5.一方的に好きでいるだけの恋は、たまにつらくなるけれど。


 日曜日。脩平が失恋する日がやってきた。


 僕はいつもの休日と変わらずに、少し遅く起きて、勉強したり漫画を読んだり、なんとなくインストールしたスマホゲームで時間をつぶしたりしていた。友達の少ない男子高校生の模範的な休日だった。


 母はちょっと高めのお菓子を食べながら録り溜めたドラマを観ているし、父は趣味のゴルフに出かけている。有華は今日も朝からバスケ部の練習で不在。


 これ以上ないくらいに平和で平凡な日だ。


「あ、柾人ー。暇ならレモンの散歩行ってきてくれない?」


 喉が渇いてリビングに降りると、ソファに座った母が僕に言った。ドラマがよっぽど面白いのか、自分で行く気はないらしい。


「はいはい」


 僕はコップにお茶を注ぎながら答える。


 レモンというのは橘田家で飼われている犬だ。犬種はゴールデンレトリバー。もふもふしていて非常に愛らしい。


 薄めの上着を羽織り、ビニール袋を何枚かポケットに入れて玄関を出ると、寝そべっていたレモンが、ゥワン! と鳴いて起き上がった。ハッハッハッと舌を出しながら、嬉しそうに尻尾をバタバタ振る。


 僕の姿を見て、散歩に連れて行ってもらえることを察したらしい。賢い犬だな、とレモンの頭をわしゃわしゃモフモフする。それだけでストレスの半分は飛んでいく。


 有華が小学三生のときにどうしても飼いたいと言い、しっかり世話をすることを条件に飼い始めたのがレモンだ。


 しかし、レモンの世話は案の定、母と僕の仕事になっている。まあ、可愛いからいいんだけど。


 僕はレモンにつながれたリードを持ち、近所を適当に歩く。レモンはご機嫌で、僕の少し後ろをついてくる。


 次はどっちに行くの? というような期待の眼差しを感じる。決まったコースを歩く母と違い、僕は毎回、気分でコースを変えていた。


 帰り道が大変にならない程度に遠くまで歩いて、来た道とはまた別のコースを通って家に戻る。


 傾いた陽ざしを受けながら、僕は脩平のことを考える。


 今ごろ、悲しみに暮れているかもしれない。そう思うと、僕まで胸が痛くなってきた。


 もちろん恋人と別れる体験なんてしたことはないけれど、脩平は吉見さんのことがとても好きで、すごく大事にしているということは知っている。


 好きであればあるほど、失恋の痛みは強くなる。


 どうしてそんなリスクを背負ってまで、人間は恋をしてしまうのだろう。


 きっと、恋は理屈じゃないのだ。


 屈託のない七里さんの笑顔が、自然と脳裏をよぎって、胸がキュッときしんだ。


 レモンの散歩から帰宅し、夕食とお風呂を済ませる。


 ドライヤーで髪を乾かしているとき、明日までの数学の課題があったことを思い出した。慌てて取り掛かる。


 幸い、簡単な問題がいくつかあるだけのプリントだった。僕は教科書を見ながら解いていくが、どうも集中力に欠ける。やはり脩平のことが心配だった。


 時計を見ると、短針は十を指していた。さすがにもう別れ話は済んだはずだ。


 あの脩平がフラれたくらいで死のうとするなんて思わないけれど、落ち込んでいるだろうとは思う。


 僕は連絡をすることにした。


 普段から何気ないやり取りはしているとはいっても、いきなりなんの脈絡もなくメッセージを送るのは不審がられるかもしれない。


 スマホの画面を見つめながらじっと考える。


 数分後、散歩のときに撮影したレモンの画像を添付して『今日も愛くるしい』の一文とともに送りつけた。


 脩平はレモンが大好きで、何度か一緒に散歩に出かけたこともある。


 すぐに既読マークがつき『今度モフらせろ!』と返信がきた。どうやら生きてはいるらしい。ひと安心だ。




 翌日の月曜日。教室に入って脩平の頭の上を確認すると、やはり数字が見えなくなっていた。


 脩平の学校での様子は、いつも通りなように見えて、やはりどこかおかしかった。ボーっとしていることが多い。少し前の僕みたいに。


 昼休み。いつもは元気な脩平が、机に突っ伏している。


「脩平、何かあった?」


 僕が声をかけると、彼は頭だけこちらに向けて、


「……柾人って、意外と鋭いよな」


 沈んだような声で言った。


「意外とは余計だよ」


 まあ、僕に恋人と別れるまでの日数が見える不思議な力なんてなければ、今日は疲れてるんだな……くらいで終わっていただろうけれど。


「……昨日、まりなにフラれたんだ」


 太陽みたいな明るい脩平に似つかわしくない、弱々しい声だった。


「……」


 計画性のなかった僕は、脩平が別れたことを初めて知ったリアクションをとらなくてはいけないことに気づき、狼狽する。


 どんな反応をすればいいのだろう。驚くのが一番なのだろうが、演技力に特に定評のない僕だと、大げさになってしまうかもしれない。


 結局、黙ったまま脩平の次の言葉を待った。怪しまれてしまうだろうか。


 しかし幸運なことに、脩平は、僕の沈黙を吉見さんとの破局に対する驚きと解釈したらしく、補足説明を入れてくれる。


「最近、ちょっとまりなの様子がおかしいなとは思ってたんだけど、俺は気にしないふりして、無理やり明るく振る舞ってた。でも昨日、ついにそういう話になっちゃってさ……」


「そう……なんだ」


 失恋した友人にかけるべき言葉など、僕は何一つとして知らなかった。


 それはつらかったね、も、もっといい人がいるよ、も違う気がする。


 脩平のつらさなんて本当の意味では理解できないし、もっといい人がいるかどうかなんてわかるわけがない。


 一緒に心を痛めることくらいならできるけど、本人が一番苦しいことはわかっている。


 僕は、どうしようもなく無力だった。


「その場では笑顔で、お互い幸せになろうな、なんて言ったけど、本当はかなりきついんだよなー」


 わざと軽い口調で話す脩平の姿に、僕まで胸が苦しくなった。


 別れを切り出した相手の負担を軽くするため、色々な気持ちを心の奥にしまいこんで笑顔を作る脩平の姿が、簡単に想像できる。


 僕の親友はそういう人間だった。


「話くらいなら聞くよ。本当に聞くだけだけど」


「柾人に話すくらいならレモンに話すわ」


「ふっ……」


「何笑ってんだ」


「だって。ゴールデンレトリバーに弱音を吐く男子高校生って……シュールすぎるでしょ。想像したら笑えてきて」


「はは……たしかにウケるな。動画撮ってネットで公開してもいいぞ」


「メンタル鬼強おにつよかよ」


「ちゃんと広告つけろよ。収入は半分もらうからな」


 脩平の強がりではない楽しそうな笑顔が見れて安心する。


 そして同時に、僕は理解した。


 恋愛はやはり難しい。


 脩平でも上手くいかないことがあるのだ。格好よくて優しくて、スポーツもできる男ですら、失恋して落ち込むことがある。


 僕は教室の前方に視線を向ける。


 七里さんは、楽しそうに友人とのお喋りに興じていた。


 一方的に好きでいるだけの恋は、たまにつらくなるけれど。


 臆病でひねくれていて、人間として大切な何かが欠けている僕には、これ以上ないくらいにお似合いだった。

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