第32話 牛女 -終 二の幕-

 ここは東京近郊K市にあるBAR「夜行」


 今日も様々な怪談が集まる


「詩織さん」


 目の前の山下さんに声をかけられ、ふと顔を上げる。


 山下さんは、柔和な笑顔で空になったグラスを掲げて、「おかわりをお願いします」と言った。


「かしこまりました」


 彼はいつになく上機嫌であり、お酒のペースも、いつもよりもはやい。しかし、山下さんは至極落ち着いた飲み方をする方であり、無茶なペースで飲んで、泥酔するということはないだろう。事実、彼が酔い潰れたところをみたことがない。


 とはいえ、お客様の微妙な変化を察知し、それに適したサービスを提供するというのも、バーテンダーとしての重要な仕事である。人間には、酔いたい日というのも確かにあるのだ。


「ところで、今日は、いつもよりペースがはやいようですね。なにか良いことでもありましたか?」


 そう尋ねると、彼は嬉しそうに、多少はしゃいだ様子で上機嫌な理由を語ってくれた。


「いや、実は次期学長が今日やっと決まりまして……。私は、大学内のポストなどには全く興味がないのですが、中には野心だけで生きているような人間もいましてね、少なからず闘争というのもあるのです。そんな興味のない権力争いに否応なく巻き込まれるというのはあまり気持ちの良いものではありませんから。やっと解放されて、それでまあ、多少気分が良いわけです」


 なるほど、確かに興味のない戦いに巻き込まれるのは煩わしいのだろう。開放感から、お酒のペースが上がるというのも頷ける。そう言った“区切り”では、普段飲まないようなお酒を飲むというのも気分が良いものだ。山下さんはあまりビールは飲まないが、その理由は苦手なのではなく、健康を気にしてのことだと以前伺っていた。むしろ、好物なのだという。


「それはお疲れ様でした。では今日は特別にビールなどいかがでしょうか。少し珍しいクラフトビールを入荷したのです」


 ぱっとさらに顔色が明るくなる。


「なんと魅力的な提案。いや、ありがとうございます。今日はビールを飲んでも良いですかな?」

「もちろんです。今日は特別ですから」


 微笑みながら答える。


「では、お言葉に甘えて」


 飲む前から本当に嬉しそうである。


 私は、入荷した三本のクラフトビールの瓶をカウンターに置き、それぞれの特徴などを説明する。山下さんは黒胡椒の香づけをした一本に興味があるらしく、それを注文した。


 提供したビールをまるでCMのように、それは美味しそうに喉を鳴らして飲む。お酒を提供する側からすれば、こんなに嬉しいことはない。私もつい笑顔になってしまった。


「ところで、詩織さん」


 グラスを置いた山下さんに声をかけられる。


「はい。なんでしょうか?」

「詩織さんは怪談がお好きですよね?そこで、ちょっと気になったのですが、最も怖い怪談というのはどういったものなのですか?」


 “最も怖い怪談はなにか?“という質問や、”一番怖い怪談を聞かせてほしい“という要望は定期的にあるのだが、これは、かなり難しい質問であり、毎回悩んでしまうのだ。

 

 怪談と言ってもそのジャンルは多岐に渡り、そして人によって、恐怖の根源は異なるからである。


 しかし、人間が恐怖するためのちょっとした“こつ“というものは存在する。それは、“自分にも起こるかもしれない“というシチュエーションである。そういった怪談は、聞く者が感情移入しやすく、かつ、聞き終わった後も、自分にも同じことが起こりそうな気がして、何でもない夜道が怖くなったりする。


 例えば、一人暮らしを始めたばかりの人間には、部屋で起こる怪談が怖いだろう。


 逆に、心霊スポットが舞台の怪談は意外と怖がらない人が多い。なぜなら、そんな危険なところにそもそも行かなければ、恐ろしい目に遭わなくて済むのだ。つまり、聞き手からしたら“対岸の火事”なのである。


 それを踏まえると、最大多数の最大恐怖という意味では、おそらく--


「そうですね。が出てくる怪談ですかね」


 そう答える。


「ほう」


 山下さんは、目を細める。


「自分も同じ目に遭うかも知れないという危機感が人を恐怖させます。そういう意味では、心霊スポットが舞台の怪談は、現実感が薄く、やはり日常に潜む恐怖の方が万人を恐怖させることができると思います。この怪異は、行き遭っただけで死ぬのですから、誰にでも起こりえるといえます。そして、その結果は、考えうる中で最悪と言っていい”死“です」

「なるほど。確かにそれはそのとおりですね。しかし、その“行き遭っただけで死ぬ”というのは、例えば牛鬼うしおになんかですか?」


 さすがは、呪いを専門に研究する民俗学者である。妖怪や怪異のような伝承にも精通しているのだろう。


 この牛鬼という妖怪は、近畿地方や四国地方の伝承によくみられる。頭が牛で体は鬼と言われたり、またその逆であるいう伝承もあり、その姿は捉えどころがない。出現場所は多岐に渡り、山、海、川、おおよそ人気のない場所にはどこにでも現れるという厄介な妖怪で、人を喰うと伝えられてる、ほぼ、出会ったら確実に死ぬことになる妖怪のひとつである。


「そうです」


 山下さんは、「ふむ」と納得した様子ながら、一つの疑問を口にする。


「先ほど、詩織さんは、“得体の知れないモノ”とおっしゃりましたが、怪談なのですから、その怪異の得体が知れないというのは当然なのではないのですか?」


 そのとおりである。


 私は日頃から、“怖い”怪談には三つの重要な要素があると考えている。それは、“得体が知れないこと“、”実害があること“、”悪意が存在していること“の三つである。


 この中で、怪談の本質は、“得体が知れないこと“だと考えている。他の二つの”実害があること“、”悪意が存在していること“という要素は、殺人鬼が登場するようなサスペンスでも見られる。しかし、得体が知れないモノが出てくる話は、必ず怪談に分類される。例え、その話が怖くなかったとしても。


 怪談なのだから、得体の知れないモノが出てくるのは、当たり前なのでは?という山下さんの疑問は全くもってそのとおりなのである。


 しかし--


「“得体が知れない”ということには、程度、レベルがあるのです」

「レベル?」

「そうです。例えば、吸血鬼は、人の生き血を飲んで生きる怪異であり、間違いなく、“得体の知れないモノ”ですよね?」


 彼は、頷く。


「しかし、この吸血鬼という怪異はかなり正体が暴かれているのです。正体というよりも、生態と言ったほうが良いかも知れません。吸血鬼は十字架やニンニクが苦手なことは、ご存知ですよね?」

「ええ。知っています」

「この他にも、吸血鬼の生態はかなり事細かに言い伝えられています。例えば、日光を浴びると死ぬ、心臓を銀製の杭で打ち抜くと死ぬ、この辺りは有名ですが、他にも、川を渡ることができない、家主が招き入れない限り人家に入ることができない、などなどです」

「何だか、弱点ばかりですね」

「そうなんです! 弱点ばかりなのです!」


 私は、まさに言わんとしていたことが彼の口から出てきたことが嬉しくなり、つい興奮気味に答えてしまう。


「この吸血鬼という怪異は恐ろしいのです。しかし、恐ろしすぎました。人間は、恐ろしい存在を、恐ろしいままにすることはできません。ですから、その対処方や弱点というものが必ず生まれてくるのです。口さけ女は、べっこう飴が好きだとか、“ポマード”と唱えると怯むだとか、猛威を振るった怪異には必ずそのワクチンが作られるのです。このワクチンの種類の多さが、その怪異がいかに恐れられていたかを表す指標の一つだと、私は考えています」

「つまり、詩織さんが考える最恐の怪談に出てくる“得体の知れないモノ”というのは、吸血鬼や口さけ女のような、暴かれた存在ではなく、本当の意味で得体の知れない存在ということですね?」


 山下さんは、納得したような様子でそう言った。


「そのとおりです。その出自しゅつじも、現れる条件も、人を殺す理由も全くわからない怪異は非常に恐ろしいです。その生態が謎に包まれていれば、当然対処のしようがないですから。まさに怪異なのです」

「いやはや、確かにそのとおりですな。そんなモノに出逢わないように祈るしかない」


 山下さんは笑いながら言う。


 そのとき、何かを思い出したように、口に手を当て、「そういえば…」と眉をひそめ、小声で続ける。


ちまたで話題の黄色いトレンチコートの女も、その目的が不明という点では、この恐ろしい怪異と同じような属性ですね」


 この、黄色いトレンチコートの女というのは、最近このK市の周辺で発生している連続不審死事件の容疑者のことである。“不審死“という表現があてられるのは、被害者の死因が特定できないため殺人とは断定できないからである。


 とある大学生カップルの不審死を皮切りに、そのカップルの女性が襲われている現場を偶然目撃した高校生のカップルの二人も、現在失踪中とのことで、必死の捜査が続いている。しかし、状況は芳しくないらしく、報道こそされないが、皆、二人の生存については悲観的に捉えていた。


 明らかに何者かに襲われて死者が出ているのにも関わらず、その死因が“心臓麻痺“であるという事実は、この事件を何か怪談めいたものにしていた。実際、この女を悪霊の類に分類し、男に振られて自殺した女が幸せそうなカップルを見つけては取り殺しているという怪談が流布し始めていた。


 怪談として捉えれば、その女と邂逅してしまえば、死ぬことになるという意味で、牛鬼のような属性なのかも知れない。


「確かに、そう言えるかも知れませんね」と答える。


「牛鬼ならぬ、牛女うしおんなですな」


 そう、山下さんはつぶやくと、グラスに残ったビールを飲み干した。


 -りん-

 どこか遠くで鈴の音が響いた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る