3

 深い森の最も深い部分は何処だろう。途中で見つけた大木の空穴に入り込みながら、レイは呟いた。もうずいぶん深い場所まで来ていたが、なだらかな傾斜こそあれど、山脈の足元に着く気配はない。何日歩いたか定かではなく、レイは疲れていた。時折、獣ががさりと草むらを鳴らした。その度にレイは震えたが、追手ではないと気付けばほっと息を吐いた。それ以外は、一様に静かだ。活発に育った森の木々は大きく膨れていて、昼か夜かの判別も難しいほどだった。

 空穴に身を隠したまま、レイは最後の携帯食料を大事に齧った。味はほとんどしないらしい。眉間に皺を寄せている姿は珍しい、と思いはしたが徴兵されてからは険しい顔の方が多かった。レイは本来、明るく利発で、穏やかな顔をして俺の手入れをしてくれるような人間だ。発砲自体に喜びは見出さず、友人と呼ぶ俺との連携を喜んでいる雰囲気があった。俺も、そうだった。情勢がすべてを変えてしまったのか?

 森の奥で鳥の声がする。レイは俺を抱き寄せながら、ぽつりぽつりと話し始めた。父親に初めて俺を撃たせてもらえた時のこと、アーレントと名前を付けさせてもらえて嬉しかったこと、アーレントとは、レイが好きだった本の、主人公の名前だということ。

「アーレント、おれは本の主人公アーレントみたいになりたかったわけじゃなくて、アーレントみたいな友達が欲しかった。強くて優しくて夢みたいな善人で真っ直ぐで、絶対に諦めないんだ、どんな時でも。眩しいくらいにおれの憧れだ。でも今は、アーレント、お前のことを一番信用しているよ。おれと一緒に生き延びよう、この奇妙な逃避の旅も……お前となら絶対にどうにかなるって、思ってる。徴兵されて、銃をいくつか試し撃ちしたけれど、アーレント以上に息の合う射撃は出来なかったんだ、だから、絶対に生きよう、逃げような、家に帰って父さんを安心させて裏の森でさ、猟師じゃなくたっていいよ、アーレント、ここはどこなんだろうか、進んでも進んでも同じ景色で頭が狂いそうになってくる、なあ、まだおれは生きているか?」

 生きている。俺を抱きしめる腕は血が通って暖かいし、まとめきれなくて溢れた髪の感触が、生き物の湿り気を帯びている。ここはただの森だよレイ。俺がいるから安心すればいい。お前が的を外しかけても俺が弾道をちゃんと直すよ、追手が来たら直ぐに教える、俺達なら一撃で殺せる、生き延びようレイ。一緒にいこう。一緒に生きよう。大丈夫だ、レイ。

 俺が話し掛けている間にレイは眠ってしまった。寝息は生きている証拠だったし、ほっとした。

 足音が聞こえれば叩き起こそうと周囲に意識を巡らせる。鳥や狼、猪や鹿などがいるようだった。虫も多数存在する。点のような虫が群れを作り、空穴のそばを回っていた。微かに風が吹いて枝葉が揺れた。さざなみに似たざわめきは波紋のように広がって、また抜け落ちたような静寂が訪れた。

 数時間後にレイは目を覚ました。行こうと呟き、俺を抱え直して空穴から出た。蚊柱がぶわりとまとわりついたがレイは気にも留めずに早足で歩く。土の匂いが濃くなった。しばらく進むと木々が唐突に開け、俺たちを迎え入れるように、或いは陥れるように、がらんどうの場所に出た。

 泉があった。複雑に蔦の絡みついた木々に守られている、静謐な泉だった。神秘的ですらある。ごく自然に、美しい場所だと思った。草木や泥に塗れながら歩んできた俺たちには、天国のような空間だった。

 泉のそばには小動物がいたが、レイが近付くと素早く逃げた。レイはほとりに膝をつく。鏡のような水面を覗き込み、唐突に笑う。くく、と押し殺した笑いはすぐに激しくなった。哄笑だった。

「ああ、なんて酷い顔をしてるんだろうな、おれは! 地獄を見た人間ってこんな顔をするもんなんだろう、おかしいったらない、アーレント、おれに逃げろって言って自爆したやつはさ、おれのことが好きだったんだよ、言われなかったけど気付いてたんだ、それなのに、おれは、ろくに引き止めもしなくてだからそれはさ、あいつがわざと自爆しておれを逃がそうとするつもりだってわかったからなんだよ!」

 レイは泉のそばにうずくまり、俺を肩から落とした。真横から泣き声が聞こえ始めて、ああ、もうダメなのか、と悟ってしまった。レイはずいぶん前から限界だったのだ。ならどうするのか、どうしてやればいいのか、何も思い付かないことを不甲斐なく思った。

 しかし、諦めようとも思わない。少ししてから身を起こしたレイは、涙でぐちゃぐちゃの顔を向けてきた。ほどけた髪がざらりと肩を撫でる。顔にもかぶさった髪を退けようともしないまま、レイは俺を引き寄せた。アーレント、愛してるよ、お前がいてくれて良かった。そう本当に嬉しそうに言ってから、俺を太腿に挟んで銃口の上に顎を乗せた。

 数秒後に響き渡った銃声は旅の終わりを告げる挽歌のようなものだった。









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