4.どうして、恋というやつは、こんなにもままならないのだろう。


 昼休み。僕は机に突っ伏して目を閉じていた。色々と考えすぎて疲れてしまっていた。


 頭の中を空っぽにしようと努めていると、


 ――高校生なんて悩みのないやつの方が少ないだろ。


 先ほどの脩平の言葉が脳内でリフレインする。


 高校生の悩みの最たるものといえば、恋愛に関することだ。


 教室。放課後。中庭。夏休み。下駄箱。恋の話は、至るところで咲いている。


 さっき脩平は、僕には悩みがなさそうだと言っていたが、決してそんなことはない。


 視線を斜め前方向に向ける。そこには、昼食を食べながら友人たちと楽しそうに喋る七里さんの姿があった。


 顔立ちは少し幼くて、ショートボブがよく似合う。いつもふんわりと微笑んでいて、汚い言葉を使ったり、声を荒げて怒ったりするところを見たことがない。とても安心感のある素敵な人だと思う。


 そして彼女は、ただの素敵な女の子ではない。考え方が人とちょっとだけ変わっているのだ。少し変、と言ってしまえばそれまでなのだけど、そんなところも含めて、僕は彼女のことが好きだった。


 ちなみに今のところ、彼女の頭の上に数字は見えていない。


 そういえば、今日はまだ確認していなかったな、と思い、斜め前の彼女の方を見ると――。


 目が合って――微笑まれた。


 いや、別に……。なんでもないよ。ちょっと時間を確認してただけ。


 心の中で言い訳しながら、僕は彼女から視線を外して、黒板の上にある時計の方を見た。


 ふーん。変なの。とでも言いたげに、七里さんも顔をそむけた。その頭上に数字はなく、僕は安堵した。


 彼女は友人たちとのお喋りに戻る。


 僕は七里さんのことが好きで、七里さんも、僕のことを悪くは思っていないはずだ。


 まあ、悪くは思っていないというのは、言葉通り、そのまんまの意味なんだけど……。


 さっき、僕が七里さんの方を見たときに目が合ったということは、もしかして七里さんも僕の方を見ていたのかもしれない。なんて妄想をちょっとだけしてから、すぐに打ち消す。


 淡い期待なんて、するだけ虚しくなるのだということを、僕は理解していた。


 僕が七里さんと出会ったのは、去年の夏だった。


 今思い返してみれば、あれは一目ぼれというやつだったのかもしれない。恋愛経験など皆無だった僕は、彼女への気持ちを自覚するまでに数ヶ月を要したけれど。


 それから長い時間をかけて、たまに話すまあまあ仲の良い男子というポジションを手に入れていた。だから、急に目が合ったときだって、不審がられはしても、不快に思われることはない。我ながら思考が気持ち悪いな、と思う。


 付き合いたいという気持ちがまったくないと言えば、それは嘘になる。


 でも、告白したりとかデートに誘ったりとか、気持ちを行動に移す勇気もなかった。


 僕みたいな、たいした長所のない人間と、七里さんのような素敵な人間が釣り合うわけがない。


 だから、この恋の結末はすでに決まっていた。


 どこにでもあるような、想いすらも告げられなかった臆病な恋として、僕の心の奥にしまい込まれるのだ。


 脩平の言葉を借りるとするなら、七里さんのことは、〝悩んでもどうにもならないこと〟だった。


 この恋に関して、僕が悩むことなど何一つない。だから悩むことなんてやめてしまえばいい。それが合理的で効率的な判断だ。


 けれど――悩むのをやめたところで、僕が七里さんに抱く気持ちまで消えてなくなるわけではない。


 どうして、恋というやつは、こんなにもままならないのだろう。


「昼、食べねーの?」


 僕が感傷に浸っていると、脩平が話しかけてきた。左手に持った大きな弁当箱は、すでに半分近くが空になっている。


「食べるよ」


 僕はスクールバッグからおにぎりを取り出す。


「なんか食欲なさそうだな。俺が代わりに食べてやろうか?」


「ちゃんと食べるって。ってか、二時間目の休み時間にもパン食べてなかった?」


「パンの袋に貼ってあるシール集めると、お皿がもらえるんだよ」


 答えになってない。でも、高校生の運動部の男子はみんなこんな感じなのだろう。


「そういえば、今週も日曜日は部活ないんだっけ」


 脩平の所属するハンドボール部は、毎週日曜日は部活が休みだ。


 顧問が厳格な先生で、高校生なんだから勉強もちゃんとしろ、とのことらしい。勉強する部員なんてほとんどいないみたいだけど。


「ああ。でも残念だが、俺の予定はもう埋まってるんだな~」


 どうやら、僕が遊びにでも誘おうとしていると勘違いして先手を打ったようだ。普段は凛々しい脩平の顔が、だらしなく緩んでいる。


「何、その嬉しそうな顔は。またデート?」


「そんなところ」


「次のテストで赤点を取ってしまえばいいのに」


 口ではそう言いつつも、心からそんなことを思っているわけではない。


 僕は脩平のことをすごいやつだと思っている。部活動に懸命に取り組みながら、恋愛もしている。勉強だって、たまに小テストでヤバい点数をとることはあるし、授業中の居眠りはまあまあ多いけど、おおむね問題なく授業についてきている。テストの成績も僕と同じくらいだ。


「残念でしたー。ちゃんと勉強もしてますー」


 だから、きっとその言葉も本当なのだろう。僕が脩平に勝っているところなんて、卑屈さくらいだ。


「まあ、せいぜい楽しんでくれ」


 たぶん、吉見さんとの最後のデートになるから。


 そんなこと、言えるはずもないけど。


「そうだ。もうすぐゴールデンウィークも始まるし、二人でちょっと遠くまで旅行しようかなって思ってんだけど、どこがいいと思う?」


 脩平は僕に尋ねる。嬉しそうな表情だ。今の脩平からは、恋人と別れる気配なんて微塵もない。だからきっと、別れを切り出すのは吉見さんの方なのだろう。


「う~ん。家族以外と旅行とか行ったことないからよくわかんないけど、京都とかいいんじゃない? 定番だし」


 普段だったらちゃんと考えるところだが、今は適当で無難な答えしか返せない。二日後に別れる脩平には、そんな未来はやってこないのだから。


「京都か~。いいかもしんねえけど、中学のときの修学旅行で行ったからな~。なんなら来年も行くし」


「あー。たしかにね。っていうかそもそも、高校生だけで旅行って、結構ハードル高くない? 親の許可とか。それに、連休直前だと泊まるとこって予約いっぱいになってそうな気がする」


 僕は必死に言葉を選ぶ。旅行に対する楽しみな気持ちを、脩平から少しでも削げるように。楽しみにしていた分だけ、受けるショックも大きいと思うから。


「まあな。ただ、来年は受験もあるし、行くとしたら今年なんだよな……」


 脩平が傷つかないためには、どんな言葉を選べばいいのだろう。不器用な僕は、さっぱりわからなかった。


 ゴールデンウィークにどこに行けばいいかを相談された時点で、のろけないでよ、と言って会話の方向を変えればよかったのかもしれないが、僕にそれができる反射神経はなかった。


「うん……そうだね……」


 それだけ言って、僕は黙る。


 脩平はきっと、誰にも、何にも影響されることなく、吉見さんと一緒にいる未来が楽しみで。それは僕が何かを言ったところで変わることなんてないのだろう。今も、普段はあまり見せないような、幸せそうな表情をしている。


 目の前にいる僕よりも、その場にいない吉見さんの方が、脩平の中では大きいのだとわかる。それは当たり前のことなのだけれど、そんな些細なことですら、僕は劣等感を感じてしまう。


「柾人も彼女作ればいいのに」


 脩平は、僕の沈黙と視線を羨望と勘違いしたのか、そんなことを言った。


「何言ってるの? 僕に彼女なんて、できるわけないじゃん」


 僕は即答する。決して謙遜でもなんでもなく、本心を述べただけだった。一瞬、七里さんの顔が浮かんだことに、気づかないふりをして。


 誰かと特別な関係になるためには、色々なものが求められる。きっと、僕が思っている以上に。


 なんの努力もしていない人が、リア充爆発しろなどと言ったり、失恋した人間を笑ったりするのは、とてもみっともないことだと思う。


 時間をかけて相手のことを理解し、自分のことを理解してもらう。


 時には大胆さが、時には慎重さが必要で、直感で動くことも、じっくり考えることも大切だ。


 勇気を出して想いを伝えたり、真剣に相手のことを考えて返事をしたり。


 そんな、気の遠くなるような過程を経て、恋人という尊い関係は築かれる。一部の不道徳な人たちを除いて、だけど。


 つまるところ――恋愛なんてものは、僕には無縁のものだった。


「そんなことないと思うけどな。柾人は自己評価が低いんだよ。柾人のよさをちゃんとわかってくれる人、絶対にいるって」


「やめてよ。そういうこと言われると、脩平のこと、好きになっちゃうから」


「柾人になら……好かれてもいいよ……」


 僕が冗談で返すと、脩平もわざとらしく上目遣いになってそんなことを言う。


 一瞬の沈黙の後、僕たちは同時に吹き出す。


 そういうやり取りが打ち合わせなしでできる程度には、僕と脩平は仲が良いのだけれど、僕が密かに七里さんに恋をしていることは、まだ彼にも言えていない。

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