10.心の奥の方が、くすぐったく感じた。


 僕が七里さんへの恋心を自覚した、一年生の冬のある日。


 二学期の最後の日だった。




 終業式が終わって、明日から冬休みとなる。二週間という短い間であるにもかかわらず、それなりの量の課題が出されていて、あまり休みという感じはしない。自称進学校だから仕方ないのだが。


「じゃ、俺は部活だから。よいお年を」


「うん。よいお年を」


 脩平は、部活用の着替えなどが入っているであろう大きめのバッグを持って教室を出て行った。そのころの僕は、球技大会で同じチームになったことをきっかけに、脩平とよく話すようになっていた。


 部活動に所属していない僕は、ゆっくりと荷物をスクールバッグに詰めていく。


 さっそく大勢で遊びに行くらしいクラスメイトたちに声をかけられることなく、僕は教室を出た。


 みんなで遊びに行くんならちゃんと全員に呼びかけないと、みたいな、おめでたいのかなんなのかよくわからない思考の親切なクラスメイトに誘われてもどうすればいいかわからないので、気配をなるべく薄くしていた。


 一人寂しく廊下を歩き、昇降口へと向かった。長期休暇が始まるからか、いつもより賑やかな空気が教室から漏れ出ている。


「あれ。橘田くんだ」


 靴を履き替えて外に出ると、七里さんが声をかけてきた。


「なっ、七里さん!」


 突然のことだったので、声が裏返った。恥ずかしい。


「あはは。驚きすぎ」


「いや。ボーっとしてたから、ちょっと驚いちゃって」


 そもそも人間関係が希薄な僕は、突然声をかけられるということに慣れていないわけで。


「今から帰り?」


「うん。七里さんは?」


「私も今から帰るとこ」


 そのまま、なんとなく二人で駅まで歩くことになった。彼女がいたこともなければ、友達と呼べるような女子もいない僕にとって、女の子と二人で並んで歩くなんてのは、一大事以外の何ものでもなかった。


 思えば、このときすでに、僕は七里さんに対して好意を抱いていたのだろう。ただ、そのことに気がついていなかっただけで。


「今日は小野屋さんたちは一緒じゃないの?」


 黙って歩いているのも気まずいので、なけなしの社交性を総動員してコミュニケーションを図ろうと試みる。いつも友人に囲まれている七里さんが一人でいるのは珍しいような気がして、尋ねてみたのだ。我ながら、可もなく不可もなく、無難な話題だと思う。


「佳月たちなら、バッティングセンター行ってるよ」


「ふぅん。七里さんは一緒に行かないの?」


 思ったことをそのまま口にしてから、踏み込みすぎてしまったかもしれないと気づく。


 女子と二人で並んで歩いている。紛れもなく非常事態だった。そのせいで、考えてから発言する、という基本的なことができなくなっていた。


 一般的に、女子同士の付き合いはとても面倒くさいと言われている。グループ内に不文律みたいなものが存在して、それを破るとハブられる。そういったイメージがあった。


 もし今の七里さんがそういう状態にあるとするなら、今の僕の発言は完全にキングオブ無神経だ。そんな僕の心配は、次の七里さんの言葉で杞憂に終わる。


「私、運動神経が壊滅的に終わってるんだよね。どれくらい壊滅的かっていうと、賞味期限が二週間過ぎた牛乳くらいに。ってわけで、せっかくの楽しいひと時を盛り下げちゃうし、ボール当たったら痛そうだからパスしてきた」


「へぇ。そ――」


 そんなことないんじゃない? と言いかけて、今度は無事に飲み込む。


 体育の授業で走っている七里さんを、教室の窓から見ていたことがある。綺麗なフォームで走る七里さんは、運動神経が悪いようには見えなかった。それとも、身体能力は高いが球技が苦手というタイプなのだろうか。


「――そうなんだ。それは壊滅的だね」


 どちらにせよ、七里さんのことを遠くから一方的に見ていたことを本人に知られるわけにはいかないので、納得したふうに僕は答えた。


「そうなのです。ところで、橘田くんは冬休み、何か予定とかあるの?」


 七里さんが話題を変える。


「何もないよ」


 ただの雑談なのに、緊張して声が震える。何か変なことを口走ってしまわないかと不安になりながら、僕は言葉を発していく。


「ないんだ」


「うん。残念ながらね。七里さんは?」


「私も特にないんだよね~」


「そっか」


 じゃあ、どこか遊びに行かない? などと付け足すような度胸は一滴たりとも持ち合わせていない。


 あれ。どうしてそんなことを思うのだろう。僕は七里さんと一緒に遊びに行きたいのだろうか。仲良くなりたいことはたしかだけど……。


「そーなの。友達はみんなクリスマスに彼氏とデートなんだってさ。イルミネーション見に行ったり、ケーキ食べたりするんだって」


 七里さんがうらやましそうに言う。浮上した疑問はいったん置いておこう。


「へぇ」


 クリスマスか。そんなイベントもあったな。僕には縁のない行事だった。夕飯に揚げた鶏肉が出るくらいだ。


「七里さんは、彼氏とかいないの?」


 口に出してから、またやってしまった、と思った。


 中年の上司が若い女性社員に言って気持ち悪がられる台詞じゃないか。どれだけ焦っても、滑り出た言葉は取り消せない。


 慎重に言葉を選んでいるつもりだったのに、つい流れで聞いてしまった。そもそも、その質問の答えはすでにわかっている。七里さんの頭上に数字は出ていない。


 数学が苦手な人が計算ミスを多くするように、コミュニケーションが苦手な僕は、距離感を何度も間違えてしまう。


 いや、でも……デートとか彼氏とか、先にそういう話題を出したのは七里さんの方で。さっきの会話は自然な流れだったはずだ。僕は何も悪くない、と自分の発言を正当化しようとするが、どう感じるかは彼女次第だ。


 ところが、僕の心配はまたしても杞憂だったらしく、彼女は笑って言った。


「残念ながらいませ~ん。橘田くんと同じく独身です~」


「独身はみんなそうでしょ」


「たしかに!」


 あははっ、と爽やかに笑い声を上げる七里さん。


 変な雰囲気にもならずに済んだ。


「というか、どうして僕も独り身だって決めつけるの?」


「え? 違うの?」


 違わないでしょ? と七里さんの表情が言っていた。失礼な人だな、と少し思ったけれど、なぜか嫌ではなかった。


「違わないけど」


「ほら~。ってわけで、私は今年もぼっちクリスマスです」


 七里さんは嬉しそうに笑った。


「でもさ、そもそも、クリスマスだから恋人と何かをするっていう風潮がおかしいんじゃないかな。今年の十二月二十五日はただの平日だし。僕はキリスト教徒じゃないし」


「それ、よく恋人がいない言い訳に使われるやつじゃん」


 僕の熱弁は虚しくぶった切られる。


「七里さんも使っていいよ」


「別に橘田くんがオリジナルなわけじゃないでしょ。使うけど」


「使うんだ」


 すごい。テンポよく会話ができている。普段はバタ足しかできないのに、バタフライができてしまった人の気分は、きっとこんな感じなのだろう。……そんなやついないか。


「みんな、彼氏欲しいーとか、恋したいーとか、女子高生らしいこと言ってるし、それで実際に恋愛してたりもするけど、私はそういうのがいまいちわからないんだよね」


 七里さんの声が、ちょっとだけ真面目なトーンに変わる。


「恋愛には興味がないってこと?」


 彼女の方から恋愛系の話題に戻した以上、このくらいの質問はセーフだろう。


「別に、そういうわけではないんだけど。うーん、順番が逆と言うか……」


「順番?」


「恋人がほしいから、人を好きになる。恋がしたいから、人を好きになる。それってなんか違くない? もちろん、私の周りの人たちみんながそう思ってるってわけじゃないんだけど、違和感というか、モヤっとするというか……」


 七里さんは眉間にしわを作って、もどかしそうに言葉を選んで紡ぐ。


「つまり――人を好きになるのが恋で、好きだから恋人になってほしい、っていうのが自然なんじゃないかなって。……あ、ごめんね。いきなり変なこと言っちゃって」


 いつもよりもよく喋る七里さんに、僕は圧倒されていた。


「うん。大丈夫。言いたいことはわかるから。いつもと違って」


「よかった。……って、いつもと違ってってどういうこと⁉」


「あはは。冗談だよ。で、七里さんは、好きな人はいるの?」


 二度あることは三度ある。慣れない冗談は言うものじゃない。また踏み込みすぎてしまった。十七年間で培った学習能力はどこへいったのだろう。


 僕のそんな無遠慮な質問に七里さんは、


「――秘密」


 それだけ言って、不敵な笑みを見せた。


 僕はその笑顔を見て。


 心の奥の方が、どうしてか、くすぐったく感じた。


「秘密って……」


「あ、じゃあ、私こっちだから。よいお年を」


「ああ、うん。よいお年を」


 いつの間にか駅に着いていた僕たちは、定期券をかざして改札をくぐる。僕と七里さんの家は逆方向で、電車も別々だった。


 ばいばい、と笑顔で手を振る七里さんに、僕は控えめに手を振り返す。


 ただそれだけの動作で、心が温かくなった。

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