16.すべてなかったことにしてしまいたかった。
七里さんが恋人と別れたら、僕の心も少しは穏やかになると思ったけれど、決してそんなことはなかった。
毎朝、教室に入って来る彼女の頭の上を見ては、数字がないことを確認して安堵する。
僕はそんなバカみたいなことを繰り返していた。
七里さんに恋人ができたことを知ったときは、言葉で表現することが不可能なレベルのショックを受けた。数字が見えたときの、体中に電気が流れたような衝撃を、今でも僕は覚えている。
もう一度同じことが起きたとしても、同じようにショックを受けるだろう。それなら、もういっそ七里さんの数字を見ようとすることなんてやめてしまえばいいのに。そんなことくらいわかっているけれど、どうしても気になってしまう。
このままでは、前とあまり変わっていないのではないか。それどころか、むしろこじらせているような気さえする。
七里さんに恋人ができたときのことを思い返す。
何も知らないふりをしていつも通りに振る舞う日々を、偽りの笑顔を貼り付けて彼女と話す苦しい日々を、また繰り返すくらいなら。
僕の彼女に対する恋心を、いや、僕と彼女が出会った事実そのものを、すべてなかったことにしてしまいたかった。
過去は決して変えられないし、出会ってしまったからには、好きになってしまったからには、もうどうしようもないのかもしれないけれど――。
それなら、僕が七里さんの恋人になるのはどうだろう。なれるかどうかはいったん置いておくとして。
七里さんには、今は彼氏がいない。
それなら、僕がアプローチをしても問題はないはずだ。
ぐるぐると考えている間に、僕は大胆な思考になっていった。うじうじと女々しい恋心をそっと育んでいたあのころの自分からは、とても想像もできないくらいに。
七里さんの頭上の数字を眺めている約二ヶ月の間、僕は苦しかった。
ただじっと、減っていく数字だけを見て、彼女の恋の終わりを待ち続けることしかできなかった。
それが終わったかと思えば、次はいつ恋人ができるのかとおびえる始末。
もうそんな日々はこりごりだった。
かといって、すぐに行動に移せるわけではなかった。僕は元々、慎重な性格なのだ。慎重といえば聞こえはいいが、優柔不断で決断力がなく、逆に大事な場面では焦りすぎて正常な判断ができなくなったりもする。要するに、ただのポンコツだ。
イケメンでもなければ頭がいいわけでもない。他の人にないもので僕にあるものといえば、他人の頭上に恋人と別れるまでの日数が見える不思議な力くらいのものだ。
それだって、交際している相手がいるのか、いるとすれば何日後に別れるのかがわかるだけ。それが恋愛においてアドバンテージになるかは微妙なところだと思う。
そもそも、僕なんかが七里さんに異性として見られているかどうかが怪しいところだ。スタートの時点でつまずいている。
七里さんにとって僕は、ただの友人である。いや、友人と認識されていればいい方だろう。僕が友人だと一方的に思っているだけで、彼女からしたら、たまに話すクラスメイトくらいの立ち位置かもしれない。気分が落ち込んできた。
考え始めると、僕の思考はどんどんネガティブな方向に突き進んでいく。
けれど、このままでは何も変わらないこともわかっている。
もうすぐ夏休みが始まる。授業がないのはとても嬉しいが、七里さんと会えなくなってしまうのは残念だ。今までは彼女の頭の上の数字を定期的に見ることができていたけれど、それもできなくなる。
夏休みの間に、七里さんに新しく恋人ができたとしても、それがわからない。誰かと楽しそうに話しているかもしれない。二人きりで出かけていい雰囲気になっているかもしれない。恋人になったその男と手をつないで街を歩いているかもしれない……。いや待てよ。そいつ誰だ。
七里さんと会えない間、そんな負の妄想がずっと脳裏に居座っているのだろう。
このままでは苦しい夏休みを迎えることは明白だ。
だから、僕はなけなしの勇気を振り絞ることにした。
七里さんともっと近づきたいと思ったし、自分の気持ちを伝えて、友達以上の特別な関係になりたいと思った。
けれど、そういうふうに覚悟を決めたところで、今まで異性と、いや、他人と積極的に友好的な関係を築こうとしてこなかった僕は、何をどうすればいいのかわからなかった。
少し考えた結果、一人で考えてもどうにもならないだろう、という結論に達する。
僕は脩平に相談することにした。勇気を出してすることが友人への相談というのがなんとも僕らしい。けれどそれは、とても大きな一歩だ。
「脩平さ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
昼休み。僕は脩平に話しかける。
「お、
僕の方を見た脩平は、心なしか、生き生きしているような気がした。
たしかに、今までの僕は、自分の内面をまったくと言っていいほど他人に打ち明けてこなかった。一番の友達である脩平に対しても。
「うん。実は、好きな人がいるんだ」
余計な間をとってしまうと、一生言えなくなってしまうような気がして、準備してきた原稿を読み上げるようにして、僕はストレートに宣言した。
すぐに顔が熱くなり、心臓の動きが速くなる。目が回ってきたような気もする。手汗まで出てきた。
「なるほどなるほど。好きな人がいるのか。……って、え⁉ お前それマジか!」
お手本のような驚き方をされた。
「ちょ! 声が大きい!」
僕は、身を乗り出してくる脩平の頭をグイっと押し返す。頼むから今は目立たないでくれ。
慌てて七里さんの方を横目で見る。幸い、彼女も友人たちと話していて、僕たちの会話の内容には気づいていないようだ。せめて彼女がいないところで話すべきだったかと後悔する。が、時すでに遅し。
「悪い悪い。ちょっとびっくりしちまった。それで、その好きな人ってのは?」
脩平の瞳がキラキラしている。楽しそうだなこの野郎。
「うん。七里さん」
僕は小声で言った。
ここまできたら何を言っても同じだと言い聞かせ、秘密にしていた片想いの全部を打ち明ける。
「ほーん」
脩平は七里さんの方へ視線を向ける。
「バカ! 見るな!」
僕は脩平の頭を机に押さえつけようとする。
ほーん、じゃないだろ。
やっぱり、こいつに話したのは失敗だったかもしれない。
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