第28話 幸せの赤い糸 -解 大詰め-

「なんですって!?」


 自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。


「いや、だから、ここの住所、僕の住んでるマンションの隣の部屋なんですって!」


 小林君は片手で口を覆いながら、ぶるぶると震える。


「ほら、伊丹さん、覚えていますか?僕が、隣の住人は四又してるって言った、あの部屋ですよ!」


 そう、問われた伊丹さんは、思い出したように手を叩く。


「ああ! 確かにそんな話をしていたな! じゃ、じゃあ、小林君が見た女性っていうのは、皆、カウンセリングを受けに来た人だったのか。」


 小林君は、まだ信じられないといった風で続ける。


「中には、夜に来て、明け方帰るという人もいたので、僕はてっきりそういうことかと……」

「それほんと?」


 思わず、割って入る。


「ええ。ほんとに、たまたまだったんですが、僕の帰宅時間に部屋に入っていった女の人を、次の日の朝、ゴミ出しのタイミングでも見かけましたから……」

「ということは、伊丹さんの娘さんは、その部屋に泊まっている可能性が高いですね」


 伊丹さんは、確かに、と大きくうなずいた。


「どうしましょう。今から行ってみますか?」


 すでに一般的な生活を送る人間であれば、すでに就寝していると考えられる時間であるが、先ほどメールの返信が来たということはまだ”俳人”は活動しているということである。


 小林君の目撃情報や、伊丹さんの娘さんが頻繁に外泊をしていたという情報を合わせて考えれば、もしかしたら、宗教儀式的な何かは夜中に行われているのかもしれない。


 伊丹さんの様子をうかがう。


 その顔には、決意がにじみ出ていた。

「愚問でしたね。行きましょう。小林君、道案内だけお願いできるかな?」


 すると小林君も何か、覚悟を決めたという様子で答える。


「いや、ここまで来たら、最後まで付き合います。男手は多い方が良いかもしれませんし」


 真琴ちゃんを救出した際、私よりも早く、暴漢に向かっていった小林君を思い出す。


 伊丹さんは、一般市民を危険な現場に連れていくことと、小林君の言う”男手が多い”というメリットを天秤にかけているようだったが、すぐに、「頼む」と小林君に頭を下げた。


「それでは、行きましょう。私はタクシーを呼びます」


 そういって、店の固定電話から、いつも使用しているタクシー会社に電話を掛けた。


 タクシーは、10分ほどで到着した。


 小林君が助手席に座り、私と伊丹さんは後部座席に乗り込む。


 小林君が、運転手に行先の住所とマンション名を伝える。


 タクシーは肌寒い十一月の夜の中を、滑るように発車した。


 マンション前にタクシーが止まり、会計を済ましてタクシーを降りる。


 目の前のマンションを見上げる。


 大学生が一人暮らししているマンションということで、勝手にアパートのようなものを想像していたが、かなりの富裕層、しかもファミリー層が住むような、見るからに高級マンションといった佇まいであった。


「おい、小林君。君、一人暮らしじゃなかったっけ?ほんとにここに住んでるのか?」


 伊丹さんも、想像とは異なるマンションの規模に困惑しているようだった。


「そうですけど?」


 小林君は、質問の意図を理解していないようで、少し怪訝な顔をしながら答える。


「小林君。大学生が一人暮らしするには、ちょっと高級すぎるマンションじゃないかってことよ」


 私が、そう補足すると、合点がいったような様子で、小林君が答える。


「ああ、うちの親が心配性で、とにかくセキュリティーが万全なところに住んで欲しいとのことで、勝手にここを契約したんですよ。まあ、家賃は、親が払ってくれているので文句は言えませんけど」


 どうやら、小林君はかなり裕福な家庭で育ったようだ。


 彼の出身や、家族のことなどの生い立ちについては、今まで聞いたことがなかった。無邪気でどこにでもいるような”若い子”という第一印象ながら、ふとした瞬間、上品さが垣間見えるところがあると感じていたが、こういうことであったか。一人納得する。


「とにかく行きましょう!」


 小林君に急かされ、伊丹さんも私もうなずき、彼に従ってマンションへと入る。


 エントランスは、私が今住んでいる部屋と同じくらいか、それ以上の広さがあり、ちょっとしたホテルのようだ。


 彼は、カバンからパスケースを取り出すと、大きな自動ドアの前にある端末にかざす。すると、音もなく、目の前のドアが左右に開いた。


 彼に続いて、ドアをくぐる。


 目の前には、よく手入れされたモダンな中庭が広がっており、その周りを取り囲むように回廊が伸びている。


 彼は、回廊を反時計回りに進む。庭を左手に見ながら続く回廊を進んでいくと、右手奥にエレベータが見えてきた。


 小林君がエレベータの上階ボタンを押すと、エレベータのドアがすぐに開いた。


 彼は、行先ボタンの十階を押す。十二階建てのようで、ほぼ、最上階に近いようだ。


 エレベータは音も、わずかな振動すらなく、上昇し始める。まるで高級車のような乗り味だった。


 エレベータが十階で止まり、扉が開く。その奥に、高級ホテルの内部のような洒落た内装の廊下がまっすぐに続いていた。


 小林君に続いて、その廊下を進む。


 右手側に重厚感のある扉がずらりと並んでおり、左側は、先ほどの中庭を見下ろせるような構造になっていた。


 ちょうど、廊下の真ん中あたりの扉の前で小林君が立ち止まる。


「ここが、僕の部屋です。そして、例の部屋が、あれです」


 そういって、さらに廊下を進んだ、一つとなりの部屋の扉を指さす。


 今度は、伊丹さんが先頭となって、廊下を進み、彼の指さした扉の前に到着する。


 表札は出ていない。


 扉の左側に、インターフォンが設置されている。内部から外の様子を確認できるカメラが付いているようだ。


 伊丹さんがこちらを振り返り、目配せをする。私と小林君は同時に無言でうなずいた。


 伊丹さんは、インターフォンのボタンを押す。


 十秒ほどたっても応答がない。


 もう一度ボタンを押す。


 痛いほどの静寂が流れる。


 伊丹さんが、こちらに振り向こうと肩を動かしたときだった。小さなぷつりという通話音とともに、スピーカーから応答があった。


「はい」


 意外にも、その声は男性だった。


 すぐに伊丹さんが、胸ポケットから何かを取り出す。おそらく警察手帳であろう。それをカメラに向けながら、何千と繰り返してきたであろうセリフを言う。


「K警察署の伊丹というものです。夜分に申し訳ありません。たった今、近くで事件がありまして、そのことでちょっと、お話をお伺いできますでしょうか?」


 インターフォンの向こうの男は、しばらく沈黙した後、答える。


「いいですが、ちょっと、手が離せないので、インターフォン越しでもいいですか?」

「申し訳ないのですが、対面でお話をお聞かせいただけないでしょうか」


 伊丹さんが食い下がる。


「ちょっと、家の者と相談しますので、少々お待ちください」


 男は、そう答えた。


「お願いします。ここで、待ってます」


 だめ押しに、暗に”帰る気はない”ことを伊丹さんが男に伝える。


 一分ほどすると、先ほどの男が応答した。


「今開けます」

「すみません、お願いします」


 伊丹さんは、そう言うとドアノブを静かに握った。


 なぜドアノブを握るのかと、不思議に思っていると、ドアの奥から、チェーンとロックを解除する音が聞こえた。


 その瞬間、伊丹さんは、ドアノブを力強くひねり、猛烈な勢いでドアを引く。ドアの向こう側には、まさに今ドアを開けようとしていたのだろう、急に開いたドアに引きずられるようにして男が出てくる。伊丹さんは、目にもとまらぬ速さで、その男を羽交い絞めにすると、後ろ手を引き絞り、マンションの廊下の壁に押し付けた。


 私も、小林君も、あまりに突然のことで、ただ、呆然と立ち尽くしていた。


「この中に、女を監禁しているだろ……」


 伊丹さんは、静かに男に詰問する。しかし、その声には煮えたぎるマグマのような怒りがこもっていた。


「なんの、ことだかわかりませんよ」


 男は、本当に状況が心当たりがないようで、ほぼ、パニックになっていた。


「嘘をつくな」


 伊丹さんが、男の腕をさらに締め上げる。


 男は、声にならない悲鳴を上げる。


「伊丹さん、落ち着いてください」


 私がそう呼びかけても、まったく、耳に入っていないようだ。


「春香は、娘はどこだ!!」


 ついに伊丹さんは、大声を張り上げる。


 その声に気が付いたのか、空きっぱなしの玄関の奥、廊下の突きあたりの部屋から複数人の気配がしたかと思うと、一人の若い女性が部屋の扉を開けて出てきた。


 その女性は、顔面蒼白といった様子で、恐る恐る廊下に出ると玄関の様子を確認するようにこちら側を見る。開け放された玄関先に、私や、小林君がいることに気が付くと、怪訝な顔をして、ぴたりと動きを止めた。


「春香はどこにいる!!」


 マンション中に響きわたるような大声で伊丹さんが叫ぶ。


 廊下にいる彼女は、その声に驚いたのか、一瞬首をすくめるが、何かを確信したのか、顔を怒りにゆがませて、猛然と廊下を猛然と歩いて来た。


 そして、扉から裸足のまま出てくると、私たちには見向きもせず、伊丹さんに向かって、怒鳴った。


「お父さん!! その人を離して!!」


 伊丹さんは、猛然とした勢いで、その女性の方を振り返る。


「春香……お前……無事だったか……」


 娘の無事を確認した伊丹さんは、全身から力が抜けたようで、押さえつけていた男を離した。


 娘の春香さんは、大きく右手を振りかざすと、思い切り、伊丹さんの左頬に平手打ちをした。


 渇いた破裂音が、廊下にこだまし、その後、再び痛いほどの静寂に包まれた。


 静寂を、伊丹さんの震えた声が破る。


「どうして……お前……」


 彼女は、強い口調で父親を罵倒する。


「何しに来たのよ! どうやって、ここを調べたかは知らないけれど、もう、来ないで!」

「でも、お前……変なこと考えてるんじゃないかって……」


 伊丹さんは、それ以上言葉を続けることができないようだった。


 ”変なこと”という言葉に一瞬反応し、彼女は肩をぴくりと動かす。


「あんたには関係ない!!」


 彼女は絶叫した。


 私と小林君は、そんな二人の様子をただ、見守ることしかできなかった。


 その時、玄関先から、静かで落ち着いた声が聞こえた。


「春香さん。近隣の皆さまに迷惑ですよ。お部屋に戻りなさい」


 声のする方を振り返ると、いつの間にか、玄関先に、一人の女性が立っていた。


 長身で手足が長く、細身の女性だ。年のころは、40代前半と言ったところか。短めの髪を耳にかけており、その生え際にはところどころ、白髪が混じっている。白のロングワンピースに、えんじ色のケープを肩に羽織り、銀縁の細い眼鏡をかけていた。その眼鏡にはチェーンが付いており、首から下げられるようになっている。胸元には、大きなブローチのようなものが付いており、両耳からは、大き目のレースのような意匠の金属製のピアスが揺れている。なんだか、”よい魔女”といった風体だ。


 私は、この女こそ、藤堂とうどう 由紀子ゆきこであると直感した。


 声をかけられた春香さんは、驚いたのか、肩をぴくりと震わせると、その女の方に振り向き、「はい。藤堂先生」と言うと、部屋の中に戻っていった。


 その様子を伊丹さんは、呆然とした様子で眺めていた。


 誰も、何も言えないような雰囲気の中、藤堂と呼ばれたその女性が、口を開く。


「平井さんも、お部屋に戻りなさい」


 伊丹さんの足元で、右腕を抑えてうずくまっていた、男性が立ち上がり、部屋の中へと戻っていく。


 藤堂は、伊丹さん、私、小林君を順番に見つめた後、伊丹さんに向かって声をかけた。


「春香さんのお父様ですね。突然の来訪で驚きましたが、まずは、お話を伺いましょう。どうぞお入りください」


 藤堂は、私と小林君の方をちらりと見ると、「それから、あなたたち二人も、どうぞ。」と招き入れた。


 私たちは、藤堂の後をついて、部屋に上がり、突き当りの部屋に入る。


 その部屋は、間接照明しかなく、薄暗かった。


 しかし、思い描いていたような、何か儀式めいた部屋というわけではなく、普通に居心地の良いダイニングルームといった感じだった。


 藤堂は、部屋中心に置かれた大きなテーブルを示すと、そこに座るように指示する。


 テーブルには椅子が六脚あり、私たち三人は入ってきた扉を背にする形で、並んで着席した。


 視線の先には大きな窓とベランダが見えた。カーテンはなく、窓の向こうには夜闇が広がっていた。


 藤堂は着席せず、部屋内に設置されているアイランド・キッチンに向かうと、こちらを振り返りながら、「皆さん、コーヒーでよろしいかしら?」と聞いてきた。


「いえ。娘と話をしに来ただけですから、お構いなく」


 伊丹さんが強い口調で答える。


 藤堂は、気圧されることもなく、うなずくと、「では、春香さんを呼んで参ります」と、ダイニング・ルームの奥、私たちが入室した扉とは別の扉の奥へと消えていった。


 私たちは、その間、一言もしゃべらずにじっと待っていた。


 しばらくすると、藤堂が春香さんを連れて戻ってきた。


 伊丹さんは、すでに何かを言いたげだったが、何も言わず、ただ黙っていた。


 藤堂は、端に座る伊丹さんの前に春香さんを座らせ、自分は真ん中の席、つまり私の目の前に座った。


「それで……」


 藤堂は、着席すると同時に口を開く。


「こんな非常識な時間に、どうしたのですか?」

「非常識なのはあんただろ。娘をたぶらかして」


 伊丹さんは、藤堂をにらみつける。


 春香さんは、伊丹さんを同じくらいの眼力でにらみつけると、口を開こうとした。それを藤堂が片手で制す。


「誑かしているつもりはありません。私は、ただ、救いが必要な者に手を差し伸べているだけです」


 藤堂は、いたって落ち着いた声でそういう。


「手を差し伸べているだって!? 自殺に追い込むことのどこが救いなんだ!」


 ”自殺”という言葉を聞いた藤堂が初めて、ほんの僅かであるが、動揺を見せる。


「お父様は何か、大きな勘違いをなさっているようです。私は、娘さんを救いたいだけなのです」

「ネタは、挙がってんだよ!娘の腕に巻かれているその赤い紐は、あんたが、ここに来た相談者に渡している物じゃないのか?」

「そうですよ。これは、幸せを呼ぶ幸運のお守りです」

「あのなぁ、その赤い紐を結んだ女が最低でも三人自殺しているんだよ!失踪したものも含めると、四人だぞ!四人!これが偶然だとは言わせないぞ。お前が自殺に導いているんだろ!いいか、これは立派な犯罪だ!自殺ほう助なんだよ。俺から言わせれば、こいつは殺人だよ。あんたは、殺人鬼だ!」


 伊丹さんは大声で叫ぶと机を殴りつける。


 藤堂は、まったく動じずに、あくまで落ち着いた様子で静かに言い放った。


「ええ、確かにその方たちをこの世、いえ、永遠に続く輪廻転生の輪から解放し、真の平穏へと導くお手伝いをしたのはこの私です。しかし、それの何がいけないのでしょうか?」


 伊丹さんは、しばらく言葉を失っていたが、やがて、絞り出すようにつぶやいた。


「あんた……狂ってるよ……」

「狂っている?」

「そうだよ。あんた、カウンセラーなんだろ?だったら、悩みを解決はできずとも、向き合えるようになるまで寄り添って、その人間が生きていけるようにするのが、仕事だろうが!」


 藤堂は、初めて感情的な声を出す。


 その声は、怒りで震えていた。


「あなたは、何があっても、この世を生きて、そして苦しむことが本当に幸せだとでも考えているのですか?」

「生きていれば苦しいこともあるだろうが、幸せなこともあるだろうが!」

「いいえ。それは、意見です。生きることこそが地獄である人もいるのです!生から、この輪廻から解放されることが、救いになるという人間もいるのですよ!」

「そんな理屈が通るか!死んで幸せになる人間がどこにいるって言うんだ!!」


 伊丹さんが吼える。


 藤堂は、静かに、しかしはっきりと答える。


「あなたの娘さんですよ」


 伊丹さんは、殴られたような、驚愕の表情を浮かべた次の瞬間、こめかみに血管を浮き立たせ、奥歯を噛みしめながら、ものすごい怒気を込めて、「てめぇ……」と唸る。


 しかし、藤堂の隣に座る娘の様子を見ると、その膨れ上がった怒りは、風船が破裂するようにはじけ飛んだのか、押し黙る。


 彼女は、静かに泣いていた。


 藤堂が、問いかける。


「お父様は、彼女が何に苦しんでいるかご存じですか?」

「それは……」


 伊丹さんはそれ以上、何も言えなかった。


「春香さん。よろしいですか?」


 藤堂が、優しく問いかけると、彼女は小さくうなずいた。


「お父様。彼女は性被害者です」


 伊丹さんはもちろん、私も、小林君も色を失った。


「彼女は、大学のサークルの先輩とお付き合いしていたそうです。しかし、彼の傲慢で、女性を物として扱う性格に我慢できなくなった彼女は、彼と別れたのです。しかし、それが気に食わなかった彼は、彼女を逆恨みし、隠し撮りした性行為の映像を、彼の男友達にばらまいたのですよ」


 いわゆる、リベンジポルノというやつだ。


 とんでもない男だ。腹の底から怒りが湧き上がる。


「サークルにはもう彼女の居場所はありませんでした。あまつさえ、その動画は大学全体に広がり、彼女の学部の一部の男子生徒にまで広まったのです。それでも、彼女は、気丈にふるまい、大学に通い続けました。なぜだかわかりますか?」


 伊丹さんは、震えるだけで、何も答えない。


「それは、お父様が、”大学だけは出てほしい”と望んでいることを知っていたからです。あなたのためなのですよ!」


 彼の瞳から涙があふれた。


「何度もお父様に相談しようと考えたそうです。でも、あなたはいつも忙しそうにしていた。もちろん、それが自分のためであることも、彼女はちゃんと分かっていた。だからこそ、あなたには相談できなかった。このまま、隠し通して、地獄のような大学生活をあと二年耐え抜くことを決めたのです。しかし、さらなる絶望が彼女を襲いました」


 これ以上の絶望とは、いったい何なのか。


くだんの動画が、ネット上にアップされたのです。そして、その動画を見たある男子生徒から、性交渉を強要されました。これは、未遂に終わりましたが、彼女は気が付いてしまった。大学を卒業しても、ネット上の動画を見た誰かに、また、同じように襲われるのではないかと。もう、この世には、彼女の居場所など、どこにもないのだと。そんなとき、彼女を守るべき父親のあなたは何をしましたか?彼女の異変に気が付いていましたか?気が付いていたとして、話を聞くなり、自分から手を差し伸べましたか?していないでしょうね!だからこそ、彼女はここへ来たのです!そんな彼女の境遇を知って、それでもなお、一生誰かの悪意に怯えて生きることをあなたは強要できるのですか!!」


 藤堂は、語気を荒げ、最後は絶叫した。


 彼女もまた、目に涙を浮かべていいた。


「ごめんなぁ。父さん、何にも知らなかった…。ごめんなぁ…」

 

 伊丹さんが泣きながら、何度も、何度も謝っていた。


 だれも、何も言わない。


 沈黙の中、私は、春香さんの目を覚まさせるために口を開いた。


「春香さん」


 彼女は、私を見つめる。


「私は、この世ならざるものが見えます」


 彼女は驚いたような顔をする。


「つまり、幽霊が見えるのです。そして、霊というものは、生きていたころの思念の残滓です。だから、思念体と言った方が良い。しかし、誰もが思念体になるわけじゃありません。死してなお、この思念がこの世に留まるためには、一つ条件があります。それは、この世に残されたものの”想い”があること。それも、プラスの感情ではありません。憎しみや後悔、悪意などのマイナスの、しかも非常に強い感情です。これが呪いとなり、死したものをこの世に縛り付けてしまうのです。いいですか。もしあなたが自ら命を絶ったとしたら、あなたのお父様は必ずや自分を呪い、そしてあなたはこの世に縛り付けられるでしょう。この藤堂という人の言うような”真の平穏など、訪れません。嘘なのです」


 彼女は、それを聞くと怒りの表情を浮かべる。


「あなた、いったい誰なんですか?」

「私は、霊能力者です。あなたが、詐欺師に誑かされていると相談を受け、あなたを解放するためにここに来たのです。さっき言った、霊魂の話も本当です。このままでは、あなたは地縛霊となってしまう」

「そんな、突拍子もない話、誰が信じられるって言うのですか!本当に霊能者だというのであれば証拠を見せてくださいよ!!」


 私は、一度だけ、大きく柏手を打つ。


 渇いた音が部屋にこだまする。


 彼女は泡を食ったように目を丸くして言葉を失う。


「では、春香さん。あなたが信じている”死ねば幸せになれる”というその話はどうして信じられるのですか?」

「それは……」


 彼女は言葉に詰まり、目を泳がせる。


 藤堂は静かに、聞いている。


「その左腕にしている赤いミサンガが蛇神様との縁を結び、そして死後、輪廻の輪から解き放してくれるからですか?」


 一瞬、驚いたような顔をするが、すぐに語気を荒げて同意する。


「そ、そのとおりです! この縁結びのお守りが私を守って、導いてくれるんです」


 私は、大きな声で切り返す。


「なぜ、そんな突拍子もない話を信じられるのですか? 本当にそのお守りにそんな力があるというのであれば、証拠を見せてください」


 彼女は大きく動揺する。


 もう少しだと思った。


 私は、怪談蒐集家として、彼女をこの呪いから解き放ってみせる。


「あなたは、よくもまあ、こんな話を信じる気になりますね。恐ろしくはないですか?」

「恐ろしい?」


 私は、声を低くして続ける。


「そうです。死んだことなどない女が言う死後の救いとやらを信じて、死ぬことが恐ろしくはないのですか?もし、私の言っていることの方が正しかったとしたら? 死後に救いなどなく、あなたは、この世に永遠にとらわれるのだとしたら? 良いですか? 言っておきますが、死んで思念体となったものは、死ぬ瞬間の感情を永遠にリフレインするのですよ。あなたは死ぬ瞬間、幸せでしょうか? 絶対に違いますね。深い絶望と恐怖と苦しみや痛みの中にいるはずです。それが永遠に続くのです。これこそ地獄です。なぜ、私にそんなことが分かるのか疑問でしょうね。それはですね、


 彼女の信仰心がわずかに揺らぎ、できた隙間にありったけの死への恐怖を注入する。


「もう一度聞きます。あなたは、恐ろしくないのですか?」


 彼女の涙はとうに枯れ、その眼には恐怖が宿っていた。


 もう一度柏手を打つ。


 彼女は肩をびくつかせ、大きくのけぞる。


「春香さん。今のはすべて嘘です」

「え……嘘?」

「そうです。私は霊能力者ではありません。ただの怪談師です」

「カイダン師…?」

「そうです。怖い話を聞かせてまわる、あの、怪談師です」


 彼女は、状況が理解できないという表情をしていた。


「ですから、死後囚われるとか、死んだ瞬間の感情を永遠にリフレインするとか、そんな話は嘘なのです」


 彼女の目に、明らかな安堵が浮かぶ。


「しかし、あなたは一瞬でもこの怪談を”あるかもしれない”と信じてしまった。では、もう一度聞きますが、この藤堂という女性が語る死後の救いという話と、今の怪談、何が違うのでしょうか?」


 彼女は、もう何も答えられなかった。


「いいですか。春香さん。死後のことなんて、誰にも分からないんですよ。皆、一度だって、死んだことがないのですから。でも、あなた自身が、生きて、経験してきたことは、多少なりとも信じてもいいとは思いませんか? あなたは、これまでの人生、一瞬たりとも幸せな時間はなかったのでしょうか?」


 彼女は首を振る。


「ならば、これから先の人生、幸せな瞬間が来るかもしれないと、そうは思いませんか? 死後の救いなどという、怪談めいたお話よりも、自分の経験の方が信じられるはずです」


 私は、立ち上がると、泣いている伊丹さんの肩に手をのせ、語り掛ける。


「伊丹さん。あなたの素直な気持ちを、娘さんに伝えてください。彼女を絶望の中から、本当の意味で救い出せるのは、あなただけです」


 伊丹さんはふらふらと立ち上がると、娘の前に膝まづく。


「春香。つらかったよなぁ。ごめんなぁ。父さん、気が付いてやれなくて。春香の死にたいって気持ちも分かるよ……。でもなぁ……親のエゴだって分かっていても、俺は、春香に生きていて欲しいんだよ……。ただ、生きていてくれればそれで良いんだよ……これからは、父さんが春香のこと絶対に守るから、だから、頼む……一生のお願いだから! 生きてくれ……!!」


 最後は、もう、嗚咽が混じり、ほとんど言葉になっていなかった。それを見て、彼女も、声を上げて泣き出し、椅子から崩れ落ちると、父親に抱きついた。


 親子は、床に座り込んだまま抱き合って、大声で泣き続けた。


 藤堂は、静かに目を閉じていた。


 窓の外はまだ暗かった。


 しかし、夜明けはすぐそこまで来ていた。


 -りん-

 どこか遠くで鈴の音が響いた。


幸せの赤い糸 -了-

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