第8話 氷解 -解 一の幕-
詩織さんは語り終わるとゆっくりと一礼をした。
張り詰めた空気が徐々に解けていく。
木村さんがため息をつきながら口を開いた。
「ありがとうございました。いや、怖いというよりも不思議なお話でしたね。そのカフェには霊道が通っていて、体験者の女性が見たという男性は幽霊だったのでしょうか」
霊道という言葉は日常生活ではまず聞かない。数ある怪談界隈の専門用語の一つである。このお店で修行を始めた当初、お客様や詩織さんが語るこういった専門用語が分からず、何度も質問したものである。
霊道とは読んで字の如く、霊体が頻繁に通る道のことである。霊道にまつわる怪談はかなり多い。
詩織さんの方を見やると、木村さんの質問にどう答えるべきか迷っているようだった。
どうやら、詩織さんは幽霊の類を感知することができるらしい。私にはいわゆる霊感というものはない。だからこそ興味が湧いて、以前、幽霊とは何者かという問いをしたことがある。
その時も今のように、どう説明したらよいか悩んでいる様子だったことを思い出す。
「そうですね……。もちろんその可能性は大いにありますが、この怪談の根源は違うのではないかと考えています」
詩織さんはよく“怪談の根源”という言葉を使う。それが意味するところは、怪異の正体のみならず、なぜその怪異が生まれたのか、何故それが怪談として形を得、そして広まっていったのかという、まさに怪談を怪談たらしめている根本のことである。
詩織さんは、怪談が好きなのではなく、怪談の根源を明らかにすることが好きなのだそうだ。簡単に言えば、怪談の謎を解くとが好きということである。
そんな詩織さんは、この怪談に出てくる男性は幽霊ではないと考えているようだった。
木村さんもそう理解したようで、目を輝かせながら「それはつまり、この消えてしまった男性は幽霊ではなく、人間だと考えているということですか?」と問う。
この人も大概怪談好きだな……と思う。
「はい。おそらく幽霊の類ではないと思います。その理由はいくつかあるのですが、私がそう考えている一番の理由は、その男性が扉を開けてトイレに入っていったからです」
「なるほど、幽霊ならば扉を通り抜けられるわけですもんね」
木村さんは大きく頷いた。
しかし、詩織さんは微妙な顔をしていた。どう説明したらよいかまだ迷っているようだ。
「いえ、幽霊と一般的に言われる存在も扉を開けることはあります。いえ、むしろそれが普通なのです」
私は、驚いていた。幽霊とは壁や扉をすり抜けるのが当たり前の存在であると、だからこそ恐ろしい存在なのだと思っていたからである。
私はたまらず詩織さんにその疑問をぶつける。
「でも、怪談に出てくる幽霊はみんな壁や扉をすり抜けるじゃないですか?」
詩織さんは、大きく頷く。
「そう。そうなの。でもね、それにはちゃんと理由があるのよ」
詩織さんは木村さんに向き直って続ける。
「以前、私の考える幽霊の正体についてお話したことがあったと思います」
「ありましたね……。とても面白かったですよ。たしか、録画のループ再生に例えていましたよね?」
「そうです。幽霊とは生前の意思や感情といったものの残滓です。故に、ほとんどの場合、幽霊自身に目的や思考はなく、ただ生前の生活習慣や意思に従った行動を延々と繰り返しているだけなのです」
木村さんは何度も相槌を打つ。
「ですから、そこに扉があれば幽霊だって扉を開けるのですよ。ただし、それは生前にもそれがあった場合です」
「あ、なるほど。逆なんですね?」
木村さんは何かに納得したようだった。私には何が何だか分からなかった。
「お分かりになりましたか。逆……というよりかズレていると言った方が正確かも知れません」
「あのう、どういうことですか?」
私だけ理解できていないことが無償に恥ずかしかったが、ものすごく気になる。恥を忍んで二人に問いかけた。
詩織さんは微笑みながら、まるで小さい子供に教えるかのように丁寧に説明してくれた。
「真琴ちゃん。例えばお店の入り口の階段……」
そう言って、詩織さんは例の店の入り口の扉を指差した。
私も木村さんも釣られてその扉を見る。
「真琴ちゃんは、あの階段を使って毎回出勤するわよね?」
私は扉を見つめたまま頷く。
「例えば、ある日、その階段を踏み外して死んでしまった……そして、真琴ちゃんは幽霊になったとしましょう」
「嫌な想像ですね」
詩織さんは、悪戯っぽく笑う。
「幽霊の真琴ちゃんは、生前の記憶、習慣に従って、毎晩あの階段を下りていく……それを人々が目撃して“夜な夜な階段を下りていく幽霊”という怪談が生まれました。さて、月日が流れ、このビルも無くなってその跡地に新しい建物が立ちました。その建物には地下室はありません。すると、幽霊の真琴ちゃんはどうするでしょう?」
詩織さんはまるで普通のなぞなぞを出しているかのように、気軽に、楽しそうに聞いてくる。
物騒な内容とそんな明るい詩織さんのギャップが可笑しくて、つい笑ってしまった。
「本当に、怪談の話をしている時の詩織さんは幸せそうですね。そうですね……さっきの話であれば、生前の習慣に従って行動するということなので、やっぱり階段を下りてこのお店に出勤するのではないでしょうか?」
自分でそう答えた瞬間に、はっとする。
新しい建物には地下室はないのだ。だとすれば、私は地面や床を通り抜けていく様に見えるはずだ。
「なるほど……床をすり抜けてどこかに消えていく幽霊譚の出来上がりですね」
私はそう続けた。
「そう。そうなの。幽霊が扉や壁をすり抜ける話があるのは、幽霊の見えているものと、生きている人間が見えているものがズレているから生まれるのよ」
詩織さんは少女のように嬉しそうな顔をしていた。
そこで、木村さんが口を開いた。
「しかし、カフェの怪談に出てくる男性は、扉を開けたから幽霊ではない考えるのは何だか早計というか矛盾しているような気がするのですが……。幽霊だって扉を開けるんですよね?」
そうだ。その話をしていたのだった。
「ええ。それはそうなのですが、私、気になってそのカフェのこと少し調べたんです。そのカフェが入っている建物はですね、三年前に建てられたものらしくて、比較的新しいんです。そして、この三年間、この建物の中はもちろん、その周辺で事故や事件があったという記録はないんです。これも以前お話しましたが、基本的に幽霊というものは、残された者の後悔や恨みといった強い負の感情によって、死者の意思や感情がこの世に縛り付けられてしまうことによって発生する現象です。ですから、普通の亡くなり方をした人間が幽霊となって現れることはまずないんです。もちろん、この建物ができる前に何らかの事件や事故があって、その時亡くなった方が幽霊となっている可能性もあり得ますが……」
「しかしその場合、その頃に無いはずの扉は開けないと……」
木村さんが納得したように言葉を続けた。
「そうですね。もちろん、過去に建っていた建物にも同じ箇所に扉があったという可能性はゼロではありませんが」
「なるほど、するとこの消えてしまった男性は人間だったんですかねぇ。でも、人間が突然消えるなんてあり得ますかね? しかも曰くもなにもない、普通のカフェのトイレで」
木村さんが当たり前の疑問を口にした。そのとおりである。
詩織さんは、声のトーンを落としてこう応えた。
「それは、私にも分かりません。ただ、だからこそこの話は怖いんじゃないですか」
「え?」
私と木村さんが同時に聞き返す。
詩織さんは温度のない声色でさらに続けた。
「どうぞトイレに入る時はお気をつけください。
夜の冷たい風が忍び寄ってくるのを確かに感じた。
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