第26話 幸せの赤い糸 -解 四の幕-
伊丹さんが小林君の後輩にアポを取りたいと来店した日、昨日自殺した女性が、あのミサンガをつけていたという話を聞いてからというもの、私はすっかりあの怪談に囚われてしまい、営業中もずっと上の空だった。
そのせいもあってか、閉店作業中、私は磨いていたグラスを落としてしまった。
まるで、スローモーションのように、グラスの動きがゆっくりと見えた。
グラスは、空中で二回転して地面に激突し、砕け散った破片がきらりと光りながら放射状に広がっていく。頭が麻痺状態なのか、まるで花火のようだとぼんやりと考える。花火と同じように、耳障りな炸裂音が後から聞こえた。その音で、麻痺状態の頭が覚醒し、反射的に「失礼いたしました」と発声する。
その声は、閉店後の誰もいない店内にむなしくこだました。
「詩織さん。大丈夫ですか!」
キッチンの後片付けをしていた小林君が、グラスの割れる音を聞いてカウンター内に飛び込んできた。
「ええ、大丈夫。ちょっとぼうっとしていたみたい」
そう答え、割れたグラスを拾い集めようとする。
まだ集中力が戻っていないのか、割れたグラスの破片で、右手の指先を切る。
鋭利な痛みが走った瞬間、思わず右手をひっこめる。指先を見ると、朝露のように血液の玉が付着していた。
「指切ったんですか! ちょっと待っててください!」
そう言って、小林君はキッチンに戻ると、一分ほどで戻ってきた。
その手には絆創膏が握られていた。
「詩織さん、まず、切った指先を洗ってください」
「ええ。ありがとう」
そういって、蛇口から水を出して、指先を水で洗うと、ひどくしみた。
絆創膏を受け取り、指先に巻き付ける。
そうしている間も、頭は別のことでいっぱいで、
気を取り直して、グラスを拾い集めようとかがみこむと、小林君に制される。
「グラスは僕が拾い集めますので、詩織さんは箒と塵取りをお願いします」
「わかったわ。持ってくる」
私の声色は、どこか腑抜けていた。
小林君がじっと見つめてくるが、それを無視して、バックヤードにある箒と塵取りを取りに行く。
戻ってくると、あらかた大きい破片は回収しきったのか、小林君は、ビニール袋の中にそれを放り込んでいるところだった。
箒で、グラスの細かな破片を回収する。小林君は塵取りを持ってくれていた。
一通り、掃除が終わると、小林君が声をかけてくる。
「詩織さん、なんか様子おかしいですよ」
自分でも自覚していた。何が原因であるのかもわかっていた。
しかし、その話はしたくなかった。
だから、適当な言い訳で取り繕う。
「ええ、ちょっと寝不足かな?」
小林君は、何か言いたげな表情を見せる。
これ以上何か言われる前に問いかける。
「もう、キッチンの方の片づけは済んだ?」
「ええ。でも……」
彼の言葉をさえぎって続ける。
「じゃあ、先上がっていいわよ」
しかし、彼は、そこを動こうとしなかった。
意を決したように彼は口を開いた。
「あの件、気になってるんですよね?」
「あの件?」
「とぼけないでくださいよ。連続自殺の件です」
「ああ……」
否定でも肯定でもない、あいまいな返事をする。
「らしくないですよ、いつもの詩織さんなら、目を輝かせて調べるじゃないですか。どうしてそうしないんですか。伊丹さんの力になれるかもしれないのに。もしかして、あの、積み木事件のことを気にしているんですか?」
”積み木”という言葉に反応し、体がこわばり、わずかに心拍数が上昇する。
あの件に私が介入しなければ、あのご老人が亡くなることはなかったのではないのか。あの死は、私の軽薄な行動が招いた結果なのではないか。ことの顛末を聞いてからというもの、ずっと自問自答している。
両手のこぶしをぎゅっと握る。先ほど切った指先がじわりと痛む。
私は怪談が好きだ。特に、その怪談がどうして生まれ、どのように広まっていくのか、そして、その怪談の恐怖の根源は何なのか、それを明らかにすることに、この上もない興奮と快楽を感じる。
だからこそ、あの怪談も暴かずにはいられなかったのだ。しかし、結果はあのとおりである。今まで、数々の怪談を調査してきたが、そのせいで人が亡くなったのは初めてだった。
この私の悪趣味な探求は終わりにしなければならないと、本気で考えていた。しかし、やめることなどできないということは、自分が一番わかっていた。私は、薬物中毒患者と同じなのである。そこに怪談があれば、暴かずにはいられない体になってしまっているのである。
今日、伊丹さんが店に来て、自殺したという女性があのミサンガをしていたという話を聞いて、私は不謹慎ながら心が躍ったのである。いや、小林君から赤いミサンガの話を聞いた時から、私の心はこの怪談に支配されていたのである。何としてもこの現象を解明したい! そう、私の中の飢えた獣が吠え続けていた。
しかし、怪談を解明したいという思いと同じくらい、やはり、周囲の人間を危険な目に合わせたくないと思っているのだ。
私は、必死で自分の情動を抑え込む。
「もちろん、あの事件のことは気にしているわ。だからこそ、もう金輪際、怪談に首を突っ込みたくないのよ」
「それは嘘です」
小林君はきっぱりと、強い口調でそういう。
「詩織さんは、この怪談を調べたいと思っています。それを、必死で我慢しています」
図星をつかれ、つい語気を荒げてしまう。
「だとしても、もう私は、私が真実を明らかにすることで誰かが不幸になるのは嫌なのよ」
「詩織さん。それは、傲慢というものですよ」
顔面を殴られたような気がした。
「詩織さんが暴こうがそうじゃなかろうが、真実はそこにあるんです。誰もその存在を侵せやしないんです。もし、つらい真実を知って、当人が不幸になるのだとしたら、それは、そうなるべきだったんです。真実を知らずに幸せに生きる方が良いと本当にそう思いますか? 僕は、そんなもの本当の幸せではないと思います。つらい真実を知ったうえで、どう生きて、そしてどう幸せになるかは、その当人が決めるべきです。誰かが決めていいことじゃありません!」
あまりにも、まっすぐで若い考え方で真正面から殴られる。
しかし、正論だけで生きていけるほど私は若くはなかった。
「でも、真実を暴かなければ、今見えているものが真実となるのよ。それが、当人にとって幸せならば、私はそれでもいいと思う」
小林君は、”そういうことを言いたいんじゃない”という顔をする。
そんなことは分かっていた。
彼の言いたいことも全部理解したうえで、私は逃げたのだ。
「でも…、今回の件は、”今見えているもの”が幸せですか?」
「え?」
「今回は、みんな自ら命を絶ってるんです。しかも、わけのわからないミサンガなんてものの呪いで。それが幸せなんですか?」
小林君に言われて、はっとする。
「真実を明らかにすることで、この呪いを断ち切ることで、救える命があるかもしれないんですよ! 俺、詩織さんにはそれができる気がするんです。だからこそ、この怪談の謎を解いてほしいんですよ! 今まさに命を絶とうとしている誰かのために!!」
小林君の目は正義に燃えていた。
「真琴ちゃんの時は、真実を暴いたから、助けられたんじゃないですか……」
そう、小さく彼はつぶやくと、それから黙ってしまった。
そうだ。もしこの怪談が、真琴ちゃんの巻き込まれた怪談のように、誰かの悪意が働いていたとしたら? 悪魔のような人間が、人々を自殺に追い込んでいるのだとしたら?
そんなことは絶対に許してはならないと思った。
この怪談の真実を暴けば、誰かの命を救える。
確かにそうかもしれない。
伊丹さんもそう思って、必死に調査しているに違いない。
でもきっと、警察が追っている”常識的な”証拠や情報だけでは、この怪談の謎を解くことは難しい気がする。
ならば--
どんな形であれ捜査の役に立つのであれば、私は、怪談蒐集家として、この怪談の謎をとくべきではないか。
「小林君」
そう問いかける。
小林君は、ゆっくり顔を上げる。
「あなたに言われて目が覚めたわ。私も、調べてみる」
彼は少年のように目を輝かせた。
*
自宅のキッチンで、チキンライスに薄焼き卵を巻きながら、あの怪談のことを考えていた。
調べるといったものの、情報があまりに少なすぎて、何をどう調べたらいいか分からない。
出来上がったオムライスを皿に盛り、ケチャップを波型にかける。昔から、どうもこれがうまくできず、不格好になる。今日は、赤い線の一部が交差し、八の字のような形になってしまっている箇所があった。
それを見て思い出す。
あのミサンガも一回ねじられているといっていた。あの時、私は何かに似ていると思ったのだ。何だったか……。
そうだ。”メビウスの輪”だ。
私はケチャップを片手に持ったまま、思考の海へと潜っていく。
メビウスの輪は、帯状の長方形の片方の端を一八〇度ねじって、他方の端とつなぎ合わせた形状のことで、数学的に、裏と表が存在しない図形として広く知られている。そのような性質から、”表裏”を”生死”と読み替えて、生死が滑らかにつながるといった意味合いから、”輪廻転生”または、生死がないといった意味合いから”不老不死”の象徴として使用されている。
このメビウスの輪をモチーフとしたデザインには八の字型が多く起用されるため、しばしば無限大のマーク”∞”と同一視されることがあるが、これは誤りであり、無限大のマークは古代の象徴の一つである”ウロボロス”が起源だったはずだ。
このウロボロスは、自身の尻尾を噛んでいる蛇または竜の姿で表され、古代の様々な文明において、同じような紋章が使用されている。そして、蛇は、脱皮する姿から、”輪廻転生”や”不老不死”を連想させ、これらの象徴として扱われてきた。そのため、ウロボロスもメビウスの輪と同様、”輪廻転生”や”不老不死”の象徴として使用されることが多い。そして、二頭の蛇として描かれることも多く、その場合はたいてい八の字を描く。
このようなウロボロスとメビウスの輪の図形的な類似点と、意味的な類似点によって、現代では、ウロボロス、つまり蛇とメビウスの輪は、同一の象徴であると解釈されることがしばしばある。
ならば、あのミサンガも蛇を示すのではないか。
あのミサンガには、現世で死を迎えても、輪廻転生して復活する、または、生死一体つまり、死ぬことこそ生きること、そんな意味合いがあるのではないだろうか。
ウロボロス、蛇、生死一体、そして連続自殺……
それは、ただの思い付きだった。
思考の海から浮上し、とりあえず昼食を食べることにした。
オムライスをダイニングテーブルに運び、小さく手を合わせてから食べ始める。
オムライスを口に運びながら、先ほど思いついた単語を適当に組み合わせてネットで検索してみた。
すると--
”蛇 自殺”の組み合わせで、とある十年前の事件がヒットした。
宗教団体 ”
ヒットしたページを斜め読みする。
どうやら、久世の輪と称する宗教団体の教祖と信者が同時に自殺を図り、二十七名が死亡したようだ。この宗教団体は、蛇神を信仰の対象としていたらしい。
これだけの情報で、今回の事件と関連があると判断することはできないが、あのミサンガをウロボロス、つまり蛇ととらえれば、共通点があるような気がした。
当時のニュース記事をネットで読み漁ったが、センシティブな内容は伏せられているのだろう、この事件の全体像はぼんやりと把握できたが、触感というか、空気感というか、とにかく生々しさというものが感じられなかった。
怪談では、この”生々しさ”が重要なのである。怪談の生々しさはディティールに宿る。だから怪談師は、生々しさの演出装置として、時に事実とは異なるディティールを追加する。しかし、すべての演出装置が嘘なのかと言えば、そうではない。多くの真実の中にちょっとしたスパイスとして嘘を混ぜるのである。
宗教団体で起きた集団自殺事件といういかにもなこの事件は必ず、怪談的に語られており、その怪談には、ニュースでは報じられない、ディティールが存在はずである。
では、こういった事件をセンセーショナルに、怪談的に語る
週刊誌等の大衆雑誌だ。
私は、オムライスを急いで食べると、K市内にある東京都立T図書館へと向かうことにした。この図書館は、雑誌を中心に扱う日本でも珍しい図書館なのである。
*
図書館にて、久世の輪の集団自殺事件が発生した日付付近で発売された大衆雑誌を片っ端から調べた。
やはり、私の考えは正しかった。
ニュースでは報じられてない、ディティールが浮き彫りになっていく。
この教団の教祖は、
ナンバーツーは教祖の妻である
教団の信仰対象は、蛇神であるが、正式にはクスシヘビという蛇であるとのことであった。
このクスシヘビは、古来から医療の神の使いとして扱われている。最も有名なのが、ギリシャ神話の医療の神、アスクレーピオス。その神が持つ杖にはこのクスシヘビが取り巻いている。この杖は、世界中の医療機関のシンボルとして使用されており、最も有名なもののひとつに、
どうやら、教祖の正道は、医者家系の出身らしく、自身も医師として活動していた。ある時、彼は国境なき医師団のメンバーとなり、五年間ほど、紛争地域を渡り歩いていたらしい。
日本に帰国してからは医者をやめ、この久世の輪という教団を設立したとのことである。
久世の輪の教義はただ一つ、「すべての者に救いの手を差し伸べる」というもの。
特に目立った布教活動や危険思想もないため、公安警察からはマークはされておらず、また、信者の数も三十人前後を推移しており、正直マイナーな宗教団体であったと、どの週刊誌も報じていた。
それが、集団自殺という事件を引き起こし、一気に世間の注目を浴びることになったわけだ。
ちなみに、この集団自殺は服毒によるものであったらしい。しかし、中には死にきれない者もいて、教団本部としていた一軒家から、夜通し苦しみの声が聞こえてきたらしい。不審に思った近所の者が通報し、この事件が発覚した。
救急隊が駆け付けた時、息があったものは二名。一人は、教団のNo.3であった
彼らが服毒した毒は、少々珍しいものだったらしく、通常の手順では検出できず、特定に時間を要したため解毒がおくれ、一道少年は残念ながら助からず、生き残りは藤堂だた一人であった。
救急隊が到着したとき、教祖と信者は、一道少年を取り囲むようにして倒れており、倒れた少年の目の前には、黄金色の大きな盃が落ちていたとのことである。おそらくその盃に毒を入れ、回し飲みしたのであろう。とある週刊誌にはその盃には蛇の文様が刻印されていたと記載されていたが、この情報の真偽は不明である。
しかし、いくら調べても、この宗教団体が赤いミサンガを信徒の証として使用していたといった記述はなかった。
やはり今回の事件とは、関係ないのか?
すでに、日は傾きかけている。そろそろ開店の準備をしなければならない。
調査をいったん切り上げ、図書館を後にしたのだった。
*
遠藤 萌香への聞き込みの後、署に戻って、過去に似たような事件が発生していないか資料室で調べてみたが、何も見つからなかった。
突如として空腹に襲われる。
腕時計を確認すると夜の十一時を回ったところだった。
思えば、昼から何も口にしていないので、空腹は当然だった。
しかし、これからどこかの店に食べに行くというのも面倒で、家にストックしているインスタントラーメンでも食べるかと心に決め、帰宅することにした。
娘の春香は今日は家にいるのだろうか?
外泊が多く、それをあまりよくないことだと思っているが、娘がいる家というのも、それはそれで居心地が悪いのだ。自室にいてくれればまだいい。居間でTVやネットで動画を見ていたりした日は大変だ。どうしたって顔を合わせなければならない。顔を合わせれば、一言くらい会話をしなければならないと父親として思うのだが、その一言が出てこない。結局、無言の空間が生まれ、それに耐えきれなくなった方が、居間の使用権を放棄し、すごすごと自室へと退散するのである。
最寄り駅から自宅までの約十分間ほどは、事件のことを考えるのはやめ、娘が居間にいたときのことをシミュレーションしながら歩いた。
我が家が見えてきた。
その前には一台のタクシーが停車していた。
もしかしたら、春香もちょうど帰宅したのかもしれない。
このシチュエーションは想定外である。何と声をかけるべきか慌てて考えるが、それは都労に終わった。
春香が旅行用の大き目のバッグを片手に家から出てきたのだ。つまり、帰宅したのではなく、これから外出するのだ。
またか……と思った。
年頃の娘がこんな夜分に出かける、今回も外泊のようだ。しかも父親になんの連絡もせずにだ。
怒りがわいてきた。
今まさにタクシーに乗り込もうとする娘を大きな声で呼び止める。
「春香! 待ちなさい!」
春香は、こちらに振り向くと、「しまった」というような顔をする。
しかし、何も答えることなく、タクシーに乗り込もうとした。
慌ててタクシーに駆け寄る。
「こんな夜中にどこに行く気だ!」
春香は、一瞬ひどく悲しそうな顔をしていった。
「どこだっていいでしょ! お父さんには関係ない! 仕事ばっかで、ろくに家にも帰らないくせに! 今更父親面しないでよ!!」
ショックだった。仕事は、家族の、春香のためだ。
俺だって、たまには家でゆっくりしたいのだ。しかし、この世の中には悪党が大勢いて、そいつらのせいで警察は暇なしで、妻の死に目にもあえなかった。
いつだって、今日だって疲れているんだ!
頭に血が上っていくのを感じる。
とっさに、娘の腕を掴んで、タクシーから降ろそうとする。
「いいから、降りなさい!」
「いやっ! 離して!!」
腕を振りほどかれる。
その瞬間、恐ろしいものが目に入る。
一瞬、思考が停止し、早鐘のように打っていた心臓が止まりかける。
娘の左腕には、赤い、あのミサンガが蛇のように巻き付いていた。
そんな。
嘘だ。
なぜ、それがお前の腕にある?
言葉を失い、呆然と立ち尽くす俺をみて、これは好機ばかりに春香は「運転手さん、出してください!」と叫ぶ。
タクシーの扉が閉められ、発車するまで、指一本、動かすことができなかった。
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