死臭

第1話 死臭 -胎動-

ここは、東京郊外K市にある一軒のBAR。

屋号を「夜行」という。

今宵も様々な怪談が語られる。


 私はその夜、黒く重たい黒檀製の扉の前に立っていた。その扉には、真鍮製のプレートが埋め込まれており、そこには、店名である「夜行」という文字が黒々と彫り込まれていた。まるで異界へと繋がる扉のようだった。


 私は、普段あまり酒を飲まない。


 それでも、この店を訪れたのには、ある理由があった。


 ここならば、いや、この店の店主であれば、長年抱えてきたある持病について、何かわかるかもしれない。そう思ってのことだった。


 この異界への扉の前に立つと、徐々に期待で胸が膨らんでいく。もう、すでにこの雰囲気にあてられ、酔わされているのかもしれなかった。いや、実際酔っていたのだと思う。BARなどに普段は通わない訳で、緊張していた。だから、緊張を紛らわせるために、ここを訪れる前、夕飯がてら居酒屋で少々アルコールを入れてきたのである。


 胸が高鳴る。それは、緊張からなのだろうか、それとも、期待感からなのであろうか。


 何にせよ、今宵、私のこの特異な病について、この店の店主に語ろう……そう心に決めて私は、異界へと続く黒く重たい扉を開いたのであった。


 扉を実際に開けてみると、実に軽快に滑らかに開き、少々拍子抜けしてしまった。


 そして、店内の雰囲気は、さらに想像とかけ離れていた。暗く、重く、どろりと澱んだ空気が充満していると勝手に想像していた。しかし、目の前に広がる店内は、明るさこそ通常の居酒屋や飲食店よりもずっと控えめであるが、暗いと感じるほどではなかったし、何より、瀟洒しょうしゃな調度品でまとめられた店内は、今入ってきた扉とは全く異なる趣で、温かみを感じる雰囲気であった。


 私は、期待感が少し萎んでいくを感じた。


 呆気にとられて、ぼうっと立ち尽くしていると、この店の店主であると思しき女が声をかけてきた。


「いらっしゃいませ。おひとり様でしょうか」


 その女の声は、霧の中から響くような、それでいてはっきりと聞こえる不思議な声色だった。


 私は、彼女を一目見た瞬間に声を失い、小さく頷くことしかできなかった。


 というのも、この女、明らかに一般人とは一線を画す、ただならぬ美しさを纏っていたのだ。それは、少々対人恐怖症のきらいがある私にとっては、恐怖を感じるレヴェルであった。肩口で切り揃えられている髪の毛は、鬼火のように怪しく濃紺に輝く。顔の全てのパーツは、神が定めた黄金比で精密に配置されている。特に、瞳が恐ろしく美しかった。形もさることながら、その眼球はまるでガラス細工かのように艶がある。しかし、少女のような無邪気な煌めきはそこにはない。見る者を全てを無条件で包み込む様な、深い夜が広がっている。そして、その夜の奥に、篝火の様な確かな光が見えた。その美したるや、私など、羽虫の如く絡め取られてしまうと本能的に感じた。


「では、こちらへどうぞ」


 店主は、あくまで優しく、そして不思議な声色で私をカウンターの一席へと導いてくれた。


 私の右側には、一席開けて女性が座っていた。ちらりと盗み見たその女の横顔は美人と言って差し支えないのだろうが、しかし、目の前の店主と比べると、まさに月とすっぽんであった。


 はたと、至極失礼なことを考えていると気がつき、もぞもぞと姿勢を正して目の前の酒瓶が所狭しと並んだ棚を見る。


 知らない洋酒ばかりだった。


 この中から、銘柄を選択し、注文しなければならないのかと少々焦り始めた時、店主がおしぼりとメニューを持ってきてくれた。


「本日はお疲れ様でございました。こちら、お絞りとメニューでございます」

「あ、ありがとうございます」


 やはり緊張しているのか、舌がうまく回らなかった。


 メニューにさっと目を通すと、やはり知らない洋酒の名前が並ぶが、生ビールの文字を見つけて安堵する。


「あの、生ビールをひとつ」


 そう、注文した瞬間、BARでビールとは、無粋なのではないかと、急に心配になってきた。


 しかし、店主は特段なにも感じていないのか、または、ポーカフェイスで本心を隠しているのか、眉ひとつ動かさず、「かしこまりました」と一言、カウンターに取り付けられている蛇口の様なものに近づくと、グラスを取り出し、その蛇口から生ビールを手際よく注ぎ始めた。


 私は、首の動きを最小限に、なるべく眼球のみを動かしてカウンター客の飲み物を確認する。


 右側の女性客のグラスには、見覚えのある琥珀色の液体が注がれていた。それがビールであると分かると、少し安心した。


「どうぞ」そう言って、店主は私の前に注いだビールを丁寧においてくれた。


 グラスを持つ、白く、細っそりとした手首が美しく、目が離せなかった。


 私は、緊張を紛らわせるため、ビールを大袈裟に煽った。グラスの半分ほどのビールを喉に流し込むと、炭酸の刺激と独特の苦味が喉奥から鼻に抜けていった。その後からアルコール香が胃の中からじわりと込み上げる。すでに素面でなかったが、先ほどから色々な意味で緊張して増血中の体の末端まで、アルコールが行き届いていく感覚がする。


 明らかに酔っていた。


 しかし、どういうわけか今夜は、それが気持ちがいいと思った。


 ああ、これが酒飲みの愉悦なのか……と妙にに納得すると同時に、何だか楽しい気分になる。


「ビール、お好きなのですか?」


 店主が声をかけてきた。


 もしかしたら、無意識的に口角が上がっていたのかも知れない。


 普段なら、美人の異性に話しかけられるというシチュエーションは、しどろもどろになるところであるが、今日は酔っていたし、そしてそれを自覚もしていたので、多少気楽に返答することができた。


「いえ。普段はお酒というものをほとんど飲まないのです。もちろん、付き合い程度、グラス一杯程度であれば飲みますが……」


 店主は、一切顔色を変えることなく、優しい声色で「そうでしたか」と答えた。


 酔っていたことも手伝って、私の口はいつもより滑らかに回った。


「いや、酒飲みではない男がBARに来ていることを不思議にお思いでしょう?」

「いいえ、そんなことはありません。このお店は、とてもありがたいことに色々なお客様がいらっしゃいます。中には、一滴も飲めない方もいるのです」


 店主は、「ですから……」と言って、カウンター内側の酒瓶が並ぶ棚の一角に立てかけられた黒板を指し示す。


「ノンアルコールカクテルもご用意しています。季節ごとに使用するフルーツを変えていて、今は、秋なので巨峰と梨のカクテルがあります」


 一滴も飲まない人間が常連になるBARがこの世にあるとは思わなかった。


「そうなんですか。次は私もノンアルコールにしようかな。いや、少々酔ってしまったようでして」

「そうですか。今、お水をお持ちいたしますね」


 そう言って、店主はアンティークなのだろうか、美しい意匠が施された水差しからグラスに水を注いで出してくれた。


「ありがとうございます。それで、あの……お酒を飲まない方がこのお店に通うのは、やはり、その……」


 なぜか、急に恥ずかしくなり、口籠もってしまう。私の目的は、なのに。


 店主は、ああ、なるほど、といった顔をすると、微笑みながら答えてくれた。


「そうです。そういった方々は、怪談師としての私に会いにきてくださるお客さまなのです。お客様も、御用がおありなのですね?」

「実は、そうなのです。いや、純粋な客ではなく、申し訳ない」


 すると店主は、私の居辛さというかバツの悪さを感じとったのか、優しい声色で続ける。


「いいえ。とんでもございません。どんな方であれ、あの扉を開けてお入りくださった皆様は等しく、お客様でございます」


 私は何だか許されたような気がして、心がすっと軽くなった。


 すでに、店主の術中に嵌っているようだ。

 

火照った頬を覚ますために、注がれた水を一口飲む。

 

 ここまで、言ってくれているのだから、あの話をしてみようか……そう思って、私は口を開きかけた。

 

 その時、私の右側に座っていた女性客が口を開いた。


「詩織さん。ほら、私のした、あの話をしてあげたら?」


 私は、その客の方を反射的に見る。

 

彼女と視線が合うと、彼女は軽く会釈をして、明るい声で続ける。


「勝手にすみません。私もお酒苦手で……。ちょっと、親近感? というか仲間意識的なものが芽生えてしまって」


 そう彼女は可愛らしく笑った。

 

 どうやら、彼女も怪談師としての店主の客らしい。


「それは、光栄です。それで、そのお話というのは……」


 私は、不快感を与えない様に、努めて気さくに答えると、彼女は安心したような顔をして続きを話てくれた。


「私、ある病院で看護師として働いているのですが、そこの先輩看護師の人に不思議な力を持っている人が居るんです」

「不思議な力……ですか」


 心拍数がわずかに上昇した。


「ええ、そうです。その人、


 その時、どこか遠くで微かに、獣の咆哮のような声が聞こえた。

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