牛女
第30話 牛女 -胎動-
東京近郊K市のとある公園にて。
時刻は二十二時を回ったところだった。
公園に一つ置かれたベンチに若い男女が座って話をしていた。
季節は十二月中旬。朝晩の冷え込みは厳しく、今夜もかなり冷え込んでいる。
女は、底冷えするような冷気に思わず体を震わせると、コートの前をかき合わせる。
男は、白いビニール袋から、缶を取り出すと、女に手渡す。
女は礼を言ってそれを受け取ると、毛糸の手袋をはめたままの両手でそれを包み込むと、自分の頬へとあてがう。
「あぁ、あったかい」と女は感嘆の声を漏らした。
男は、女と少し間隔を空けて座っている。その、空いたベンチの上に、コンビニで購入したのであろう、おでんを慎重に置く。おでんからは温かな湯気がもうもうと立ち上がっていた。
男はビニール袋の中に手を突っ込み、ガサガサとやりながら首を傾げる。
「あれ? 割り箸一つしかないや。二本入れてって頼んだのになぁ。まぁ、いいか」
袋から取り出した割り箸の包装を破き、女に差し出す。女は、首を横に振って、「お先にどうぞ」と答えた。
男は、大根を箸で一口大に切ると、口に入れる。大根は、しっかり熱かったようで、男は口を金魚のように、はふはふとやりながら、咀嚼する。その度に、口からは白い湯気が蒸気機関車のように出ていた。
その様子を女は、実に愉快そうに見ながら、手の中の缶コーヒーを開けて飲んだ。
男は、「ああ! あったまるー!」と少し大袈裟に言うと、缶ビールを取り出して、プルタブを起こす。カシュッと小気味いい音が響く。男は、缶を仰ぎ、喉を数回鳴らしながら、うまそうにビールを飲んだ。
「こんなに寒いのに、よく飲めるね?」
「いや、飲めばあったくなるじゃん。奈緒も、お酒にすれば良かったのに」
「私は、今日は飲みすぎたから」
男は少し残念そうにする。
しばらく二人は一本の箸でおでんをつつきながら、他愛のない会話をしていた。
「しかし、寒いな……」
小宴の後片付けをすました男がコートの中に手を突っ込みながらぼやく。
「ビール飲んだからでしょ?」と女は笑っていった。
しばらく黙っていた男は、少し緊張した面持ちになる。男は、そろりと、腰を浮かせると、さっきまでおでんを置くために開けた彼女との距離を詰める。
肩と肩が触れ合うかどうかといった距離感である。
男は、緊張しているのか、背中を背もたれから浮かせ、背筋を伸ばして座っていた。
女はゆっくりと、もたれかかるように体を預け、男の肩に頭を乗せた。
「どうした?」
男が問いかける。
「んー。何でもない」
「何でもないってなんだよ」
「ちょっと、寒いだけ」
それを聞いた男は、意を決したように、女の名を呼ぶ。
「なぁ、奈緒」
呼ばれた女は、顔を上げると男の横顔を見上げる。
男は女の方に顔を向け、二人は見つめ合う。
女は何かを期待するような、熱っぽい目をしていた。
一瞬の沈黙ののち、女は、目を瞑った。
男は、ゆっくりと女に顔を近づけると、小鳥のようなキスをする。
女は目を開くと、「それだけ?」と、掠れた声でつぶやいた。
次の瞬間、二人は、お互いの肩に腕を回して抱き合うと、唇を強く押し当て、貪るように舌を絡めた。
二人しかいない夜の公園に、二人の熱い吐息だけが響く。
しかし--
幸せの絶頂にいた、二人の視界の端に、ちらりと黄色いものが映った。
先にそれに気がついた女が、キスをしたまま、そちらの方に目をやる。
そこには、一人の人間がいた。
突然のことで驚いた女は、男を押して自分から引き剥がす。
男は、怪訝な顔で、彼女の横顔を見つめる。そして、彼女の向いた方を見やる。
黄色のトレンチコートを着た髪の長い女が俯きながら立っている。
公園に一つしかない電灯の下、まるでスポットライトを浴びるような格好で立つ女は、その存在自体が非現実的であった。
彼らは危険を直感する。
そこから、筋肉が強張り、動けなくなる。
女は、ゆっくりと顔を上げる。
二人は、女から目を離せない。
面をあげた女には、顔がなかった。
正確には、顔のあるべきところには、夜の闇が広がっていた。そして、その闇の中、大きな目玉が二つ浮いていた。
突如、その目玉の下に、闇の中から歯が浮き出る。
その女は嗤っていた。
そして、ゆっくりと二人に近づいてきた。
二人は同時に悲鳴を上げた。
男は反射的に隣にいた女を突き飛ばすと、「逃げろ!」と叫んだ。
女は、過呼吸に陥ったかのように、息を荒げながら、なんとか立ち上がると、出口へと向かって走りだす。
公園を出る時、ベンチの方を振り返える。
黄色いトレンチコートの女が男に覆いかぶさっているのが見えた。
次の瞬間、男の絶叫が聞こえた。
女は、もう男は助からないと直感したのか、その後は振り返ることはせず、全速力で走り、夜の闇の中へと消えていった。
男は、ベンチの背もたれに大きく、よりかかる形で、目を恐怖に見開き、だらしなく開けた口から泡を吐きながら、絶命したのだった。
黄色いトレンチコートの女は、もう、どこにもいなかった。
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