第32話 忠告

 体育祭当日。秋晴れの空のもと、帳高校の生徒たちが学校のグラウンドに集まっていた。

 華月が体操服を着て集合場所にいると、後ろから誰かに抱きつかれる。


「華月、おはよっ」

「歌子、おはよう。もう、びっくりしたよ」

「へへっ。晴れてよかったね。華月のお父さんは?」

「午前中だけ無理矢理休んだから、覗きに来るって。無理しないでって言ったのに」

「そんなこと言って。嬉しそうだけど?」


 くすくす笑った歌子が、ふと何かに気付いて手を振る。華月もつられてそちらに目をやり、硬直した。


「白田くん、赤葉くんもおはよー」

「北園、黒崎。……おはよ」

「よお、晴れたなぁ」

「お、おはよ」


 歌子が手を振っていた相手は、光輝と友也だった。どくどくと早鐘を打つ胸を持て余したまま、華月も小さく手を振る。それに応じ、光輝も軽く片手を挙げた。


「赤葉くんは、ご両親来るの?」

「オレは共働きでさ。来れないけど、弁当だけは力入れてくれたみたいなんだ」

「へぇー! わたしは2人共見に来るって言ってて、気合い入れないとなんだよ」


 そんな会話が近くでなされているにもかかわらず、華月の耳には入っていなかった。昨日から、光輝に対してどうして良いのかわからない。


「……」

「……」


 わからないのは光輝も同じで、口を開こうとして断念することを繰り返している。昨日抱き締めてしまった感覚が蘇り、赤い顔を隠すように手で口を覆った。

 歌子と友也は2人の変化に気付いていたが、あえて何も言わずに放置していた。しかしやがて教師による集合の号令がなされ、4人はそれぞれの場所に慌てて移動する。


「これより、帳高校体育祭を開催致します」


 アナウンスが終わるのと同時に、行進の音楽が鳴り出した。


 ☾☾☾


「華月」

「お父さん!」


 玉入れ直前の移動時間。もうそろそろ着く頃かと客席を覗いていた華月の前に、手を振る明の姿が見えた。駆け寄ると、明はほっとした顔で手に持っていたトートバッグを差し出した。


「これ、お弁当。華月の好きなものしか入れてないから、楽しみにしているといい」

「本当? ありがとう。お父さん、何時頃までいられるの?」

「1時間くらい、かな。だから、華月の勇姿を1つでも見届けてから行くよ」


 次だろう? と明がパンフレットを見ながら微笑む。華月は恥ずかしいような嬉しいような気持ちで困った笑みを浮かべると、明に頑張る旨を伝えて入場ゲートへ向かった。


「──終了です。籠から離れて下さい」


 アナウンスを聞き、華月は息を付いた。ただの玉入れではあるのだが、本気でやると息が切れる。近くでは歌子が真っ赤な顔をしてしゃがみこんでいた。

 全てを全力で。運動が苦手ながらもそれを信条とする歌子の玉はなかなか籠に入らなかったようだが、それは華月も余り変わらない。意外と難しいのである。

 客席では、カメラを構えていた明が手を振ってくれた。華月が振り返すと、笑ってこちらに背を向けた。そろそろ出社するのだろう。


「お疲れー。疲れたよ……」


 ゲートから外に出た華月の肩を、歌子が叩く。まだ肩で息をしていて、疲れた顔をしている。


「華月、次の借り物競争まで競技1つ分は時間あるね。どうする?」

「歌子は水飲んで来なよ、顔真っ赤だよ。わたしは、応援席で休んでるから」

「そうするよ。じゃ、後でね」

「うん。後で」


 砂だらけになってはいけないから、と生徒たちの水筒等は教室に置いてある。教室に戻る歌子と別れ、華月は生徒の応援席となっているレジャーシートの上に座った。

 光輝の出るバスケットボールの試合は、借り物競争の後だ。今は打ち合わせでもしているのか、彼とバスケに出るメンバーの姿はない。

 少し残念に思いつつも競技開始を待っていた華月の後ろに、人影が立つ。


「ねえ」

「何……あなたは、井原いはらさん?」

「黒崎さん、ちょっと来てくれる?」

「いい、けど」


 ちらりと周りを見るが、誰もこの状況に気付いていない。体育祭の盛り上がりと興奮の中で、広い視野を持つ者など珍しいかもしれないが。

 井原ももは、華月と同じクラスに所属している。濃い化粧をして髪を染め、言葉遣いも若干荒いために華月は彼女のグループを苦手としている。しかし彼女らが光輝に目を付けてからは、目の敵にされている気がしていた。この前足を引っ掻けてきたのも井原たちのグループである。


「こっち来なよ。話があるんだ」

「……わかった」


 井原と取り巻きに引っ張られるようにして、華月は応援席を離れた。嫌な予感しかしないが、絶対に言いなりにはならないと華月は心に誓う。

 何処に連れて行かれるのか。人の目の届かない校舎裏にたどり着き、華月は不安を顔に出さないようにしてついて行く。


「何処まで……きゃっ」

「あんたに、最後の忠告をしてあげる」


 井原は校舎の壁に向かって華月を乱暴に突き飛ばすと、彼女が尻もちをついた地面を見下ろして唾を吐く真似をした。人差し指で華月を指すと、侮蔑を籠めた目で睨み付ける。


「あんたがこれ以上白田くんに近付くなら、痛い目にあってもらうから。覚悟しときな」

「……」

「ちょっと? ──何とか言いなよ」

「そうだ。何とか言いなよ」

「怖じ気づいちゃったぁ?」


 何も言わずに自分を見上げる華月の強い目の光に、井原は内心怖じ気づいていた。しかし取り巻きたちの手前、気を張って強そうな態度を崩さない。取り巻きはそんな井原の威を借り、同調を繰り返す。


 華月は浅く息を吸い、吐き出す。それからゆっくりと立ち上がり、手や体から砂を払い落とした。

 心の中には、光輝と歌子に貰った言葉がある。だから、もうくじけない。


「あなたの指図を受ける理由はないよ。わたしはわたしの意思で、白田くんの傍に居たいから。……あなたがもし彼のことが好きなら、もっと真っ直ぐ向き合った方が良いと思う」

「──っ、この野郎ッ!」


 井原は華月の言葉に赤面すると、拳を震わせて華月を殴ろうと構えた。

 華月は殴られることを覚悟して目を閉じたが、一向に衝撃は来ない。そっと目を開けると、悔しそうに顔を歪める井原の姿があった。

 井原の顔が背けられ、拳が力なくだらりとほどかれる。そして、小さな声を発して踵を返した。


「……行くぞ、お前ら」

「え? 桃ちゃん!?」

「待ってよー」


 パタパタと駆けて行く井原を追い、取り巻きも走っていく。彼女らを見送り、華月はようやくほっと息をついた。


「そろそろ、戻らなきゃ……」


 心臓がバクバクと鳴っている。今になって恐怖が体を駆け上がり、華月は深呼吸を繰り返す。

 ようやく落ち着き、グラウンドに戻ろうとした。その時になって、手のひらを擦って傷が出来ていることに気付く。

 じんじんと痛むそれに顔を歪め、華月はまず救護所に向かった。


「あらあら、転んだの?」

「そんな感じです」


 保健室の先生に消毒をしてもらいながら、華月はふと自分が井原に言った言葉を反芻する。


(『あなたがもし彼のことが好きなら』……。じゃあ、わたしは?)


 溢れ落ちそうなほど育った想いが、花びらを広げようかと迷っている。華月はぎゅっと痛むほどの胸の鼓動を自覚し、救護所を出ると木陰でしゃがみこんだ。


「わたし……」

(わたし、白田くんのことが……)

「──借り物競争を行います。出場する生徒の皆さんは入場ゲートに集まって下さい」

「……行かなきゃ」


 アナウンスによって思考が切られ、何処か消化不良のままで華月は入場ゲートに向かった。

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