30.本当は僕なんて、誰かに好きになってもらえるような人間じゃない。


「ねえ、何してるの?」


 僕が答えないでいると、小野屋さんはさっきよりも少し弱々しく繰り返した。怒っているような、それでいて同時にホッとしているような声だった。


「散歩……だけど」


 僕の口から出てきたのは、紛れもない嘘だった。


「散歩?」


 僕の腕をつかむ小野屋さんの右手に力がこもった。


「……痛い」


 小野屋さんは無言で、僕の顔を睨むように見ながら、手を離す。


梓帆しほが、あんたのことを探してる」


 僕に何を聞いても無駄だと理解したのだろう。小野屋さんは単刀直入に言った。


「七里さんが?」


 そうだろうね。だって、彼女は僕に別れを告げようとしているのだから。


「何とぼけてるの?」


 小野屋さんの瞳には、軽蔑の色が浮かんでいた。


「とぼけてなんか――」


「メッセージも無視されてるし、家に行っても橘田はいない。電話しても出ないって」


「それは……スマホ、壊しちゃって」


 苦しい言い訳だった。この期に及んで僕は、都合の悪い現実から目を背けようとしていた。


「じゃあ、もうその辺のことはどうでもいい。で、橘田は梓帆がどこにいるか知ってる?」


「……知らないけど、どうして?」


 七里さんの居場所を尋ねられて、悪い予感がふつふつと湧き上がってくる。


「梓帆も一時間前から連絡つかなくなったから……心配で。私なりに梓帆が行きそうな場所を探してみたんだけど、どこにもいなくて……。橘田のこと、今も探してるかもしれない」


 小野屋さんは小さな声で言った。彼女には似合わない不安そうな表情をしている。


 それを聞いて、僕は心に鈍い痛みを覚えた。確実に原因は僕だ。


「もう、家に帰ってるとかは?」


 そうであってほしいと思って口にする。


「梓帆が家に帰ったら、すぐに梓帆のお母さんから連絡が入ることになってる。それがないってことは、まだ外にいるんだと思う。橘田は、梓帆が行きそうな場所に心当たりもないの?」


「それも、わからない」


 スマホは家に置いてきてしまったし、七里さんがどこにいるかも見当がつかない。


 お互いに黙ったまま、数秒が過ぎる。


「……最近の橘田、おかしいよ」


 小野屋さんが低い声で言う。


 そんなこと、自分が一番わかってる。でも――。


「小野屋さんには関係ない」


「関係あるよ!」


「どうして!」


 僕も叫ぶように言い返す。駅の近くということもあって、夜だけどちらほら人がいる。何事かとこちらを見ているが、そんなことはどうでもよかった。


「梓帆が、あんたのこと心配してる。あんたのせいで、梓帆が悲しんでる」


「そんなこと……」


 嘘だ、と言い切れなかった。


 僕の好きになった女の子は、そういう人だから。


 ちょっと抜けているところがあるけれど、他人の悲しみや苦しみには人一倍敏感で、本人よりも心を痛めているんじゃないかって思えるくらいに心配する。


 底抜けに優しい、とっても素敵な人だ。


 だから、僕に愛想を尽かしても、僕のことを好きじゃなくなっても、心配はする。彼女にとって、それは当たり前のことだ。


「橘田は、梓帆のこと、嫌いになったの?」


「違う!」


 今まで出したこともないような、大きな声が出た。自分でもびっくりするくらいに。


 そんなこと、あるはずがない。


 七里さんのことを、僕が嫌いになるわけがない。


「じゃあ、どうして!」


 理由を説明してもわかってもらえない。頭の上に、恋人と別れるまでの日数が見えて、七里さんと僕の関係は今日で終わってしまう――なんて。


 それに、僕も僕自身の気持ちがわからなくなっていた。


 七里さんから別れを切り出されるのが怖い。


 これ以上みっともない僕を七里さんに見られたくない。


 それに加えて、逃げ出してしまった自分が恥ずかしくて、心配をかけたことが申し訳なくて、七里さんと合わせる顔がない。


 七里さんと会いたくない理由はいくつかあった。


 けれど、七里さんと向き合ってしっかり話がしたいとも思っている。


 それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、頭の中がこんがらがって、身動きがとれなくなってしまっていた。


 ただ一つだけ言えることは、七里さんのことが、今でもどうしようもなく好きだということだけだった。


「わからない」


 結局、その一言に集約されてしまう。


「わからないって何?」


「わからないんだよ! 七里さんに会って話したいけど、会うのが怖い。七里さんは、こんな僕の恋人になってくれた。でも、本当は僕なんて、誰かに好きになってもらえるような人間じゃない。ましてや、七里さんみたいな人に。だから、七里さんに釣り合う人間になろうとした。なろうと、したけれど、ダメだったんだ……」


 本音を吐露する。今、言葉にできる精一杯を、僕は口に出してみた。


 相手に伝わるかとか、文章のまとまりとか、そういうことを何も考えずに、思っていることをそのまま吐き出した。


 小野屋さんは驚きも困惑もせずに、真剣な表情で僕の言葉を受け止める。


 受け止めた上で、厳しい声音で言う。


「……うん。あんたが何か悩んでることはわかった。苦しんでるのもなんとなくわかる。でも、それが梓帆を傷つけていい理由にはならない。それに、橘田自身も。そうやって、ずっと逃げ続けるつもりなの?」


 それは紛れもなく正論だった。小野屋さんの言葉は、何一つ間違っていない。


「そんなこと、わかってる……けど」


 この期に及んでうじうじしている僕を見かねたのか、小野屋さんは呆れたようにため息をついてから、ゆっくりと話し始めた。


「私、梓帆にフラれたんだ」


 僕を責めるような口調とは打って変わって、静かに、そして悲しそうに言った。

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