11.その恋はひっそりと静かに咲いていた。


 七里さんと駅まで並んで歩いた後。


 ホームで電車を待ちながら、僕は考える。


 七里さんともっと仲良くなりたい。そう思うのはどうしてなのだろう。


 それに、


 ――秘密。


 好きな人はいないのか、という僕の質問に、七里さんはそう答えた。


 そのことがなんだかモヤモヤする。


 残念ながら、僕がわかるのは恋人の有無と、恋人と別れるまでの日数だけだ。好きな人がいるかどうかは知ることができない。


 でも、好きな人がいなければ、普通に否定するのではないか。


 つまり、秘密、という七里さんの答えは肯定を意味していて……。


 いや。七里さんのことだ。話の流れで適当に答えた可能性も十分に考えられる。


 帰りの電車の中で、ふと、七里さんがクリスマスに誰か別の男子と一緒にいるのは嫌だな、と思った。


 とてもありきたりでつまらないきっかけだけど、僕はそのとき、七里さんのことが一人の女性として好きだということを理解した。


 好きな人がいるかどうかという、自然と口から滑り出た僕の質問。あれも、七里さんのことが異性として気になっている証拠なのだろう。


 七里さんに恋をしていることがわかった。


 でも、僕は何も行動を起こさなかった。


 人を好きになるのが恋で、好きだから恋人になってほしい。


 七里さんはそんなことを言っていたけれど、僕の場合は少し違う。


 人を好きになるのが恋で、好きだけど恋人にはなれそうもない。


 ただ単に、僕は七里さんのことが好きで、そこで終わりだった。その先を考えることができなかった。僕の恋の行く末は、行き止まりだった。


 恋愛に関して何もわからなかったからというのもあったし、僕が七里さんみたいな素敵な女の子と釣り合うわけがないという、諦めみたいなものもあった。


 だから僕は、気持ちを自覚したあとも、七里さんとはそれまでと同じように接した。同じように接しているつもりだったけれど、もしかすると、ちょっと挙動不審になっていたかもしれない。内心では、とても緊張していた。


 だんだん慣れてきて、ほとんど正常に話せるようになった。けれども話した後で、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう、とか、話そうと思っていたことを話すのを忘れていた、とか、そういう反省会的なものを自分の中で開くようになった。コミュニケーションが下手なところはまったく変わらなかった。


 二年生で、七里さんと同じクラスになれた。人間関係がリセットされて、委員会決めなどの面倒なことも増えるクラス替えを、初めて嬉しいと思った。


 さすがに、隣の席とまではいかなかったけれど、彼女との距離は、少なくとも物理的には縮まった。心理的にも、もっと近づきたい気持ちはある。


 けれど、何一つ行動に移すことはできない。


 僕は臆病だったし、身の程を知っていたし、多くを望むこともなかった。


 叶う恋もあれば、叶わない恋もある。


 努力せずとも叶う恋もあれば、どれだけ願っても叶わない恋もある。


 きっと、僕のこの恋は叶わない。


 それなら最初から、一方的に好きなだけの恋でいい。必要以上に傷つきたくない。


 痛々しくて気持ち悪い考え方だってことは理解している。


 だからこの恋は、僕の内側だけに存在していて、そこで完結していた。


 僕に好きな人はいないし、恋人を作る気もない。


 僕の外側の世界では、そういうことになっていた。


 自分の心の一番深い場所だけに、その恋はひっそりと静かに咲いていた。


 彼女が仲の良さで男子を順番に並べたとして。


 僕は半分よりもちょっと上にいるくらいでいい。


 まあまあ仲の良い男子。話しやすい人。


 そのくらいに思ってくれていれば、それだけで十分だ。


 そうやって、無理やり自分に言い聞かせてきた。


 そんな臆病で生産性のない片想いが半年くらい続いて――二年生の夏。


 ついに七里さんに恋人ができてしまったのだった。




 七里さんに恋人ができたことが判明してから、僕は魂の抜けたような日々を送っていた。


 失恋の痛みがわかったような気がするけれど、僕のこの喪失感は、失恋と呼んでもいいものなのだろうか。


 片想いで終わらせることを決めた僕に、悲しむ資格なんてないんじゃないか。


 唯一の救いは、彼女の頭上に表示された数字の小ささだった。


 59。


 それが、僕が最初に確認した、七里さんの頭上の数字。


 七里さんの交際は、すぐに終わる。


 僕はつまるところ、最低な人間だった。


 数字が現れてから五日。


 今のところ、七里さんの行動にあまり変化はない。誰かと一緒に帰っているとか、スマホをよくチェックするようになったとか、そういった様子は見られなかった。


 けれど彼女の頭上にはたしかに数字があって、恋人ができたことは間違いない。


 もしかすると、表面上は変わらないだけで、授業中に彼氏のことを思い出していたり、週末のデートを楽しみにしたり、そういう恋する乙女みたいなことをしていたのかもしれない。想像したら鳩尾のあたりが痛くなってきた。重症だ。


 七里さんと付き合っている相手はどんな男だろうか。そんなことを考えたってつらくなるだけなのに、つい想像してしまう。


 軽薄そうなチャラチャラした人だったらどうしよう。逆にパッとしない暗い感じの人でも、それはそれで嫌だ。


 結局、それがどんな人であっても、僕は納得できないのだと思う。


 せめて七里さんのことを傷つけない、優しい人であってほしい。




「橘田くん、ンガチュールガ」


 七里さんの頭上に数字が現れてから一週間が経ち、少しだけショックから立ち直ってきたある日の朝。僕は彼女に話しかけられた。


「何それ」


「ゾンカ語で『おはよう』って意味」


 52という数字を頭の上に表示させた七里さんが誇らしげに言う。


「ゾンカ語?」


 聞いたことがない。ゾンカなんて国、なかったと思うけど。ついに独自の言語でも開発したのだろうか、などと考えてしまう。


「昨日の夜、英語の課題がわからなすぎて、開き直って電子辞書で遊んでたら出てきた」


 とても七里さんらしい経緯だと思った。


「どこの国の言葉なの?」


「さあ。知らない」


「ええ?」


 知らないんだ。


「橘田くん、ンガチュールガ」


「うん。おはよう」


「違うでしょ。ンガチュールガ」


「えっと、ンガ……チュールガ?」


 そんな三回聞いただけの異国の言葉、すぐに発音できるわけがない。


「まあいいでしょう」


 七里さんは満足そうにうなずいた。


 そんなことより、さっそく一時間目が英語なんだけど、課題は大丈夫なのだろうか。


 七里さんは自分の席へ戻っていった。


 恋人ができてからも、七里さんは以前と変わらずに僕に接してくれている。


 ちなみに、ゾンカ語はブータンで使われている言葉らしい。

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