茜色した思い出へ ~別冊・炎の幻影~
柴田 恭太朗
タイムトライアル・炎の歌姫
◇◇◇ タイムトライアル
深夜三時。
二車線の国道には、自分たち以外、人もクルマもない。夏樹は遠慮なくアクセルを踏み込んだ。彼が駆るクルマは、千五百CCのボーイズレーサー。軽量かつホイールベースの短い車体が特徴だ。ブレーキング性能と取り回し性の良さを武器として、登りの少ないワインディングでは圧倒的な速さを誇る。大学から海までの道を突っ走るタイムトライアルに最適なクルマだ。
夕方まで整備していたエンジンは、すこぶる好調。夏樹のアクセルワークに俊敏に応え、千五百CCのエンジンが甲高い唸り声を上げ、ヘッドアップディスプレイ上でタコメータの針が躍り上がる。内装を取り外した車内にエンジン音と排気音がこもり、鼓膜を圧する。タイヤが跳ね上げた小石は、ときおりフロアに当たって鋭い金属音をたてた。
「右、七十Rダウン」
ナビゲーターシートのケースケがマップを読んだ。前方に下り勾配、半径七十メートルの中速右カーブがあると言っている。夏樹はギアを四速、アクセルは維持したまま突っ込む。体が遠心力に振られるが、バケットシートが腰をホールドし体軸がぶれることはない。四点式シートベルトも装着しているが、ベルトのテンションには頼らない。上半身の自由が利かなくなるからだ。
「左、三十Rヘアピン」
来た。ここだ。通称、魔のヘアピン。中二病めいたネーミングだが、警察関係者も認める事故多発地点である。曲率がキツイことに加え、逆バンクという悪条件。路面の傾斜がカーブの内側より外側が低くなっているのだ。このためカーブへの突入スピードを見誤ると、路肩を飛び出し林に突き刺さる。運が悪ければ、林を抜けて崖下へ転落一直線だ。タイムトライアルに挑戦するヤツは、たいていここでタイムロスをする。悪ければコースアウトからの廃車&救急車
ヘアピンをクリアする手段は二つあった。まず第一の方法、コーナー突入時のスピードを殺してグリップ走行を行う。安全確実でしかもそこそこ速い。第二の方法は、フロントに重心とトラクションがあるFF車の特性を活かして、タックインを行う方法。これはカーブ出口の立ち上がりが速いが、魔のヘアピンは逆バンク。失敗すればスピンの可能性がありリスキーだ。
「グリップ? タックイン?」
ケースケがどちらで行くかを確認してきた。当然前者だという顔つきだ。
「愚問、」
夏樹は間近に迫ったヘアピンカーブを睨んでニヤリと笑む。
「迷ったときは、かっこいい方に決まってんだろ」
夏樹はギアを二速まで落とし、アクセルオンのままカーブに突っ込む。明らかにオーバースピードだ。アクセルを踏みつつけたまま、ハンドルを切る。車体はハンドルの動きに反してカーブの外を目指して進む。アンダーステアだ。夏樹はここでアクセルを
「おいおいおい。本当にクリアしちゃったぜ」
ケースケはフロントガラスに取り付けたドライブレコーダーを操作し、今の録画データをロックエリアに保管した。
「去年ヘアピンで事故ったからな。二度は失敗しない」
夏樹は事故の直後に見た不思議な幻影を思い出す。
あの魅惑的な茜色の思い出を。
◇◇◇ 炎の歌姫
魔のヘアピン。去年夏樹は自損事故を起こし、前の愛車を失った。当日はケースケは同乗せず、彼一人で練習走行をしていたときのことだ。
ほんのわずかな手違いだった。いや慢心だったかも知れない。理由は何であれ、結果はガードレールに突き刺さり、炎を上げる車体となって返ってきた。火が出る前に夏樹が脱出できたことは奇跡だ。
辛うじてクルマを這い出た夏樹は、ガードレールを背にして地べたにへたり込む。頭がひどく痛んだ。放心した彼の眼に、風変わりな火が映り込んだ。
一風変わった茜色の火は、ハイカロリーのガソリンが燃える激しい紅蓮の炎に混じって、見え隠れしつつ、小さく息づいていた。あたりの燃料の炎と決してなじむことなく、超然とゆらめいている。
後から思えば、事故の衝撃で頭を打っていたのかもしれない。
燃えるクルマの中に彼が見たのは、優美な幻影であった。
それは猛り狂った群衆に囲まれた、一人の『歌姫』。天を抱くように両手を差し伸べ、のびやかに朗々と歌うディーバ。たっぷりしたドレープを持った衣装は茜色。歌姫の美声は、周囲を覆いつくす怒号に埋もれることなく明瞭に響く。群衆の囂々たる厚いノイズを軽やかに貫き、たゆたい、一筋の調べとなって空へ立ち昇っていく。
夏樹は背をガードレールに押し付けるようにして、手を歌姫に向かって伸ばし……
……意識を失った。
◇
炎色反応:茜色はストロンチウム。ストロンチウムは、クルマのボディペイントにも使われている元素である。
茜色した思い出へ ~別冊・炎の幻影~ 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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