかった。もしかしたら、学生時代の恩師か何かなのかも知れない。
「詩織さん、いらっしゃい」
そう応える虻川さんは、とても優しい目をした女性だった。私は、この女性はきっと素敵な人だと直感した。
虻川さんは私に微笑みかけると、「それで、こちらが白石さん?」と詩織さんに尋ねる。
私は姿勢を正して、自己紹介をする。
「初めまして! 私、白石真琴と言います! 詩織さんのお店で修行させていただいています!」
虻川さんはなぜか少し驚いたような顔をしていた。しかし、すぐに優しく微笑むと、「まあ。元気な女の子ね。可愛らしいわ」と言った。
きっと、私の自己紹介が男子高校生のようだったからだ。高校時代吹奏学部に所属していたのだが、上下関係が厳しく体育会系と言って差し支えなかったこともあり、私はお淑やかというよりは、がさつで男っぽいところがあると自覚していた。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
「さあさあ、二人とも座って?」
虻川さんに促され、私たちは虻川さんの向かい側に着席する。
「さて、今日二人には、編み物の魅力を体験していただきましょう」
そう言う虻川さんは本当に嬉しそうだ。きっと、虻川さんにとって編み物とは、詩織さんにとっての怪談くらい夢中になれるものなのだろう。
詩織さんの真の目的は怪談の謎解きなのだろうが、今日の私の主目的は実はこちらだ。
日頃から、女性らしい趣味というものに憧れていた。そんな時、詩織さんからこのカフェの手芸体験に参加しないかと誘われたのである。
憧れの詩織さんとお出かけできるだけでなく、前から興味のあった編み物まで体験できるというビッグイベントを断れるはずがなかった。
「今日はよろしくお願いします」
私は、虻川さんに頭を下げる。
「あらあら、真琴ちゃん。編み物を教えるのは私じゃないのよ。私は誰かに教えられるほど上手じゃないもの」
そう言いながら虻川さんは手をふる。
その時、背後で声がした。
「もう、虻川さん。そんな謙遜して。相当な腕前のくせに」
後ろを振り返ると、四十代くらいの女性が笑顔で立っていた。
短いロマンスグレーの髪。サイドは刈り込まれており、左から右へと撫で付けられた髪型は中性的で、何よりも個性的だった。しかしそんな奇抜な髪型がよく似合う、美しい顔だちだ。髪型もさることながら、その服装も個性の塊であった。複雑な幾何学模様が幾重にも折り重なったモザイク柄のセーターは、目が痛くなるような鮮やかな原色で構成されており、まるで絵の具が爆発したようだ。しかし、黒いスキニーパンツを履いているためか、全体のスタイルは絶妙な均衡を保っていた。
「ああ、瀬戸先生。お待ちしておりました」
虻川さんが声をかけると、その女性は詩織さんと私に向かって一礼したのち、「本日手芸体験の講師を務めさせていただく
「よろしくお願いします」と詩織さんと同時に返事をする。
私は、瀬戸先生が着ているセーターに釘付けになっていた。
「そのセーターすごいわよね。それも先生の作品よ」
虻川さんだ。
「そうなんですね。何というか、すごく派手なのにそれだけじゃないというか……まとまっているような気がします」と正直な感想を述べた。
「そうなの。これだけの色を使っているのに、全体のバランスは破綻していないのよね。この色彩感覚は天才的だと思うわ」
虻川さんに褒められた瀬戸先生は少し恥ずかしそうだったが、まんざらではない様子だった。
「さあさあ、生徒さんたち始めますよ」
瀬戸先生の鶴の一声で、編み物体験が始まった。とはいっても、虻川さんは初心者ではないので、自分の網かけのストールの続きをするようだ。
ほぼ編み上がっているストールは純白のレース状で、一眼見て虻川さんが相当な腕前なのが分かった。
初心者の私たちは、瀬戸先生の指導のもと、かぎ針によるモチーフ編みに挑戦することになった。完成すれば、一辺が十センチくらいの花柄や幾何学模様が浮かぶ作品になり、コースターなどに使えるようだ。
まず初めに、毛糸の色とモチーフを選ぶ。私はさんざん悩んだ挙句、水色の毛糸で雪の結晶のモチーフを編むことにした。詩織さんは、山吹色の毛糸と太陽のモチーフを選んだ。
編み図と呼ばれる、編み物の設計図のようなもの配られた。編み図にはさまざまな記号が書かれており、それぞれに対応する編み方があるのだと説明を受ける。楽譜のようだと思った。
最初は瀬戸先生に手取り足取り教えてもらいながら何とか編んでいく。しばらくすると編み図にも慣れ、一人でも何とか編めるようになっていった。
最初は影も形もなかったのに、中心から外側に向かって一段、また一段と編んでいくにつれて、雪の結晶のモチーフが現れていく。それが楽しくて、私はもう夢中になった。
どれだけの時間が経ったのだろうか。ふと、編む手を止めて、まわりを見渡すと、瀬戸先生が苦笑いを浮かべながら詩織さんに何かを教えていた。
詩織さんの手元をみる。
驚いた。サンプルを見た時は、綺麗な円形ですぐに太陽がモチーフだと分かったが、詩織さんの掌の中のそれは、ひしゃげていてひどく不恰好だった。
「し、詩織さん?」
たまらず声をかける。
「え?」
詩織さんが顔を上げる。その顔には苦悶の表情が浮かんでいた。額にはうっすらと汗が滲んでいるほどだ。
「あ、いえ……その、何でもないです」
私は、あまりの惨状になんと声をかけて良いか分からなかった。
しかし、いつも完璧だった詩織さんに、こんな弱点があったとは。
先生の指示に従って何とか修正しようともがく、必死すぎる横顔を見ていると何だか可笑しく、つい吹き出してしまった。
詩織さんは、唇を尖らせて、「もう! 真琴ちゃんひどいよ!」と拗ねる。
そんな姿も何だか少女のようで可愛らしかった。
「ごめんなさい! まさかこんな可愛い一面があったなんて知らなくて。つい」
詩織さんは、まだ拗ねたような顔をしていたが、別に怒っている訳ではないようだった。
それから作業を続けること三十分、私も詩織さんも何とか編み上げることができた。
改めて自分の編んだものをみると、ところどころひしゃげてはいるが、個人的には満足のいく出来だった。詩織さんの作品は、まあ、なんというか、コメントのしづらい出来であった。
手芸体験の後は、このカフェ自慢というほうじ茶ラテを飲みながら、瀬戸先生も交えて編み物談義に花を咲かせた。
閉店の時間が迫り、そろそろお暇しようという段になって、私はトイレに行きたくなった。
私は、三人に断って席をたち、カフェの奥にあるトイレへと続く扉に目を向けたとき、思い出してしまった。
そうだ。この店のトイレで人が一人消えているのだ。
私は、一歩も動けなくなってしまった。
瀬戸先生が不思議そうに、私を見上げ「どうしたの?」と尋ねてくる。
何も答えられずにおどおどしていると、虻川さんが「もしかして、あのことを気にしているのかしら?」と聞いてきた。
「あのこと? あのことって何でしょう」
瀬戸先生が虻川さんに問いかける。
虻川さんは言うべきかどうか悩んでいるようだったが、意を結したように話始めた。
「いえね、レイちゃん。この間、私このお店で不思議な体験をしたのよ」
「不思議な体験……」
虻川さんは掻い摘んで、トイレで消えた男性の話をする。
「それでね、こちらの詩織さんは、怪談師をなさっていて、そういった不思議な話を集めているの。だから、この話を聞かせたのよ。そしたら、是非行ってみたいっていうし、こちらの真琴さんも手芸体験に興味がありそうだということで、二人にこのお店を紹介することにしたのよ」
「そう……だったんですか」
話を聞いていた瀬戸先生は、少し様子がおかしかった。もしかしたら、純粋に手芸に興味があった訳ではないと知って、気分を悪くしたのかもしれない。
少し居心地が悪くなって、詩織さんの方を見る。
詩織さんも同じことを考えていたのか、微妙な表情をしていた。
「ねえ、レイちゃん。あなた何か知らないかしら?」
虻川さんが瀬戸先生に尋ねる。瀬戸先生は明らかに動揺していた。
この人は何かを知っているのだ。
何とも言えない緊張感が漂う中、詩織さんの声が響いた。
「真琴ちゃん。お手洗い行かなくて大丈夫?」
「え、でも……」
そう反射的に言ってしまった後に、今の発言はとても失礼だったような気がしてすぐに後悔する。
「大丈夫よ。怖いことなんて何もないから」
詩織さんは優しく語りかけてくれた。それだけで、何だか心がふっと軽くなった。
「それに、私も手芸体験中にお手洗いに行ったけれど何もなかったもの」
多少驚いた。編み物で夢中で全く気が付いていなかった。
それならば安心と納得しかけるが、ある違和感に気がついた。
明らかに詩織さんの態度もおかしいのだ。
いつもなら目を輝かせて怪談の謎に迫ろうとするはずだ。明らかに何かを知っている瀬戸先生を前に何も尋ねないなんて、絶対におかしい。
そもそも先ほどの雑談の間だって、何度もこの怪談について尋ねるチャンスはあったのだ。詩織さんの今日の目的は、怪談の謎を解くことだったはずだ。しかし、そのための行動を一切していない。あまつさえ、先ほど帰り支度までしていたのだ。
もう、この怪談への興味が失せてしまったのか? いや、違う。
これは、多分--
「詩織さん。怪談の謎が解けたのですね?」
詩織さんは眉間に皺を寄せ、とても言いにくそうに一言「ええ」と呟いた。
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