氷解

第6話 氷解 -胎動-

 目の前の美しい女を見上げる。その女は、小さな眉間に皺をよせ、怒ったような顔をしていた。


 その美しい女は、今は亡き私の母であった。


 私は母に怒られた記憶がほとんどない。


 凪のように静かな人で、声をあげて怒るところなど見たことがない。それどころか、感情を顔に出すことすら滅多にしないような人だった。


 そんな母が、今明らかに負の感情をあらわにしている。その矛先は娘の私である。


 私は、そんな尋常ならざる母の様子にためらいを覚えていた。


「今、なんと言ったのですか」


 母は口を真一文字に結びながら、その澄んだ瞳で私をじっと見つめる。全てを見透かされそうで、私はとても恐ろしかった。


 だから私は泣きながら謝ることしかできなかった。


 すると母は、優しく私を抱くと、頭を撫でながらある話をしてくれた。


 その声は深い霧の中から響くようで、聞き取ることができなかった。


「かあさま、なあに?」


 幼い私は、目に涙を浮かべて母の顔を必死に見上げる。


「なんて言っているの?ねえ、かあさま」


 やはり、母の声は聞こえない。それどころか、その表情までもが霧に包まれ、輪郭を失っていく。


 ああ、ダメだ。また分からなかった。脳の中心が軋むような鈍痛が走るとともに、私の意識は遠のいていった。


 その刹那、霧の中から響くような声がはっきりと聞こえた。


「本物の悪霊は血に憑く−–」


 *


 目を覚ますと、重い郷愁の念が心の中心にどっしりと居座っていて、私は涙を流していた。


「詩織さん。大丈夫かしら」


 目を開けると、先生が少し心配そうな目で見つめていた。


 深くリクライニングした椅子の角度をもとに戻しながら、軽く頷く。脳の奥にはまだ痺れたような感覚があった。


「心に大きな負荷がかかっていそうだったから、起こさせてもらいました」


 おそらく、またうなされていたのだろう。背中と額に冷たい湿り気があった。


「ええ。でも、やはり何も聞こえませんでした」

「焦らなくても良いのよ。最近は悪夢を見る回数も減ってきているようだし。以前にもお伝えしたけれど、何もお母様との思い出を無理に思い出す必要はないの。悪夢自体を見なくなって、心が元気になればそれでいいのよ」


 私は三年前、ある恐ろしい連続殺人事件に巻き込まれた。その犯人は私のごく近しい人であり、最終的には私も命を狙われることになってしまった。間一髪のところで犯人は逮捕され、事なきを得たわけだが、私は強い心理的な傷を負ってしまった……らしい。らしいというのは、これといった自覚症状がほとんどないからである。ただ、それからというもの頻繁にある夢を見るようになった。それは、幼い頃の亡き母との記憶である。


 夢の中の母は、なぜか怒っていた。そして、何かを私に語るのだが、その内容は何一つとして聞き取れない。しかし、夢から醒める直前、一つだけはっきりと聞こえる言葉がある。


 ”本物の悪霊は血に憑く“


 私は、この言葉が妙に気になっていた。


 そして、大切な何かを忘れている様な気がして、強い焦燥の念に駆られるのだ。


 今までも同様の夢を何度か見てきた。しかし、あの事件の後、明らかに頻度が増し、日に日にこの謎の言葉と記憶に脳内を侵食されていく感覚があった。


 私には二つ上に兄がいる。兄は、精神科医であったことから、この夢について相談してみることにした。もしかしたら、当時のことを覚えているかも知れないという期待もあった。


 兄は記憶にないと答えた。しかし、その夢を続けてみるのは良くない傾向だと言う。例の事件のショックにより強い心的外傷を負っていて、それによりPTSDを発症している可能性があると言われた。


 私はこの診断についてかなり懐疑的であった。強い心的外傷により、記憶がフラッシュバックしたり、悪夢に悩まされる病気があるという知識はあったし、それがPTSDという名であるということも知っていた。しかし、私のみる夢は、幼いころの母との記憶である。あの事件の記憶ではない。


 しかし、兄によれば心とは複雑なものであり、事件がきっかけで別のトラウマが発現することもあるとのことであった。


 確かに、あの事件で犯人に監禁され、気を失っている最中にもこの記憶を思い出していた気がする。その経験が過去の記憶とあの事件になんらかの縁を結んでしまった可能性は否定できなかった。


 兄は、知り合いだという虻川あぶかわ ひじりという心理療法士を紹介してくれた。この虻川先生は、催眠療法も行なっているということを知り、私は治療の為というよりも、あの日の記憶を思い出すために治療を受けることにしたのだった。


「詩織さん。今何を見たか話してくれる?」


 先生の優しく、年齢の割には幼く聞こえる可愛らしい声で私ははっとして、思考の海から急浮上する。


 私は、さっき見た夢の細部を語って聞かせる。母が纏う白檀の香り、和室の間取り、床の間に飾ってある母の活けた紅梅、覚えている限り全ての情報を言語化していく。


 そして、夢から醒める直前に聞こえたあの言葉を思い出す。


「それから……」


 途端、この言葉を口にしてはならないという強烈な忌避感が湧き出だす。口に出して仕舞えばきっと良くないことが起こる。そんな確信が心を支配し、私は二の句を告げなくなった。


 先生が私の顔をじっとみつめる。続く言葉を待っている様だ。


「いえ、なんでもありません。これで以上です」


 私はそう告げた。


 月二回ほどの治療を始めて、そろそろ半年が過ぎようとしていたが、"本物の悪霊は血に憑く"という言葉について今だに先生には話せてはいなかった。


 先生は少し眉を動かし何か言いたげだったが、それ以上追求することはせず、優しく微笑んだ。


「視覚だけじゃなく、嗅覚の記憶も再現し始めていますね。良い傾向です。思い出す日も近いかもしれませんよ。ですから、日常生活ではあまりこの夢に捉われすぎないようにね」

「……分かりました」


 私は、嘘をついた時のように心に小さな痛みを感じながら応えた。


「さてと、お茶でも入れましょうか」


 そう言って先生は席を立つ。


 先生はかなりのご高齢で、膝を悪くしているのか、杖をついている。


 よろよろと歩き出した先生を支えるために、私も立ち上がる。しかし、いつものように片手で制されてしまった。


「良いの。座っていて? 私にとってのリハビリみたいなものだから」


 先生は、部屋の隅にあるロココ調のサイドテーブルに近づくと、テーブルにかけられている布を持ち上げる。その下からは銀盆に乗せられたティーセットが現れる。


 もう、何度も見た光景である。


 いつもと違ったことは、手に持つ布を取り落としてしまったことだ。


 先生は辛そうな顔をしながら膝をゆっくり曲げてしゃがみ込もうとした。


 私はたまらず声をかけて、席を立ち落ちた布を拾い上げる。


 それは綿でできており、太陽の様な複雑な美しい紋様が編み込まれていた。


 思わず見惚れる。異国情緒たっぷりのそれは、部屋に差し込む陽光を受けてキラキラと光っていた。


 畳んで銀盆の脇へと置きながら「とても綺麗ですね」と素直な感想を述べる。


「ありがとう。それ、私が編んだのよ」


 手編みだと聞いて驚く。素人目に見ても相当丁寧な仕事で、先生の編み物の腕が並々ならぬものであることは確かだ。


「そうだったんですか。私はてっきり工芸品かと思いました。お上手なんですね」

「あら嬉しい」


 先生は少女のように嬉しそうに笑った。


 紅茶が淹れ終わると、私たちはティーカップを持って、各々の席へと戻り、恒例のお茶の時間が始まった。

 先生は、午前と午後の二回だけしか面談しない。一人一人に時間をかけたいというのと、ご高齢のため体力的にもそれが限界なのだという。だから、時間はたっぷりとあり、面談が終わるといつも私たちはお茶を片手に雑談をしていた。

 そもそも催眠をかけるためには相手に心を開いてもらう必要があり、このお茶会は、心理的ハードルを取り払うための治療の一環だと私は認識していた。


「詩織さんは、編み物はやったことあるかしら?」

「いえ、ありません。手先が不器用なものですから……」

「それは意外ね」


 先生は目を丸くする。


「これといった趣味は、例の怪談蒐集くらいでしょうか」

「そうだったわね。あ……」


 先生は何かを思い出したような顔をする。


「どうかしましたか?」

「いえね。怪談、というわけではないのだけれど、私この間不思議な体験をしたのよ」


 ”不思議な体験“と聞いて、にわかに心が浮き立つ。


 我ながら相当おかしな女だと内心苦笑いをする。


「と、いうと?」

「本当に怪談が大好きなのね。目が爛々としているわ」


 先生は可笑しそうに笑う。


 私も笑いながら応える。


「唯一の趣味ですから」

「そうね。私も毛糸玉には目がないもの。それでね。私の良く行く手芸店で体験したのだけれど……」


 先生は、少し声を顰めると、こう続けた。


「目の前でね、人が消えたのよ」


 どこか遠くで、獣の咆哮の様な声が聞こえた。

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