第3章
14.彼女は意外と、隠しごとが上手いのかもしれない。
蒸し暑い七月中旬のある日。
七里さんの頭の上の数字は、着実に1ずつ減っていって、呆気なく0になり、消滅した。
とはいっても、僕は七里さんの破局を、直接見たり聞いたりしたわけではない。そもそも彼女が誰かと交際していたという事実も、本人の口から聞いていないし、噂として耳に入ってきたこともない。
ただ、僕に与えられた不思議な力が、七里さんが誰かと恋人になって、そして恋人ではなくなったことを示していた。
原因も不明だし、説明も満足にできないこの現象だけど、その正確さには信頼を寄せていた。
七里さんが恋人と別れたのは、その日の昼休みの間だ。
どうしてそれがわかるかというと、昼休みの前までは、七里さんの頭の上には0という数字があり、午後の授業ではそれが見えなくなっていたからだ。
関係が終わる日には0と表示され、その日のどこかで恋人ではなくなった瞬間に、数字が消える。それが、僕の不思議な力のルールだった。
七里さんの頭の上の数字が0になる日、僕はいつも以上に彼女のことが気になって、そわそわして、これ以上は本人に気持ち悪がられるんじゃないかってくらい、彼女のことを目で追っていた。
さすがに付きまとっていたわけではないけれど、同じ空間にいるときは、視線の端で彼女の姿を捉えていた。本人にバレていなければいいが……。
とにかく僕は、あまり見ないようにしていた七里さんの頭上の数字を、この日に限っては、しっかり観察していた。
朝。異常なし。
二時間目。異常なし。
四時間目。異常なし。
昼休みが始まったときも、僕は七里さんの頭上を確認した。異常なし。
そしてすぐに、
「
教室の後方から
「はいは~い」
七里さんが元気のいい返事をして後ろを向いたので、僕は彼女から視線を外した。
小野屋さんが教室に入って来て、七里さんの席まで近づく。
僕はスマホを操作するふりをしながら、二人の会話に耳を傾けた。
「今日はどこで食べよっか。外は暑いよね」
小野屋さんが言った。
最近、二人はよく中庭で昼食をとっているみたいだが、七月の昼は蒸し暑い。特に今日は、ほとんど人間の体温みたいな気温だ。校舎の外に出るのは自殺行為と言っていいだろう。
「そうだね……。できれば室内がいいかな」
「了解。じゃ、食堂行こ」
七里さんが小野屋さんに腕を引かれる。教室を出て行ったと思ったら、七里さんはすぐに自分の席に戻ってきて、スクールバッグをごそごそと漁っていた。どうやら財布を忘れたらしく、赤の可愛らしい二つ折りの財布を持って、教室の出口で待つ呆れ顔の小野屋さんのところへ、とてとてと小走りに向かった。
財布を持っていったはいいものの、今度は机の上にスマホを置きっぱなしにしていた。七里さんにはこういうずぼらなところがある。そこもまた彼女のいいところだと思う。
僕は飲み物を買いに行くふりをして、教室を出た。
前方の七里さんの後ろ姿にさりげなく視線を向けて、念のためもう一回数字を見る。
0。
たしかに、この瞬間までは七里さんの頭の上に0という数字は表示されていた。つまり、この時点ではまだ、彼女は恋人と別れていなかった。
僕はといえば。飲み物を購入して教室に戻ると、さっさとお弁当を食べて、机に突っ伏して眠っていた。
眠る前は、購買でパンを買ってきた脩平と何かしら会話をしたことは記憶にあるのだが、七里さんのことを考えていたため、内容はろくに覚えていない。
うとうとしていると、いつの間にか午後の授業が始まっていた。
化学の教師が黒板に羅列した化学式を、僕は意味もわからないまま、寝ぼけ眼で眺める。
トイレに行き損ねたな……などとどうでもいいことを思いつつ、徐々に脳を覚醒させていく。
「過酸化水素水の自己酸化還元反応。これは簡単ですね。では次。この化学反応式。なんでしたっけ。では青山さん。………………そうですね、鉛蓄電池の放電の反応。さすがです。では、この反応で酸化されているのは、どの物質でしょうか。また、還元されているのは――」
四十歳くらいのその教師は評判もよく、わかりやすい授業展開をする。しかしながら、昼休み明けの授業ということもあり、夢の世界へ旅立っている生徒が多い。さっきまでは僕もその一人だった。
とりあえず、遅れた分を取り戻さなくては。
僕は机の中から化学の教科書を取り出して広げる。
そういえば、七里さんの数字はどうなったのだろう。昼休みが始まったときは、まだ0の数字はあったが……。
彼女の方をちらりと見ると――頭上の数字がなくなっていた。
僕は思わず立ち上がった。
椅子の脚が床にぶつかる、ガタガタッという音。授業中ということもあり、その音は大きく響いた。
「おや、
などと化学教師に穏やかな表情と声で皮肉られる。教室のあちこちからクスクスと笑い声が聞こえた。
「す、すいません……」
消えそうな声で謝り、椅子に座る。目立ってしまって恥ずかしかったけれど、それどころではなかった。
僕の失態に顔を伏せて笑いをこらえている七里さんの方をもう一度確認するが、やっぱり数字はない。
数字が見える人もいるので、僕の不思議な力がなくなったわけではないはずだ。
とすると――七里さんはついさっき、恋人と別れたらしい。
そんなわけで、七里さんは昼休みの間に、交際していた誰かと別れた。
放課後まで彼女を見ていたけれど、特にいつもと変わった様子は見られなかった。
多かれ少なかれ、彼女なりに何かしら思うことはあるのだろうけれど、いつも通りに振る舞っていた。少なくとも、僕にはそう見えた。
彼女は意外と、隠しごとが上手いのかもしれない。
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