20.好きな人と楽しさを共有できたことが、たまらなく嬉しかった。


 そして僕は、七里さんとの距離を近づけていった。


 なんと、夏休み中にも二回ほど二人きりで出かけることに成功した。半年前の僕がそれを聞いても、絶対に信じないだろう。というか、今でも信じられない。夢じゃないよな?




 八月。お盆前に水族館に行った。


「今日もあっついね~。電子レンジの中にいるみたい」


 水族館の近くの駅で合流した七里さんが、言葉とは裏腹に暑さなど感じさせない爽やかな笑顔で言った。


 連日の真夏日。太陽は容赦なく地球を照りつけている。電子レンジの中、という例えも的を射ているように思えた。


 七里さんの今日の服装は、僕にとってかなり刺激的だった。首回りが緩めの白いTシャツに薄いベージュのカーディガンを羽織っている。下は生脚を大胆に出した短いデニムパンツ。全体的に露出が多い。


「そうだね。腕、まくれば?」


 視線のやりどころに気をつけながら、僕は提案する。


「橘田くん、女の子の最大の敵って知ってる?」


「えっと……カロリーが高い美味しいスイーツとか?」


 話の流れを無視した突然の出題に、僕はとりあえずそれっぽい答えを返す。


「惜しい。紫外線でした」


 どうやら七里さんの中では、会話は繋がっていたらしい。……惜しくはないのでは?


「ああ、それで」


 七里さんが長そでを着ているのは、日焼け防止のためみたいだ。脚とか首はいいのだろうか。


 入場料を支払い、冷房の効いた館内に入る。


「涼しい~。天国みたい」


「そうだね。おさかな天国だ」


「え?」


「なんでもない」


 渾身の一言は不発に終わった。魚を食べて頭良くなりたい。


 僕たちは色々な水槽を見て回る。


「この水槽、魚いないね」


「本当だ。あ、でもこのピグミーシーホースってやつ、擬態してるらしいよ」


 僕は水槽に表示されている生物の写真と説明文を見ながら答える。


「なるほど。擬態かぁ」


 七里さんは真剣な表情で水槽に顔を近づける。


「うん。でも、どこにいるんだろう」


 僕も目を凝らして、擬態したピグミーシーホースを探すけれど、なかなか見つからない。


「見つけた?」


 声のした方を見ると、七里さんの顔がとても近くにあった。心臓が止まりそうになる。本当に天国に行ってしまうところだった。僕がちゃんと天国に行ける良い子かどうかは知らないけど。


「あ……いや。全然見つからにゃい」


 噛んだ。


「にゃい?」


 恥ずかしいから忘れてほしい。


「ちょっと相手の方が一枚上手だったみたい。次、行こっか」


「そだね」


 七里さんはニコニコしながら僕の後ろをついてきた。


 熱帯魚、サメ、くらげ、ペンギン。様々な海の生き物を眺めながら、僕たちは順路に従って歩く。


 他人と一緒に水族館なんて来た経験がない僕は、展示ごとの適切な時間配分がどれくらいなのかわからない。ちょっとじっくり見すぎたかな、とか、さっきの水槽はもっとゆっくり見るべきだったかな、などと考えつつ歩を進めていく。


「わ。美味しそう」


 七里さんが、水槽内で泳ぐマグロを見て呟く。


「その感想は違くない?」


 美味しそうなのは刺身とかであって、生きたマグロを見ても美味しそうとは思わないのでは?


「え? 橘田くん、マグロ嫌い?」


 あんなに美味しいのに、と顔に書いてある。


「いや。好きだけど」


 美味であることは間違いない。


「だよね。私も好きなんだ」


 心臓がドキッと跳ねる。落ち着け。マグロの話だ。彼女が好きなものはマグロであって僕ではない。


「美味しいよね」


「うん」


「とか言ってたらお腹空いてきちゃった」


 えへへ、と笑う七里さん。


 もしかして、水族館よりお寿司屋さんとかの方が良かっただろうか。


 そんなことを思ったけれど、順路に従って水槽を一通り見終わったあと、イルカのショーで楽しそうにしていたので安心した。


「すご~い!」


 七里さんは僕の隣で、イルカがジャンプする姿に、目を爛々と輝かせている。


「うん。すごいね」


 僕はどちらかというと、イルカのジャンプによって水面から散る水しぶきが綺麗だと思った。


 いつもそうだ。


 花火が弾ける夜の空の暗さに、コーヒーの美味しい喫茶店に漂う甘い香りに、粉雪を揺らす冷たい風に、歌声を彩る楽器の音色に、僕は強く惹かれる。


 主役ではなく、それを引き立たせるための背景や裏方が好きだった。


 存在感はなくとも、それがあるのとないのでは、主役の価値が何倍も違ってくるような。


 もしかすると、目立つことが好きではない僕は、そういうものにシンパシーのような何かを感じているのかもしれない。


 僕もそんなふうに、誰かのための唯一に、特別に、果たしてなれるだろうか。


「イルカってテレパシーが使えるんでしょ?」


 息の合ったコンビネーションで跳ねる二頭のイルカを見ながら、七里さんが口を開く。


「テレパシーというか、超音波だね。人間には聞こえない周波数ってだけで、音波ではあるよ。それを骨の振動で受け取ってコミュニケーションをとってるんだ」


 そこまで話してから、しまった、と思った。


 七里さんは、そういう話がしたかったわけではないのだろう。それなのに僕は、彼女の何気ない一言にきっちりと答えを返してしまった。恋愛に疎い僕でも、この返答はよくないということはわかる。女性は共感を求める生き物だって、どこかの誰かが言っていた。


「へぇ~。すごいんだね」


 だから僕の話を聞いた七里さんが、上辺だけではなく、本当に感心したような口調だったことに、僕は幾分か安堵した。


「うん。イルカはすごく賢いんだ」


 今度はただ肯定するだけに留めておく。余計なことは付け足さず。


「あ、違う違う。イルカもすごいけど、私がすごいって言ったのは橘田くんだよ」


「え?」


「橘田くん、すごく物知りだなーって思った。新しいことを知れて、世界が広がったなーって」


「そんな。たいしたことじゃないけど……。七里さんがそう思ってくれたのなら、すごく嬉しい」


「うん。だから、これからも色々と面白いことを教えてね」


 今まで見た中で最上級の笑顔に、僕は思わず見とれてしまう。


 これからも、というのは、また二人で出かけよう、ということだろうか……なんて、いつもはネガティブな僕が都合よく解釈してしまうくらい、七里さんの笑顔には威力があった。




 その二週間後。僕は七里さんと映画を観に行った。


 水族館に行った日の夜。『今日は楽しかった』という無難な文に加えて『またどこか行こう』という、勇気を振り絞りまくってなんとかひねり出した一文を追加したメッセージを送ると、七里さんから『うん。いこう!』という返事が返ってきた。


 僕は有頂天になって、それが社交辞令である可能性を考えずに『いつにする?』などと、ぐいぐい食いついてしまった。思い返してみても完全にバカ野郎だ。浮かれやがって。


 けれど、今まで他人と関わることに消極的な人生を歩んできた僕には、それくらいがちょうどよかったのかもしれない。


 それから何往復かメッセージをやり取りして、映画に行くことが決定した。


 約束の日までの時間を、僕はそわそわしながら過ごす。楽しみにしていることがあると、時間の流れはとても遅く感じるらしい。


 待ちに待った当日。私服姿の七里さんと二人で会うのは三回目だけど、まだ直視できない。一生慣れることはないかもしれない。


「どうしよっか。何か観たいのってある?」


 隣町の大きいショッピングモールにある映画館の前で、僕たちは話していた。


 何を観るかを決めずに当日を迎えたけれど、よく考えたらそういうのはいくつかプランを用意しておくものだったんじゃないかと気づいて、僕はまあまあ焦っていた。どうしよう。


「ん~。これかこれだったら、どっちがいい?」


 七里さんが交互に指をさしたのは、流行中の純愛ものと、海外のアクションもの。


「迷うなぁ。じゃあ……こっちかな」


 と、僕は純愛ものを選択する。


「わかった。じゃあこっちで」


 と、七里さんは僕が選ばなかったアクションものを指さした。


「ええ? なんで?」


「こっちが、橘田くんが普段観ない方ってことでしょ?」


 その説明だけでは不十分だったけれど、七里さんの言いたいことはなんとなくわかった。


 いつもおんなじじゃつまらないでしょ。冒険してみようよ。


 きっとそういうことなのだろう。


 それに、言われてみればアクションものを観たい気もしてきた。うん。たまには冒険してみるのも悪くない。


 タイミングよく、すぐに上映される回があったため、急いでチケット売り場に並んだ。


 ポップコーンと飲み物も買って劇場に入る。


 映画が終わると、僕たちはちょっとお洒落なカフェに入って感想を言い合った。


「やー、超ダンディだったね」


「何、その感想。まあ、ダンディだったけど」


 ハードボイルドな作風とでも言えばいいのだろうか。友情と信頼で固く結ばれた二人の主人公が格好良く描かれていて、終盤の緊張感のあるアクションシーンも素晴らしかった。


「でしょでしょ。あとさ、最後の方! 四階から飛び降りるやつ、すごかったね。普通なら死んじゃうよ」


 敵に追い詰められた主人公のうちの一人が窓から飛び降りるシーンだ。下にはもう一人が用意したトラックとマットがあり、そこから主人公たちの逆転劇が始まるわけだが、二人の息の合った動きに胸が熱くなった。


「ああ、あれはすごかったね」


「だよね! あ、あとさあとさ――」


 目をキラキラさせながら、いつもよりも饒舌になる七里さんに、思わず頬が緩んでしまう。


 好きな人と楽しさを共有できたことが、たまらなく嬉しかった。

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