第31話 牛女 -終 一の幕-

 河野こうの 良平りょうへいは、恋人である石上いしがみ はなとの待ち合わせ場所である神社へと急いでいた。


 時刻は二十一時半を回ったところだ。


 家を出たのが十分前、その時点で約束の二十一時を過ぎていた。


 携帯に連絡を入れれば良かったのかもしれないが、期末テストの結果が芳しくなかったため、母親に携帯を没収されていた彼にはそれもできなった。


 彼女は、高校のクラスメイトであり、一年生の一学期から抱いていた恋心が実り、晴れて恋人関係となったのが、今年の六月。今、彼らは、幸せのピークと言ってよく、若い二人が恋に夢中になるのは、仕方のないことだった。


 そのため、その幸せの大きさに比例するように、彼の学業成績は下降の一途をたどり、ついに母の堪忍袋の緒が切れたというわけである。


 携帯を没収されたところで、彼らの恋路を邪魔できるわけもなく、むしろ多少の障害があることで、二人の恋への情熱はより一層燃え上がり、彼らは、夜な夜な家を抜け出し、秘密の逢瀬をするようになった。もちろん、家の者に見つかれば、ただでは済まないのだろうが、いけないことをしているという背徳感に、二人は酔っていた。そして、その酔いは若い二人の抑圧された情動を解放する。彼らは、夜ごと、体を重ねていた。


 だからというわけではないが、彼にとっては、おそらく彼女にとっても、この夜の二人の時間がただ今の人生の中で最良かつ最重要であった。


 もしかしたら、遅れたことに愛想を尽かし、帰ってしまうかもしれないと思うと、走らずにはいられなかった。


 おまけに今日は金曜日である。今日を逃せば、携帯のない彼は、週末の予定も相談できず、次に会って話ができるのは月曜日だった。今の彼にとって、たった二日間ですら、永遠に思えた。


 彼は、自分の母親に腹を立てていた。

 

 そもそも携帯を没収したのも母であるが、今遅れているのも母親のせいである。そろそろ家を抜け出そうとそわそわしていた彼を呼びつけ、学業成績のことで小言を言ってきたのである。期末テストの点数が悪く、携帯まで没収するというある種の”罰”を与えたものの、母親には、息子が勉強しているようには見えなかったからである。


「くそっ」


 小さく悪態をつきながら、夜道をひたすらに走る。十二月の身を切るような寒さで、肺が凍えて痛むのだろう、胸を押さえ、息も絶え絶えになりながら、待ち合わせ場所の神社へと続く石段の前についた。彼は、石段を一息に駆け上がる。


 石段を上った先には、太鼓橋がかかっており、その先に本殿があった。


 息を整えながらゆっくりと、太鼓橋を渡り始める。橋の頂点まで進むと、本殿まで続く石畳が見え、そこに、彼女がいた。しかし、彼はいつものように明るく声をかけることはできなかった。


 なぜなら、彼女は本殿へと続く石畳の上に、うつ伏せで倒れていたからである。彼が、即座に、その倒れている人間が彼女だと認識できたのは、その人間が彼女のお気に入りの淡いブルーのダッフルコートを着ていたためだ。


「花!!」


 彼女の名前を叫んで駆け寄り、抱き起す。


 腕の中の彼女は、目を閉じ、動かないものの、静かに息をしていたし、確かなぬくもりがあった。ざっと全身を見てもどこかから血が流れているということもなく、傷もなさそうだった。とりあえず安心する。なぜ、彼女が倒れているのか、その原因を探るべく、彼は周囲を見渡した。


 彼女と本殿の間、つまり、石畳をさらに奥へと進んだところ、今いる位置から三メートルほど離れた位置に、女があおむけで倒れていた。知らない女だった。


 その女はだらりと脱力した四肢を大の字に投げ出し、頭を反らせて、こちらを向いている。女の瞳は白目をむき、だらしなく開いた口からは舌が飛び出ている。誰がどう見ても死んでいた。


 彼は、声も出さなかった。恐怖というよりも驚きの方が大きかったのだろう。


 身動きが取れず、ただ、呆然とその死体を眺めていた時、腕の中の彼女が大きく息を吸い込む。意識を取り戻したようである。彼女は、自分が何者かに抱きかかえられていることに気が付き、叫び声をあげながら、彼を突き飛ばした。


「いやぁあああああ!!!」


 突き飛ばされた彼は、そのまま、後ろに倒れこみそうになり、後ろ手をつく。


 彼女を落ち着かせるために、大声で声をかけた。


「花!! 俺だって! 大丈夫だから!!」


 彼女は、自分の突き飛ばした男が、恋人であるとわかると、目に涙を浮かべて、抱きつく。


「おい。どうしたんだよ」


 彼女は、彼の胸にしがみつきながら、震える声で訴える。


「黄色いコートの女の人が……!」


 彼は、思わず、目の前の死体を見やる。しかし、その女の服は黄色ではない。


「何言ってるんだよ。花。落ち着けって」

「黄色いコートの女の人が、その人に馬乗りになってて……その女、顔がなかった!!」


 彼の顔が恐怖で引きつる。そいつがこの女を殺したのかもしれないという考えに至り、そして、この暗く、人気のない神社のどこかに、その殺人犯がまだいるのかもしれないと思っているのだろう。


 その時、彼の右側で微かな物音がした。


 腕の中の彼女は、「ひっ」と小さな悲鳴を上げて、彼の胸に顔をうずめて、固く目を閉じる。


 彼は、彼女を強く抱きしめると、音のした方を振り向く。


 誰もいない。


 しかし、彼は何かの気配を感じ取ったのか、勢いよく後ろを振り向く。


 そこには、黄色いトレンチコートを着た女が後ろ向きで立っていた。


 腰当たりまで伸びた黒々とした髪を夜風になびかせ、うつむき、だらりと脱力させた両の腕。脱力した腕とは対照的に、その掌は、獲物に爪を立てるかのように殺意に満ちた形をしていた。


 しかし、その女は、殺意をこちらに向けることなく、振り返ることすらなく、滑るように太鼓橋の方へと進み、闇の中に静かに消えた。


 *

「おい、そこの空席、誰だ?」


 会議室の前方の長机にこちらを向いて座る捜査本部長の飯塚が、自分の席の隣の空席を指さし大声を出す。


 心の中で悪態をつき、立ち上がり答える。


「うちの小坂です」


 飯塚は、それを聞くと、さも苦々しいといった顔を浮かべると、非難してきた。


「捜査会議に遅刻か? 一体、どういう指導をしてるんだこの署は」

「指導係は自分ですが?」


 つい、反抗的な態度をとってしまったが、まったく後悔はなかった。


 飯塚は、ぴくりと眉を吊り上げると、「君、名前は?」と聞いてきた。

「伊丹ですけど」


 それが、何か?というニュアンスを込めて答える。


 それが癪に障ったのか、さらに嫌味ったらしく「伊丹君。それで、なぜ君の部下は捜査会議に遅刻しているのかな?」と聞いてきた。


 小坂は、被害者の友人で、事件当夜一緒にいて、犯行を目撃していた佐藤さとう 奈緒なおに再度聞き込みにいっているはずだ。


「部下ではなく、今は相棒ですが、小坂は、あなたの指示どおり、佐藤 奈緒に事情を聞きに行ってます。そろそろ戻ってくるんじゃないでしょうか」


 そう答えると、飯塚は、ふんと鼻を鳴らし、それ以上追及することなく、会議の開催を宣言した。


 事件は、十二月十日の二十三時過ぎに発生した。


 K市にあるY寺児童遊園地、遊園地と言ってもごく小さな公園であるが、そこで、小さな酒宴をしていた二人組の大学生男女、西城さいじょう ひろしと佐藤 奈緒は何者かに襲わた。その場から逃げることのできた佐藤の通報により、警官が現場に急行したところ、遺体となった西城を発見した。


 当初、佐藤は相当な混乱ぶりで、事情聴取に対しては支離滅裂な発言を繰り返していたらしい。しかし、黄色いトレンチコートを着た女に襲われたという証言だけははっきりしており、事件性が認められたため、本庁から捜査一課の刑事が派遣され、初動捜査に当たった。しかし、必死の捜査の甲斐なく、発生から五日たった今日も重要参考人である黄色いトレンチコートの女の行方は分からずじまいだった。


 それどころか、一回目の司法解剖では、その死因すら特定できなかった。そして、昨日、捜査本部が設置され、本庁から捜査本部長として飯塚が派遣されてきたのだった。

 

 第一回目の捜査会議で、飯塚は小坂にもう一度、佐藤に事情を聴くように指示し、小坂は、今日の朝に聞き込みに出かけて行った。今は、昼の一時過ぎである。いくら何でも遅すぎる、そう思った。


「ったく、なにしてんだ。あいつは」


 飯塚に聞こえないように、小声で悪態をついた。


 捜査会議は滞りなく、つまり捜査になんの進展もなく進行していき、飯塚はますます苛立ちを募らせているようだった。


「次! 司法解剖の再鑑定の結果は?」


 飯塚が吼える。


 担当の刑事が起立して、鑑定結果を報告する。


「外傷は見られず、体内から薬毒物の類は検出されませんでした。やはり、心臓麻痺によるものであるとの見解です。報告書によれば、急激に体温が低下した場合、血圧が急上昇し、心臓麻痺に至るケースがあるとのことでした」

「一回目と同じ見解か。しかし、だったら、黄色いトレンチコートに襲われたという佐藤 奈緒の証言はどうなるんだ! 見間違えとでも言うのか!」


 そう問われた、担当の刑事は、「それは……」と口ごもる。


 そんなこと、この会議に参加している全員が疑問に思ってるだろうとため息が出そうになる。


「佐藤 奈緒への事情聴取はどうなってる!」


 飯塚は、そう発言した瞬間、肝心の担当刑事が遅刻で捜査会議に参加していないことを思い出したらしく、ますます不機嫌な顔になり、なぜか俺をにらみつける。


「担当は、遅刻してて不在だったな。まったく! ほかに、何か進展のあるものは?」


 誰も、答えなかった。


 今日は、このままお開きだろうな、そう思っていた時だった。


 会議室のドアが勢いよく開き、小坂が駆け込んできた。


 彼は、息を切らし、尋常ならざる様子である。


 捜査会議に参加する全員が、小坂を見つめる。


 遅刻の理由を聞くためだろう、飯塚は、


「それで?」と声をかける。


 小坂は、息を整えると、顔を上げて叫んだ。


「N神社で、佐藤 奈緒の遺体が発見されました! 二人組の高校生カップルが第一発見者のようですが、を目撃したそうです!」

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