雨女

第2話 怪談蒐集家

 ここは東京郊外K市にある一軒のBAR。屋号を「夜行」という。


 私は、雑居ビルの階段を下った先の重たそうな木の扉の前に立っていた。


 BAR巡りが密かな趣味である私は、最近この町に越してきた。引越しに伴う諸手続きや、新しい仕事先での人間関係構築のためのアフター5の付き合いなども落ち着き、ようやく自分の時間を取れるようになったため、近くのBARをネットで検索してやってきたのだ。

 

 この店に決めたのは、「夜行」という、BARにしては珍しい和名に惹かれたことと、レビュにあった、マスターがとんでもない美人であるという情報ゆえだ。


 黒く重々しい雰囲気の木の扉の真ん中には、真鍮製のプレートが嵌め込まれており、そこには、黒字にて「夜行」と彫り込まれていた。異界への入り口のような扉に一瞬、ためらいを覚えたが、気を取り直して、同じく真鍮製のノブを掴んで扉を開けた。


 店内は扉のモダンな雰囲気とは打って変わって、ブラウンを基調としたセンスの良い調度品が並ぶ、オーセンティックなBARであった。入って左手に6席ほどのカウンター席があり、店の奥、一段上がったフロアに4席のテーブル席が2セットある。お世辞にも広い店内というわけではないが、決して窮屈というわけではなく、とても居心地が良さそうであった。


 客は見たところ1人のようで、カウンター席の一番奥に初老の男性が座っていた。その男は、パイプを吹かしながら、文庫本を読んでいた。


「いらっしゃいませ。お持ちの傘はそちらのの傘立てにどうぞ」


 霞の中から響くような、静かで、それでいてはっきり聞こえる不思議な声色だった。


「お煙草はお吸いになられますか?」と問われたので、吸わないと答えると、一番手前のカウンター席に通された。


「こちらをどうぞ」とお絞りを手渡わたされ、それを受け取る。コースターを2枚、そっと右側に置く手をちらりと盗み見る。白くほっそりとした美しい手だった。


「なにになさいますか?」と聞かれたため、彼女の後ろのバックバーにさっと目を通して好みのウイスキーがあるのを確認し、それを注文した。


「ファークラスをロックでお願いします」

 

 お絞りで手を拭き、一息付いたところで、ちらりと酒を注ぐ彼女を見る。あまり、注視しては失礼だと思いながらも、目が離せなかった。それほど美しい人だった。


 星雲の様に怪しく光る濃紺の髪を後ろで纏め、黒く大きな瞳は形こそ少女のように可愛らしいが、深淵を覗いているかのごとく深みがあり、薄い唇はローズピンクに艶めいていた。全てのパーツが完璧なバランスで顔に収まっており、肌の白さもあいまって、まるで彫刻のようだった。


 ロックグラスが黒い革製のコースターに置かれ、「どうぞ」と声をかけられるまで、彼女の顔を見つめていた。


 彼女は、他人から好奇の眼差しを向けられる事に慣れているのか、私の非礼を特段なんとも思っていないようで、少しほっとした。


「お水には氷を入れてもよろしいですか?」と聞かれたため、小さくうなづく。


 彼女は、グラスに氷を詰めると、アンティークと思われるガラス製の水差しから水を注ぎ、紙製のコースターにそっと置いてくれた。

 

 ウイスキーを一口、飲み慣れた味に緊張が解けていくのを感じていると、もう一人の客である男性が、彼女に声をかける。


「詩織さん。おかわりいただける?」

「失礼しました。ただいま」


 そう彼女は答えると、男性の空になったグラスに赤ワインをゆっくり注いだ。


「しかし、今日はお客さんが少ないですね。」

「仕方ないですよ。雨ですもの」

「雨の日こそ、カイダンが映えるというものです。今日は、何か新しい話はありませんか?」


 常連客と思しき男性は、先ほどまで読んでいた文庫本に飽きたとみえ、彼女と談笑したいようだった。


 しかし、カイダンとは何のことだろうか。興味が湧き、2人の話に耳を傾ける事にした。


 彼女は困ったような顔をしながら、小声で続ける。


「今夜は、一見さんもいらしておりますし、中には、苦手な方もいらっしゃいますから」

 

 不意に自分が会話に登場した事に動揺したが、彼女との会話に混ざりたいという下心も働き、つい、口を開いてしまった。


「いやぁ、私は気にしないでください。それに、その、カイダンですか?何かは分かりませんが、気になります」


 これでは、2人の会話を盗み聞いていたことを自白しているようなものだ。慌てて「聞くつもりはなかったのですが、すみません」と取り繕った。

 

 彼女は静かに微笑みながら、答えた。


「どうぞ謝らないでください。こちらのお客さまも気にされていませんよ。ね? 山下さん?」


 男性客は、笑って頷いた。


「カイダンとは、怖い話の"怪談"のことです」と彼女は答えた。


 すると男性客は、こう補足する。


「詩織さん、若いがこの店の主人なんですが、彼女は、怪談を蒐集するのが趣味でして。常連客はみな、その怪談を聞きに、このBARに来るんですよ」


 なるほど、怖い話か。店名の「夜行」とは、百鬼夜行の"夜行"だったか、とひとり納得した。


「怪談はお嫌いではありませんか?」と彼女が聞いてきた。


 別に嫌いということでもないし、何より、彼女が語る怪談に興味があった。


「嫌いではないですよ。私も聞いてみたいな」と答えると、彼女はじっと私を見つめてきた。本心かどうか見極めているかのようだったが、納得したのか、「それでは短めなのをひとつ」と言って、彼女は語り出した。


 途端、店の気温がぐっと下がったような気がした。じわりと冷たい汗が首筋に染み出し、肌が粟立つ。


 -りん-


 どこか遠くで微かに、しかし確かに鈴の音が聞こえた。


「これからお話するのは雨にまつわる話。そうですね、名付けるとしたら、この怪異の名は"雨女"」

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