31.積み重ねてきた日々は、一方的なものだった。


「え? どういう意味?」


 フラれた、というのは……。


「そのまんまの意味だよ。私は、梓帆のことが好きだった。友達として、だけじゃなくて、恋愛対象として。気持ちを打ち明けて、今年の夏くらいに、付き合うことになったんだ。でもね――」


 小野屋さんは、そこで言葉を区切って息を吸う。


「梓帆は私のこと、やっぱりそういう意味で好きになれないって」


 いつもの勝気な彼女からは想像もつかないくらいに、小野屋さんは弱々しく呟いた。下を向いていて、何かを堪えているようにも、悲しみに浸っているようにも見えた。


 唇の隙間から漏れる息が、白くなって宙に溶ける。


「……」


 どう反応するのが正解なのか、僕にはわからなかった。


 それ以上に、衝撃的な事実に驚いていた。


 七里さんは、小野屋さんと付き合っていた。


 春に七里さんの頭の上に見えていた数字は、小野屋さんと付き合っていたときのものだったのだ。


 どうりで、学校中の男子を探しても、七里さんと付き合っていた人が見つからなかったわけだ。


 そういえば、七里さんの頭上に数字が現れたころ、小野屋さんにも数字が見え始めたような気がする。どうして気づかなかったのだろう。


 女子の数字なんて、七里さん以外はまったくと言っていいほど意識していなかったし、その可能性を最初から排除してしまっていた。


 それに、一週間前の七里さんの言葉。


 ――ううん。彼氏がいたことなんてないよ。橘田くんが初めて。


 あれは、嘘ではなかったのだ。七里さんが付き合っていたのは、男子ではなく女子で、つまり彼氏ではない。


 小野屋さんは顔を上げて続ける。


「梓帆の方から友達に戻ってほしいって言ってきたのに、私よりも梓帆の方が傷ついてた。こんなことになるなら、最初からちゃんと断っておけばよかったよね、って。ごめんね、って。すごく悲しそうな顔で」


 ああ。想像できる。七里さんは、自分のことよりも他人のことを優先する、優しい人だ。


「私が無理やり付き合わせたみたいなものなのに。梓帆のことを傷つけた。だから私も、橘田のことを責める権利なんてないんだよね。今は付き合う前みたいに普通に接してるけど、本当はまだ少しつらい。でも、私がそういうのを少しでも見せると、梓帆が悲しむから、どうにか我慢できる。少しずつ慣れていくしかないよね」


 そんなことがあったなんて信じられないくらいに、七里さんと小野屋さんの関係はいつも通りだった。少なくとも、僕は気づかなかった。


「だからさ……梓帆と、ちゃんと恋ができるあんたが羨ましいよ」


「そんなこと……」


 僕だって、羨ましかった。七里さんの恋人に、僕は散々嫉妬していた。その嫉妬の対象が、女子だなんて知らずに。


「私じゃ、梓帆の恋人になれなかった」


 小野屋さんが夜空を見上げてこぼす。泣くのをこらえているような声だった。


「でもさ、小野屋さんの気持ちも、ちゃんと、恋だったんじゃないの?」


 実らなかった恋かもしれないけれど、小野屋さんの気持ちが嘘になるわけじゃない。


「……ふふっ」


 小野屋さんは小さく笑う。さっきまで僕に怒っていたとは思えない、柔らかい笑い方だった。


「え、何?」


「梓帆があんたのことを好きになったのも、そういうところなんじゃない?」


「待って。よくわからないんだけど」


「わからなくていいよ、別に。で、橘田はどうして梓帆のことを避けてるの?」


 次はお前の番だ、と言わんばかりに、小野屋さんは僕を責めるような口調に戻る。


 僕は覚悟を決めて、大事な部分だけ話すことにした。


「七里さんから、聞いてない?」


「何を?」


「七里さんは、僕と別れようとしてるんだ」


「……は?」


 小野屋さんは、何を言っているのかわからない、というような反応で僕を見る。


「今日も、話したいことがあるって、七里さんから言われてるんだけど、きっと別れ話だと思って……それが怖くて、逃げてる」


 口にしてみると、改めて情けないなと思う。


「どうしてそういう結論に至ったのかわからないけど、それはたぶん、橘田の勘違いだと思う」


 少し考えるしぐさのあとで、小野屋さんは言った。


「勘違い?」


「たしかに、私は梓帆から橘田のことを相談された。だから、梓帆も悩んでるのは事実。でも、梓帆はあんたのことを嫌いになんてなってない」


 小野屋さんはまくし立てる。


「それどころか、嫌われちゃったかも、って言ってた。最近、橘田の様子がおかしいって」


 僕の頭の中は、疑問符だらけになっていた。


「違う。七里さんは、僕に幻滅して、もう僕のことなんかどうでもいいって――」


「本当に、そう思ってるの?」


 小野屋さんの声は、さっきまでの呆れが混じっていたものと決定的に違っていた。本気で怒っている。


 親友の気持ちを踏みにじられたと感じているのだろう。


 僕は、七里さんとの日々を思い出す。


 僕に向けられた優しい微笑み。


 いつだって楽しそうな、弾んだ声。


「僕だって、そんなふうに思いたくない」


 でも、七里さんの数字は――。


「別れようとしてる人が、デートの下調べなんかする⁉」


「え?」


 デートの下調べ? どういうことだ?


「最近、あんたが元気ないからって、梓帆は色んな場所を調べてた。綺麗な景色を見れば、少しは元気が出るんじゃないかって」


「そんな……」


「あんたのこと、何も知らないから、それくらいしかできないけど、って」


 そして、雷に打たれたような衝撃に襲われる。


 七里さんは、僕のことを何も知らない。


 僕と七里さんは、たしかに恋人として過ごしてきたはずだった。まだ短い間だけれど、たくさん会話もした。


 それなのに、七里さんは僕のことを知らなかった。


 僕たちが積み重ねてきた日々は、今思い返してみれば、一方的なものだった。


 僕はいつだって、七里さんのことを知ろうとしていた。


 でも、僕のことを知ってもらおうとしていなかった。

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