第7話 氷解 -邂逅-

 私は通い慣れた地下への階段を下る。強い西日に照らされた階段には黒々とした濃い影が伸びる。その影と西日が作り出す赤とのコントラストが強力で、目が痛いほどだった。


 階段の突き当たり、そこには階段に伸びる影よりも深く、重い黒色の扉があった。扉には真鍮のプレートが嵌め込まれ、「夜行」という文字が彫り込まれている。扉は階下に僅かに差し込む夕日に照らされているはずなのに、黒いままだった。


 まるで異界への入り口のようだ。


 ふと足元に目を落とす。階段の影が私の足元まで伸びている。そんな影を見ていると、この中から得体の知れない何者かの手が伸びてきて私を影の中に引き摺り込む……そんなイメージが頭をよぎった。


 全身に嫌な悪寒が走る。


 大丈夫。この扉を開ければあの人がいる。そう、自分に言い聞かせ、にわかに上がり始めた心拍数を抑えようとした。


 私は、嫌な想像を振り払うために力強くドアノブを握る。


 異界への扉がゆっくりと開いていく。


 扉を開ければそこは暖かで落ち着いた雰囲気の空間が広がる、いたって普通のBARである。


 よく磨かれた木製のカウンターの向こうには、いつもの笑顔で詩織さんが立っていた。


「真琴ちゃん、おはよう」


 もう、十七時を回っていたが、夜から営業を開始するBARでは、出勤時に朝の挨拶を交わすことは割とよくあることだ……と思う。実家のBARでもそうだった。


「詩織さん、おはようございます」


 私もごく自然に朝の挨拶を返す。


「なんかあった? なんだか元気がないようだけれど」


 詩織さんが心配そうな顔をして、真っ直ぐ見つめてきた。詩織さんの目は全てを見透かしていそうで少し怖いと感じる時がある。


 私は正直に、扉の前でした妄想の話をした。口に出してみると、なんとも滑稽で稚拙な想像で、そんなものを怖がっていた事に恥ずかしさを覚えた。


 詩織さんは、笑いも、馬鹿にもしなかった。ただ、「そうなの」と小さく頷いてくれた。


 詩織さんは、それから何も言わずに、どこか遠くを見るような目で、私の後ろ、扉の方じっとを見つめていた。


 私は、思わず後ろを振り返る。


 扉は閉まっていたし、もちろん誰もいなかった。


 ほっとして、詩織さんの方に向き直る。詩織さんはまだ物憂げな表情を浮かべて、何かを考えているようだった。


「あの……詩織さん?」


 たまらず声をかけると、詩織さんははっと我に返ったようだった。


「ごめんなさい。ちょっと考え事をしてたの。真琴ちゃんは着替えておいで」


 最近、詩織さんの様子がおかしい気がする。営業中はいつもどおり凜とした雰囲気だが、開店準備中や、後片付け中など、時々ぼうっとしている時がある。そんな時、私はなぜだかとても不安な気持ちになるのだった。


「わかりました!」と、努めて明るく返事をして、私はカウンターの中へと入り、店の裏へと続く扉をくぐった。


 着替えを済まし、開店準備に取り掛かる。作業中に何度か詩織さんの様子を伺ったが、いつもの詩織さんに戻っていた。もちろん、営業中もいつもどおりだった。


 午後九時を少し回った頃、常連のサラリーマンの男性が来店した。


 常連の木村さんは、お気に入りのジンソーダをぐいと煽ると、深いため息をついた。


「今日もお疲れ様でした」


 詩織さんが木村さんに声をかける。


「ああ、ありがとうございます。納期前で一段とね……。まあ、今日でひと段落しましたが」

「それは、良かったです。今夜はどうぞゆっくりしていってください」


 詩織さんの声は優しく、あの霧の中から響くような不思議な音色だった。


 木村さんは、しばらく黙ってグラスを傾けていた。


 木村さん以外のお客様が徐々に退店していき、一時間後には木村さん一人だけになった。


 私は洗い終わったグラスをひとつひとつ丁寧に磨いていた。


 店内に心地の良い静寂が流れる。


 静かにロックグラスの中の氷を眺めていた木村さんが不意に顔をあげ、店内を見渡す。


「やけに静かだと思ったら、僕だけになってしまいましたね」

「ええ。貸切です」


 詩織さん悪戯っぽく答えた。


「なんだか珍しいものを見た気分です。いつもお客さんでいっぱいなので」

「木村さんがいらっしゃるのはいつも金曜日ですものね」

「ああ、そうか、今日は火曜日か」


 木村さんは納得したように頷く。そして、何か思いついたように、ぽんと手を打つと、「そうだ。こんな機会はなかなかないので、是非、新作を聞かせてもらえませんか?」と言った。


 新作とはつまり、詩織さんが蒐集している怪談の事である。


「新作ですか。そうですね……」


 そう言って詩織さんは口元に手を当てて少し考える。


「では、こんな話はどうでしょう?」


 夜行のマスター、いや怪談師の詩織さんが語り始める。


 アンティークランプの白熱灯が揺らめき、店内が少し暗くなったように感じた。


 これは私の知り合いの女性から聞いた話です。


 彼女、手芸、特に編み物が趣味なんです。


 私、不勉強で知らなかったのですが、手芸カフェというものがあるのだそうですね。


 手芸カフェというのは、手芸店に併設されたカフェで、そこでは手芸体験などができるそうなのです。


 彼女には行きつけの手芸カフェがあって、そのお店でお茶をしながら編み物をする時間が何よりも幸せな時間だとおっしゃっていました。


 さて、そんなある日、いつものようにそのカフェでお茶をしながら編み物をしていると、お客さんが入店してきた気配がしたそうです。


 ふと、手元から顔を上げて入口の方を見やると、そこにはスーツを着た四十代から五十代くらいの男性が立っていました。


 手芸店ですから、お客さんはやはり女性が多く、その男性は少し浮いていました。


 なんとなくその男性を目で追ってると、彼はカフェの奥にあるトイレへと真っ直ぐ向かって行きます。


 それを見て彼女は、『ああ、なるほど、お手洗いを借りにきたんだな』と納得しました。


 男性は、トイレへと続く扉を開けて中に入って行きます。


 そんな男性の後ろ姿を見送ったとき、ちょうど彼女もトイレに行きたくなったのだそうです。


 カフェにはひとつしかトイレがありませんでしたから、彼女は男性が出てくるのを席で待つことにしました。


 しかし、五分たっても十分たっても男性が出てくる気配はありません。


 彼女は心配になりました。もしかしたら、トイレで倒れているかもしれない……そんなこと想像し始めると居ても立ってもいられなくなりました。


 彼女は様子を見にいくことにしました。


 先ほど男性が入っていった扉を開けます。扉の先には短い廊下があり、右側には小さな洗面台、そして廊下の突き当たりにもう一つ扉があり、その先がトイレです。


 廊下に男性はいません。やはり、トイレの中にいるようです。


 トイレの扉の前に立ち、耳を澄ましますが、中からは物音ひとつ聞こえませんでした。


 扉をノックします。しかし、返事はありません。もう一度ノックをして、今度は声もかけてみますが、やはり返事はないのです。


 いよいよ心配になってきた彼女は、意を決して、扉を開けてみることにしました。


 ドアノブをひねるとカギはかかっておらず、扉は簡単に開きました。


 恐る恐る中を覗くと、のです。


 普通なら何かの見間違えだと思いますよね。例えば、目を話した隙にトイレから出ていたとか……。


 ただ、彼女、絶対に見間違えなんかじゃない、そう言っていました。


 そもそも、カフェの構造上、トイレから出たとしても店から出るためには、彼女が座っていた席の前を絶対に通らないといけないそうです。しかも、彼女はトイレに入るため、男性が出てくるのを待っていた訳ですから、それに気がつかない訳がないんです。


 彼女、こんなことを最後におっしゃってました。


 『トイレの床にね、一滴の雫が落ちてたの。それで、私思ったの。その男の人、氷みたいに解けてしまったんだって』


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