第1章

1.くだらないと思っている恋を、僕はしていた。


 四月の下旬。


 僕、橘田きった柾人まさとが高校二年生に進学してから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。


 二階にある自室を出て階段を降りる。あくびをしながら、リビングの扉を開けた。


「あらおはよう。今日はちょっと遅いのね」


 母が僕を一瞥して言った。頭の上には15744という数字が浮かんでいる。


「昨日遅くまで勉強してただけ。今日、古典の小テストあるから」


 僕は目をこすって答えた。


 母の言う通り、いつもよりも遅い時間の起床だったが、元々、朝は余裕を持って起きているため、学校の始業時間には問題なく間に合う。


「まったく。有華ゆうかにも見習ってほしいわ」


 母はため息をつく。


「あたしがなんだって?」


 僕の二つ下、中学三年生の妹、有華がバタバタと騒がしく階段を下りてきた。ショートカットの頭の上に数字はない。


「おはよう。今日も朝練あるの?」


 小言を言っていたのがバレると面倒だと思ったのか、母は笑顔で話題をすり替える。巧みなミスディレクションだ。


「そ、シュート練。大会も近いし。朝ごはんは?」


 有華はバスケットボール部に所属している。もうすぐ最後の大会がある。今年のチームはかなり強いらしく、関東大会も狙えると聞いている。


「はいはい。ちょうど今できたから持っていくね」


 母は朝食をテーブルに並べていく。食器をテーブルに置くたびに、数字が僕の視界に飛び込んでくる。ぎゅうっと背伸びをして、頭を十分に覚醒させた僕は、数字をシャットアウトした。


「いただきまーす。あ、まさにい、それ要らないならちょうだい」


 有華が、僕の目の前にある鮭の塩焼きを箸で指す。


「ダメ。あと行儀悪い」


「え~。ケチ。そんなんだからいつまで経っても彼女ができないんだよ」


「関係ないでしょ。それに、彼女とかいらないし」


「うっわぁ。そうやって格好つけちゃって。こりゃあ将来も独り身かな~。親不孝者だね~」


 有華は、遠慮をせずに毒を吐くことがコミュニケーションだと思っている節がある。まあ、僕は慣れてるから別にいいんだけど。


「はいはい」


 軽く受け流すと、有華は不満そうな表情で食事を再開した。


 有華だって彼氏いないくせに、なんて言おうものなら、セクハラだと糾弾されることが容易に想像できる。世の中はとても不公平だと思う。


「ごちそうさま!」


 有華は朝食を食べ終えると、再びドタバタと学校に行く支度を始めた。


 僕は有華から守り切った鮭と白米を黙々と口に運びながら、点けっぱなしになっていたテレビに流れる映像を眺めていた。


「行ってきま~す!」


 十分後。制服姿になった有華が玄関を出たタイミングで、僕は朝食を終えた。


 電車の時間までは、まだ少しだけ余裕がある。スマホで、ニュースやクラスのグループトークを眺めながら時間を潰すことにした。


 芸能人の離婚。政治家の汚職事件。聞いたこともない国の災害。これといって興味のないトピックに、目を滑らせていく。


 グループトークの方には、メッセージが数十件溜まっていた。そのままにしていても問題はないが、主にマイナスな意味で几帳面な僕は、通知が溜まっている事実そのものがどうにも気になってしまう。一応確認することにした。


 今日の小テストの範囲を誰かが尋ね、誰かが答えている。そこから話は脱線して、面白い漫画の話になっていた。僕にはまったく関係のない内容だった。発言をしているのはいつも、十数人くらいの決まったメンバーだ。僕みたいにほとんど発言をしない人も半分くらいいる。


 別に、僕はこの中にいなくてもいいんじゃないか。そんなことを考えてしまう。


 それはそのまま、この世界でも同じことが言えて。


 僕がいなかったとしても、なんの問題もなく、社会も地球も回っていく。


 ……と、中学生みたいなくだらないことを考えていると、家を出なくてはいけない時間が近づいていた。


「行ってきます」


「は~い。行ってらっしゃい」


 テレビを眺めながらコーヒーを飲む母に声をかけて、僕は家を出た。


 歩いて駅へと向かう。その道中ですれちがう人の頭の上にうっすらと数字が見える。どうしても朝は眠くて、意識しないと数字が見えてしまうのだ。まあ。見えてしまうことにももう慣れたのだが。


 5661。21。21449。611。


 数字の大きさは様々だったし、数字が見える人もいれば、見えない人もいた。


 一つあくびをして、シャットアウト。


 恋なんてくだらない。愛なんて無意味だ。


 今の僕はそんなふうに思っているけれど。


 数字がある人たちみたいに、心から大切だと想い合える誰かがいれば、そんな考えも変わるのだろうか――。


 ふと、一人の少女の顔が浮かぶが、すぐにそれを振り払った。


 なんの取り柄もない平凡な僕が、誰かの特別になれるわけがないのだ。




 僕の通う紫桜しおう高校は、駅から徒歩十分のところにある県立高校だ。


 偏差値は、どちらかといえば高い方。難関と言われる国立大学に進学する生徒が、毎年十人程度。部活動はそれなりで、ごくごくまれに全国大会に出場するようなスターがいるくらい。


 イベントもこれといって特色はない。文化祭に体育祭、球技大会。修学旅行は京都。比較的自由な校風で、生徒の自主性を育む、という名目の元、教師も手を抜いている。最近の教育現場はブラックだというがあるニュースをよく見かけるので、このくらいがちょうどいいと思う。


 そんな紫桜高校へ、僕は約一年前から通っている。偏差値がちょうどよかったのと、最寄駅からの通学で乗り換えが必要なかったという、積極さに欠ける志望理由で入学した。


 今のところ、高校生活にはそれなりに満足している。


 部活動には所属していないし、友達が多いわけでも、女子にモテるわけでもない。どちらかといえばスクールカーストの下の方にいる。休み時間に話すくらいの、友人と呼べるかどうか微妙な関係性の生徒は何人かいるし、いじめや嫌がらせを受けているということもない。ただ単に、存在感が薄いだけだ。


 二年生になって一ヶ月が過ぎようとしているけど、クラスメイトからしっかり認識されているかどうかも怪しい。僕はそんな、空気みたいな、透明人間みたいな存在だった。


 客観的に見れば、あまり充実しているようには見えないかもしれない。でも、人にはそれぞれ〝身の丈〟というものがあって、それに応じた態度や振る舞いが求められる。


 他人の定義する充実が僕の定義する充実と、必ずしも等号で結ばれるわけではない。適材適所、とはちょっと違う。魚が陸で息ができないのと一緒で、僕にきらびやかな青春は似合わない。……これもちょっと違う気がするけど。


 とにかく、僕は今のポジションが無理なく自然体でいれる上限だと理解しているし、それをどうにかして変えようとも特に思っていなかった。


 自分がいなくても、地球は回るし、世界も存在する。


 僕は、そう思うと安心する種類の人間だった。


 つまり僕には、向上心と自信が欠落しているのだ。言い方を変えれば、自分のことを正しく評価できている、ということにもなる。ものは言いようだ。


 生徒たちの喋り声であふれる下駄箱で靴を履き替え、僕は誰とも言葉を交わさず、誰とも目線を合わせず、自分のクラスまでたどり着く。


 教室に入ろうと、スライド式のドアに手をかけた、その瞬間だった。


「ぅわっと……ごめんなさい!」


 クラスメイトの女子が勢いよく飛び出してきてぶつかりそうになるが、僕はドアが開けられたところで一歩身を引いていたので、なんとか接触せずに済んだ。


「ああ、うん。大丈夫」


「って、橘田くんかぁ」


 その女子――七里ななさと梓帆しほは、ぶつかりそうになったのが僕だとわかると相好を崩した。


「うん。橘田だけど」


 と、僕は馬鹿みたいな返答をしてしまうが、


「あはは。橘田くん、朝から面白いね」


 七里さんは楽しそうに笑った。


「何が面白いかわからないんだけど」


 まあ、何こいつ、みたいな反応をされるよりは百倍いいか。


「そこがまた面白いんだって。だから心配しないで」


「いや、別に心配はしてないけど……。というか七里さん、急いでなかった?」


 ぶつかりそうなくらい勢いよく飛び出してきたということは、何か急用があったのでは、と推測して尋ねてみる。


「あっ、そうだ! 一限で使う資料集忘れて、借りに行くとこだったの! ありがと! それじゃ!」


 七里さんはひと息にそう言うと、隣のクラスに向かって軽やかに駆けて行った。


 その後ろ姿を数秒だけ見つめてから、僕は改めて教室に入る。


 明るくて社交性もある彼女は、他のクラスにも友達が多くいる。僕に対してフレンドリーに話しかけてくるのも、僕だからではなく、彼女のその性格によるもので――。


 僕は息をゆっくり吐き出して、自分の席に向かった。


 心臓が高鳴っていた。


 クラスメイトとぶつかりそうになって驚いたから、ではない。


 七里さんと会話をしたからだ。


 くだらないと思っている恋を、現在進行形で、僕はしていた。

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