第31話 夕暮れの中庭

 翌々日。前日から降り出した雨が小雨に変わり、後数時間で止もうとしていた。

 華月は脱衣所にある鏡の中の自分の顔を見詰め、ほっと息をついた。目に赤みは残っておらず、腫れてもいない。

 昨日は睡魔に負けて午前中は寝て過ごし、昼頃から起き出した。父には「お寝坊さんだったね」と笑われたが、その後は雨であることもあり部屋でのんびりと過ごしていたのだ。


「華月、早く食べないと遅れるよ?」

「あ、はーい」


 父・明に呼ばれ、華月はもう一度だけ自分の顔を見る。そしてパンパンと軽く頬を叩いて、気合いを入れた。


「おはよう、華月」

「おはよう、歌子。肌寒くなってきたね」

「ほんとだよ~。あ、一昨日の夜も行ったの?」


 歌子が剣を振る仕草をする。それだけで、彼女が示すことが夜の魔物討伐だとわかった。

 華月は「うん」と頷いて、ふと光輝の姿を探した。彼の姿は、教室の前の方にすぐ見付かった。数人の男子と派手めの見た目の女子数人に囲まれ、ちょっとだけ困っているようだ。


(声かけるの、後の方が良さそう)


 華月は肩を竦め、テキスト類を机に仕舞う。体育祭を間近に控えたこの日、午後からは全体練習しかない。


(出来れば、放課後までに話せたらいいな)


 授業開始のチャイムを聞きながら、華月は願うような気持ちでそう心に呟いた。


 ☾☾☾


 午前中には雨が止み、体育祭の全体練習が始まる頃にはグラウンドの土はほとんど乾いていた。

 華月たちはクラス毎に集まると、先生の説明を聞く。今日はこれまで何度か繰り返してきた行進の確認と、幾つかの競技の練習が行われる。


「……ということで、整列したら入場ゲートに並んでくれ」


 体育教師の指示のもと、生徒たちが移動する。音楽に合わせて足踏みを開始して、滞りなくグラウンドを行進することが出来た。


「よし。借り物競争は当日のお楽しみとして、玉入れと騎馬戦、それからリレーの確認をするぞ。それぞれに出場する競技担当者のところに行け」

「わたしと華月は玉入れだね」

「うん。頑張ろ」

「わたしは運動音痴だから、華月の後ろに隠れとくよー」


 歌子はそう言って笑うと、華月の背をぐいぐいと押して玉入れ担当の教師のもとへといざなう。彼女が運動音痴なことを知っている華月は苦笑し、そうだねと足を向けた。


 同じ頃、光輝はリレーの担当教師のもとに行く前にふと立ち止まっていた。

 朝から一度も華月と話せていない。昨夜のメッセージを見る限り、何か無理をしているように思われた。女子の人間関係等には疎い光輝だが、自分が一部の女子に好かれていることは知っていた。

 今朝も派手な見た目の女子数人に捕まり、辟易したところだ。クラスメイトの男子には冷やかされ、友也には「お疲れ」とねぎらわれた。


「白田、行かないのか?」

「赤葉……。いや、行くけど」

「……お前さ」


 同じくリレー走者となっている友也が、苦笑いを浮かべてからそっと光輝に耳打ちする。


「黒崎さんのことが気になるのはわかるけど、そうわかりやすくちゃ波立たせるだけだぞ?」

「わかってはいるが……」


 そもそも、何故自分が女子の面倒くさそうな事柄に配慮しなくてはならないのか。その理由をわかっていながらも、思わずにはいられない。

 光輝がそれを言うと、友也は「まあなぁ」と肩を竦めた。


「時と場合ってやつだよ。お前だって、黒崎さんに何かあったら嫌だろうが」

「そりゃあ……。わかってる、努力はする」

「ははっ。大変だな、お前も」


 軽く光輝の背を叩き、友也は「先に行くぞ」と笑いながら走っていく。その背を見送った光輝は、もう一度だけ華月の姿を探した。

 華月は歌子と共に既に担当教師のもとにいて、2人で何か話しているようだった。流石に授業中に害されることはないだろう。

 光輝はふっと目元を和ませると、自分も友也の後に続いた。


 やがて6限目の授業時間も終わり、体育教師から3日後まで体調を崩さないようにとの注意喚起がなされた。ようやく解放され、生徒たちは各々着替えて帰路につく。

 華月と歌子が玉をうまく籠にいれるやり方を話しながら下駄箱に向かっていると、後ろから遠慮がちに声をかけられた。2人が振り向けば、リレーの練習をして汗を拭う光輝の姿があった。


「黒崎」

「あ……白田くん」

「おっ。白田くん、華月のことよろしくね?」

「へ? あ、ああ」


 とんっと歌子が華月の背を押して、手を振り走り去る。彼女はボールを投げるコントロール等は皆無だが、何故か逃げ足はとても速い。今も華月が手を伸ばす前にいなくなってしまった。

 華月は手を伸ばした状態で固まり、仕方ないと改めて光輝を見上げた。10センチ近く、彼の方が背が高いのだ。

 そして、自分の心臓が大きくどきんと音をたてるのに気付く。


 華月の顔が赤いことに気付き、光輝は首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。目を見開く彼女に、光輝は眉を寄せる。


「黒崎、顔赤いけど熱でもあるのか?」

「え!? ち、違うっ。えっと……暑くて、そう、たくさん動いて熱くなっちゃって汗かいてるから顔赤いんだよ!」

「なら良いけど。行こうぜ」

「うん」


 光輝の背を追い、華月は小走りになった。2人が向かう先にはあの中庭が見えた。体育祭の練習で疲れた生徒たちは、まず近付いて来ない。その考えがあって、光輝は選んだのだろうと華月は思った。


「座れよ」

「……うん」


 夕暮れのベンチには、数枚の落ち葉が乗っていた。それらを落とし、光輝が華月を促す。それに応じ、華月は彼の隣に腰を下ろした。

 体操服では少し肌寒く、華月はジャージを羽織っていた。光輝はといえば、腰にジャージを巻いている。


「あの、ね」

「うん」


 じっとこちらを見てくる光輝の視線を感じ、華月は目を背けたくなった。しかしぐっと我慢して、深呼吸する。彼は自分が話し始めるのをいつまでも待ってくれるだろう、そんな確信があった。


「……ある女の子にね、言われたんだ。白田くんの傍にいるな、みたいなこと」

「―――は? そんなこと言うやつは誰だ?」


 実際に言われた言葉よりも、口にするものはマイルドになった。言われたことを口にすれば、ギリギリで耐えているものが決壊してしまう気がして、怖かったのだ。

 しかしこれだけでも十分にニュアンスは伝わったらしく、光輝は眉をひそめて首を横に振った。


「誰が何と言おうと、お前が誰の近くにいようがお前の自由だよ。俺は、黒崎のことを仲間だと思ってるし、黒崎と一緒に戦いたい。だから、そんな顔しないでくれ。……どうして良いのか、わからなくなる」

「ありがとう、白田くん。あの時、本当にボソッてわたしにしか聞こえないくらいの声で言われたの。その後は、白田くんにわたしのこと認めてもらえて嬉しかったはずなのに、怖くなった。本当に、一緒にいて良いのかなって、不安になってて。……でも、白田くんがメッセージくれたでしょ? あれ、本当に嬉しかったんだ」


『何か悩んでないか?』

『言いにくいならそれでも良いけど、抱え込むなよ。俺も一緒に考えるから』


 たったそれだけの文字列が、どれだけ華月を勇気付けてくれたことだろうか。華月は自分は一人ではないのだ、と言い聞かせられている気がした。

 歌子もそうだ。彼女も真っ直ぐに華月に向き合い、欲しい言葉をくれる。自分はどれだけのものを返せているだろうか、と華月は苦笑を滲ませた。


「白田くんも歌子も、わたしの心を支えてくれてる。本当に、凄い人たちだなって思うよ。……こんなダメダメなわたしを」

「迷うのは、お前が正しくあろうと努力するからだと思う。不安になるのも、悔しいのも。きっと、黒崎がなりたいものに近付きたいからそう思うんだ。……真っ直ぐで優しくて、泣きたいのに堪えて、そんなところがいじらしくて。……そんな黒崎だから俺は――」

「しろた、くん……?」


 華月は、光輝の腕の中にいた。悲しさと悔しさに加えて嬉しくて溢れそうだった涙が、頬を伝う。自分よりも大きくて温かなものに包まれて、華月は緊張と共に安堵を感じていた。

 どくんどくん、と早鐘が聞こえる。それがどちらのものかわからなくなるくらいには、2人の距離は近かった。

 離れなくては、と思う。誰が見ているかわからないし、何よりも恥ずかしかったから。しかし同時に光輝と離れたくないとも考える自分に、華月は当惑していた。


「――くしゅんっ」

「……? ――っ。あ、ご、ごめんっ」

「あ、えと……ううん、だいじょう、ぶ」


 華月の小さなくしゃみで我に返った光輝は、大慌てで彼女を解放する。目の前で真っ赤になり慌てている華月を見て、可愛いと思うと同時に別の感情が光輝の中に湧き上がる。


(どうして『離したくない』なんて思うんだよ、俺。それにさっき、何を口走ろうとした……?)


 自覚のない想いが口から零れ落ちそうになり、光輝は慌ててその言葉を呑み込んだ。確かな形を持たないそれに、本人が一番困惑している。


「……本当に、何やってるんだろうな。相談を受けるって言ったのに。解決、出来たのか?」

「うん、出来たよ。白田くんに聞いてもらえて、自信になったから。……わたし、白田くんの隣にいて、一緒にいて良いんだよね」

「ああ、当然だろ」

「うんっ」


 泣きそうな表情で、華月は微笑んだ。泣きたくて笑いたいという、相反する感情が溢れてそんな顔になってしまった。

 同時に、光輝に対する温かくて恥ずかしいような感情が、少しずつ心の表面に出てきているのを感じていた。その感情に名を付けられず、華月は先送りにする。誤魔化すように苦笑いをして、華月は光輝を促した。


「もう日が暮れるよね。帰ろっか」

「そうだな」


 2人は体操服を着替えに教室に戻り、鞄を持って学校を出た。体育祭のために休みになっている部活が大半で、同時刻に帰る生徒の姿はない。

 華月と光輝は何でもない会話をしながら並んで駅までの道を歩き、乗り場の前で別れた。傍から見れば、互いを意識し過ぎないようにしていたことはバレバレだったかもしれない。





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