第2章
6.好きな人に好きになってもらえれば、それだけでいい。
恋人と別れるまでの数字が頭の上に見える。僕が体験している不思議な現象は、言ってしまえばそれだけのことだった。
それが見えたからといって、何か特別なことができるかと言われると残念ながらそんなことはない。
大切な誰かを救えるわけでもないし、世界を守れるヒーローになれるわけでもない。
ただ、他人の恋愛関係というものすごく狭い範囲で、ざっくりした未来を予知できるというだけだ。
ゴシップ好きな人にとってはかなり嬉しいのかもしれないが、僕は違う。誰が誰と付き合おうと、それほど興味はない。
とはいっても、他の人が知らないことを知れるという立場には、つい優越感を抱いてしまうのも事実だ。
たまに暇なときに、目を凝らしては『ああ。あいつ、彼女できたんだ』とか『そういえばあのカップル、もうすぐ別れるんだっけ』とか、勝手なことを思っていた。
その後、偉そうに他人の恋愛模様を覗いていた自分が嫌になるのも、お決まりの流れだった。
大型連休が終わり、大多数の生徒の気が緩みに緩んでいる五月中旬。
「――つまり、翻訳されてタンパク質が合成されるわけだ。転写と合わせて、えー、DNAからタンパク質が作られる過程で重要なワードになるからしっかり覚えておけ。また、あー、このDNAからタンパク質が作られる流れのことを、セントラルドグマと言って、えー――」
生物教師の
しっかり聞いていれば、その説明はとても理路整然としていてわかりやすいのだけれど、間延びするような低音の優しい声と春の陽気のコンボで、多数のクラスメイトがダウンしている。
平均睡眠率は十パーセントを超え、瞬間最高睡眠率は三十五パーセントを記録しています、といったところだろうか。
僕も例に漏れず、ウトウトしていた。まぶたがものすごく重い。意識を失いかけること数回。
このままでは夢の中へ旅立ってしまう。眠気を振り払おうと首をぐるぐると回すと、数字がぼんやりと視界に入ってくる。
ふ、と目を留めたのは、クラスメイトの
河本くんは野球部のお調子者だ。彼女がほしい、狙っている女子がいるとしきりに漏らしていたのを、クラスメイトとあまり交流のない僕ですら知っている。というのも、河本くんは
へぇ。彼女ができたんだ、などと、感想とも到底呼べないような中身のないことを思っていると、廊下を横切る影が目に入った。
ふくよかな体で開いたままの扉から授業風景を覗いているのは、この学校の校長だった。年も六十歳近く、若干メタボ気味の校長は、こうしてよく授業の様子を廊下から眺めていたりする。
この授業風景は少しまずいのではないかとも思ったが、僕の知ったことではない。既婚者の校長の頭上には7738という数字が見える。約21年だ。
この力のせいで、365の段が言えるようになった。数学のテストでごくまれに役に立つ。
教師たちのほとんどは数字が見えていて、生徒に比べるとその数字はかなり大きいものだった。すでに結婚している人も多いが、独身の教師も大きめの数字が見える人が多かった。
この先生、彼女がいるのか。意外だな……などと失礼な感想を抱いたりもする。
まあ、公務員だし。仕事が安定していて人生設計がしやすいのだろう。そう考えると、教師というのはなかなかの優良物件なのかもしれない。
複数の数字が頭の上に見えている人もいる。浮気、不倫。そんな不道徳な単語が脳裏をよぎる。僕がそれを知ったからといって、どうするつもりもないけれど。
「――転写が行われるのは、あー、核だが、翻訳が行われるのは、あー、細胞質、リボソームになる。勘違いしやすいところだが、しっかり理解しておくように」
生物教師の長嶋もその一人だった。数字は17449と216。たしか、既婚者だったような気がするが……。
おそらく17449の方が奥さんとの数字で、216の方が不倫相手との数字なのだろう。あるいは逆かもしれない。だとしたら昼ドラも顔負けのドロドロ展開だ。
どちらにせよ、二股をしていることは確実だ。不快感がなくはないけれど、僕には関係のないことだし、怒る資格もそのつもりもない。
こっそり脅迫して生物のテストの問題を教えてもらうことくらいならできそうだ。もちろん、そんなことをする行動力はないけれど。
「俺が落ち込んで、まりながまた好きになってくれるってんなら、いくらでも落ち込むけどさ。くよくよしてたって仕方ないだろ」
そんな強がりではない台詞を聞いて、また一つ、僕は脩平を強くリスペクトすることになった。
脩平が別れたという話がすでに公になっているのだろう。つい先日、一年生の女子に呼び出されていた。
呼び出しのとき、教室に恐る恐る入って来たその女子は顔を赤くしていたし、数人の友人らしき人影がこそこそ見守っていたので、僕ですら告白だとすぐにわかった。
脩平は驚いた様子もなく、普通に受け応えをし、初めて話したであろうその女子に応じていた。僕には絶対にできないことだ。そもそも知らない女子に話しかけられることはないから、心配することはないのだけれど。
そして脩平は、その告白を断ったらしい。
「どうだったの?」
普通に教室に戻って来て、なんでもなかったように弁当を広げる脩平に、僕は尋ねた。
「付き合ってくださいって言われた」
「それで?」
「断った」
「え?」
頭上に数字は見えていない。本当に断ってきたらしい。
「だって俺、その子のこと、全然知らないし。いきなり付き合ってください、なんて言われてもな……」
カラっとした笑顔で言う脩平。モテない男に一発ずつ殴られてしまえ、と思った。そのときはもちろん僕も殴る。
まだ前の彼女と別れたばっかりだから、というような、綺麗な理由ではないのが脩平らしくていいな、とも思った。
せっかくのチャンスを無駄にするなんてもったいないのでは……などと考えているのは、僕にはそういう経験が皆無だからだ。
顔も性格も頭も良くて、完璧超人とまではいかなくとも、それに近い魅力的な人間。そんな脩平なら、この先いくらでもそういう機会が訪れるのだろう。
でも不思議と、それを羨ましいとは感じなかった。ちょっぴり腹立たしくはあったけれど。
それはきっと、僕が
好きな人に好きになってもらえれば、それだけでいい。他の人からいくら好意を寄せられようと関係ない。
もちろん、壊滅的にモテる要素のない僕にとって、それは戯言でしかない。他の人から好意を寄せられたことだって、今まで一度もありはしないのだから。
好きになってほしい人に好きになってもうらうことが、どれだけ難しいか。僕はわかっているつもりだ。
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