今日の着信も絶好調
千羽稲穂
あたしの素敵な先輩たち
線が二本立っていた。そこらへんの薬局で買ってきた確認検査薬だからってのもあるかもしれない。裏面の説明書を読んで、まあ、嘘だろうなと駅構内のゴミ箱に否応なくスルーイン。あたしは今日も元気げんきで、携帯の着信履歴も絶好調。どんどんまいこむあたしを求める声に答えて直行する。待ち合わせ場所は改札前に指定。ぱっと見て、あ、イメチェンした?と先輩に聞きつつ声をかける。髪は金髪、耳にピアス。香水をふりかけている。大学に入学してから変わる男の子はたくさん見てきた。先輩もその一人らしい。先輩、今日はどこのホテルに行きますか。非合法制服のスカートを翻して、あたしは腕を組む。胸を意識させとけば、おっけ。先輩は、あたしのこういうとこ好きだわ、と軽く言ってくれて、今日もたくさん幸せいただいております。それからは先輩に誘導してもらっていつも通りに。えへへ、うふふ、な関係に至ります。携帯の着信は鳴りやまない。あたしの幸せはまだまだ続く。先輩、今日は楽しかったです。今日の先輩は駅の前まであたしを送ってくれる。やっぱ先輩は優しいな。先輩一筋ですっていうと、たくさん喜んでくれる。とりあえず、お礼メールを送る。次に繋げるためには大切なことなのです。そうして今日も帰宅。青よりも濃い藍色空の下、あたしはごきげんスキップで玄関に。ご飯できてるよ、とお母さんが言うから食べると返事して制服のまんま食卓につく。肉汁がじわじわにじむ、ハンバーグ。あたしの大好物だ。あんた何でも大好物にするね。そうだった前も餃子食べたとき言ってたっけ。あたしはハンバーグを切り分けて口に運ぶ。ちょっとだけ臭みを感じつつ、まあ、これも気のせいだろうなとぱっくんごっくんと飲み込む。
今日の着信も絶好調。学校にいてもどこにいても、あたしを求める声のなだれ。あたしの窓側の席から見える空は雲が分厚く世界を覆っていく。天から星が降ってくるように、白い何かが世界へ降り積もる。星がコロコロと地面に転がる。今日も昼休みに着信にでる。あたしと世界の直通電話。今日?うん、いけるよって言っとく。電話をきると、友達がおなか痛いの?と心配してきたもんだから、なんで?とあたしはにこにこと答える。おなかさすってたから。知らず知らずのうちに手がおなかの位置に。なんでだろう。そういえば、今月って生理来てたっけ。スケージュール帳をチェック。そういえば、来てなかった。なんでもないよ、と友達には返答して、あたしはおなかから手を放して。お昼休みを堪能する。今日の課題やってきた?あ、忘れてた。なんてお決まりの会話を弾ませて、今日寒くなりそうだね、と天から舞い降りた白い地面の星の欠片を会話ですくいあげる。マフラーをして行かないと風邪をひきそうだ。駅に到着すると、マッシュヘアの無地服好きな今日の先輩が立っていた。今日の先輩はバンドマン。前にたまたま友達と付き合って行ったライブで前座を担当していたバンドボーカルだった。なんでか知らないけれど、あれよあれよと携帯でつながって、ご飯食べて、ホテルの前に。先輩って素敵ですね。だってホテルに直行しなくて、いつもデートみたいにあたしをいろんなお店に連れてってくれるんだもの。オシャレなカフェに、オシャレな洋楽バンドのライブ。あたしを一度も彼女だと言わないところも、あたしがその気がないころも知っていて、きちんと対応してくれるところなんて、わかってくれてるって感じがして楽ちん。今日の先輩は下宿先の家にあたしを連れ込んで、しゅるしゅると制服をぬがせて温めてくれた。先輩大好きです。きちんとお礼メールも送って、今日もるんるん気分で、星降る夜を堪能する。マフラーをまいて幸せのため息ひとつ。まだまだあたしの着信は鳴りやまない。
夢にあの二本線が立っている場面が出てきた。でも夢は夢。今日もあたしの着信は絶好調。あのさ、最近トイレに行く機会増えてない?友達が心底沈んだ顔で尋ねてくるけれど、今日も軽くあしらって。大丈夫。見て、今日の着信の量を。携帯の電波は三本も立っているし、電池もフルに充電済み。今日はかわいい下着を着ているし、誰かに見せたい気分。今日も楽しそうだね、と呆れた声が交じる昼休みに、あたしはお母さんが作ってくれたお弁当をほおばる。うちさ父親がうるさくってさ、あんたみたいに夜遊びできないんだよね。うんうん、と友達の悩み病を全身に受け止める。あんたは今日も先輩と?うん、そうだよ。悩みなさそうだよね。そうだね。秘訣ってある?我慢してるのって、つらくない?確かに。授業が終わったら速攻で改札前に集合。今日の先輩は切れ長の鋭い目をした男の子。不健康そうな白い肌で、病的なほどに髪が柔らかく細い。清純そうな顔をして、煙草をふかしている。そういうギャップがイカしている。ベッドの傍らで灰皿にとんっと灰を崩して、あたしに煙草をくわえさせる。煙草の煙を肺いっぱいにためこんで、瞼を濡らし視界が霞む。この先輩はメール返信するのめんどくさいからできるだけ電話にして、今日のお礼メールもしないでいいよって言うから、プラトニックにさよならができる。先輩って素敵。幸せの電波がびんびんに三本立っている。それなのに家に帰ると、なぜか嫌悪感でいっぱいだった。こんなに幸せでいっぱいなのに、家に立ち込める熱気がいただけない。今日のごはんはオムライスよ。お母さんの声にも体がついていかない。ごめん、今日はそんな気分じゃない。さっきまで浮足立ってた足がおぼつかない。ベッドに飛び込む。おかしいじゃない、いつもあんなにおいしそうに食べていたオムライス嫌いになったの。お母さんのせいじゃないよ。全部に知らんぷりを決め込む。体調がおかしい。病院に行こっかな。おなかをさすると、平べったいあたしのおなかが広がっていた。やっぱり気のせい。
今日の着信も絶好調、でもお母さんに言って学校を休むことにした。あたしが休むって言ったら、母さんがおかゆを作ってくれた。どろどろに溶けきったごはんを流し込む。これなら食べられる気がする。梅のしょっぱさとごはん温かさがあたしにしみこんでいく。お母さんのごはんは天下一品。今日は寝よっと、おやすみベッドへダイブ。そして夜になると目がぱっちりになるから、お母さんが寝ているのを確認すると、夜の街へくりだした。コートを羽織って、カイロをおなかにぺたっと貼りつける。今日は着信よりもあたしからのコンタクト。駅前にいるちょうどいい先輩を見つける。派手めな髪をしている遊んでいる大学生が狙い。だけど今は冷たく鋭い目で射すくめられたい気分だから、もっと真面目そうな先輩をあさるのです。そうしていると神様はきちんと巡り合わせてくれる。ほら、ナンパお初でびくびくしている男の子いた。女の子に慣れきった先輩たちに囲まれている。あたしの目が冴える。近づくと団体さん御一行に目と目があう。こんな時間にどっかいくの?あたしの制服が物珍しいのかじろじろと体を見てくる。用があるのは、囲われた中心の箱入り男の子。実は夜更かししたくなっちゃって、どこにも行くとこないんだよね。視線を男の子に。するとようやく男の子と視線があった。暇なんだぁ。連れてって。あたしと男の子の吐いた白い息が絡み合う。今日もいい月夜。あたしの先輩になってよ。
今日も着信は絶好調。メールに電話にひっぱりだこ。放課後に友達とカラオケに行って。流行りの曲を歌いまくる。ジュースを飲みまくり重くなったおなかをひきずりトイレに駆け込む。げほげほとおかしなほどえづいてしまう。あれ、昨日の夜やりすぎたのかな。きつい先輩ではなかったのに。思ったよりも足取りが重くて気分が落ち込む。カラオケボックスに戻り、もう一回ジュースに口をつけようとするのに汚水のように思えてしまって飲み込めない。小学校のときに図工の時間に絵の具をひたしただけの異物がまじるかさついたあの水だ。なぜか甘ったるくて、のどを爽やかに駆けぬけたジュースに、ざらついた痛みを覚える。気にせずもう一口飲むと、また席を立ってしまう。どうしたの?友達がおなかをつつく。ぐわんぐわんとおなかが回る。頭が痛くなってきた。カラオケの音量がモスキート音に豹変していく。そういえば、ちょっと太った?そう思う?うん、だっておなかちょっと張ってない?便秘ぎみだからかな。あたし最近体調悪いんだよね。寒すぎておなか冷やしちゃったせいもあるんじゃないかなって。本気でそう思っているからこそ笑みが零れ落ちる。最近温かくなってきたよね。梅の蕾がつきはじめたのを、あたしと友達のふたりで見上げたことがあった。友達は目を細めて淡い季節の移ろいを感じいる。もうそんな季節になったのか。体調よくなるといいね、と友達が背中をたたく。頭痛が呼び起こされて、思わずあたしらしくなくしかめつらをした。
今日の夕飯のハンバーグが食べられない。うっ、のどに押し込めていた声が漏れ出る。おなかが硬くて。息ができなくなりぜーぜーと息が吐き出される。目の前のハンバーグの匂いが獣くさく、まるで毛でまるめた泥団子に見えてくる。お母さんが作ってくれたハンバーグが好きだったのに。お母さんは、あたしのことを気にしてくれてるから、おかゆで代用してくれる。スプーンですくって口に運ぶと無味無臭。むしろスプーンが鉄くさい。かっぷんと食むとおかゆは食道を滑り、胃へと流し込まれる。しみいるおかゆは、なんの色も示していない。嫌味がないからこそ、あたしの身体が受けつけている。うん、これなら食べられる。お母さん、明日からこれだけでいいよ。そうは言っても、お肉も食べなきゃ身体に悪いわよ。そんなことないよ。むしろお肉なんて生臭くて食べられない。いつからベジタリアンになったんだか。今日からか。
今日も、絶好調だから。
今日も着信は絶好調。でも、なんでか駅で待ち合わせした先輩は、あたしのおなかを見て、訝しげに頭をかしげてばかりいた。今日の先輩はあたしよりも何倍も大柄の男の子。あたしの体を包み込んでくれる柔らかい人。なのに、ホテルに行くよりも前にあたしの体調を気にかけてくる。最近食べれてる?頬こけてるよ。好きなものたくさん食べてるよ。太ってきたからダイエットしてるの。そのおなかさ、俺のせいじゃないから。何が?いや、そうじゃないならいいけど。おかしな発言をした後でも先輩はきちんと抱きしめてくれる。手と足を絡めて、今日もたくさんの幸福をため込む。ふわふわの空気を味わって、次もよろしくお願いします、お礼の電話。あ、うん、とそっけない返事に、どうしてだろうって頭を傾げた。この先輩からはいっさい着信がこなくなった。
なぜかあたしの着信は絶不調。前よりも着々と先輩が減っていく。携帯に着信が来る。今日?いける。そんな二言を言った傍から、足元に青々とした葉っぱがひらりと落ちてく。この前まで平たかったおなかが、ぽっこりと山をつくっている。だぶだぶのパーカーを制服の上から着て太ったおなかを隠す。今日の先輩のことだけを考える。まっさおな快晴と木陰の間をスキップする。夏を全身で受け止めて汗をかきはじめる。
あと一年半したら受験じゃん、あたしたち。そろそろ進路のこと考えなきゃいけないんだよね。めんどくさ。あたしのお父さんさ、また怒って、あたしのやりたいことはなんだっていうんだ。今日もあたしの友達の悩み病は絶好調。うんうん、そうだよね、とにこやかな日差しを思わせる笑みを友達に捧げる。太ったおなかを隠すパーカーはあたしのトレードマークになっていた。クーラーが教室の空調を整備して涼しい。汗を乾かしてくれる。聞いてる?うん、聞いてるよ。あんたって本当にいつも幸せそうで羨ましいな。うーん、そうだよ、いつも幸せ。重たい体をよっこらせっと、友達に向ける。お父さんにいらついたりするのバカバカしいなって思うよ。うちは父親しかいない父子家庭で迷惑かけちゃいけないってのも重々承知しているし。でも、仕方ないじゃん。反抗期ってやつだよ。ハンコウキ。なんだか響きがかわいらしい。あんたってハンコウキなさそう。そういえば、あたし一度もお母さんにイラついたことないかも。うわっ、まじもんのハンコウキない子見たの初めてかも。えへへ、良いことでしょ。良いことって本当に言ってる?突然友達の顔が日陰をつくり、あたしのおなかを撫でた。パーカー越しにもわかる、優しい手つきにひやっとした。鳥肌が立ちあたしの笑顔が凍る。知ってるよ。言えないだけなんでょ。なにそれ?意味わかんない。うふふな想像をして、今日の着信を確認する。
今日も着信は絶不調。アプリで探りあてて、良い人がいないか検索する。駅で待ち合わせ。あたしの先輩になってくれる人を募集中。広告を貼りだしたらすぐに来てくれる。歩けばどっと疲れるけど、幸せいっぱい絶好調のあたしは駅までの道のりでへこたれない。ひとり、ふたり、さんにんと数えてようやく四人目であたしの手をとった。おなかのそれどうしたの?どのこと?そっか。そんなあやふやな会話をして、近くのファミレスで先輩は自分の今ハマっているものについてたくさん語りだした。僕は小説家になりたいんだよね。芥川賞とかそこらへんの賞をとってさ。好きな作家がいてその人に追いつきたくて。でもたまに嫉妬して、悲しくなったりするんだ。君は?好きなものとか、目指しているものとか、ある?あへぇ、そうなんですか、すごいですね、とあたしは返事して聞き流す。これからどうするかとか決めてないの?なんでそんなこと考えるんですか。考えるのつらくないですか。先輩は口を小さく開けて制止する。時間が止まったみたい。あたしは手に持っている再生ボタンを押すと、ようやく動き出した。今日はどこのホテルに行きますか。あたし、どこでもお供しますよ。先輩の家でも、安いホテルでも、車の中でも、そのへんの公園だって。そういったのに先輩は何もあたしにしてこなかった。いくつかメニューを頼み、好き勝手にしゃべくりたおしただけ。帰りにそっと、自分のことを大切にしなよ、とわけのわからないことを言って、なかなかに楽しかったよ、と別れを告げられた。あの先輩はもう二度と会わないだろうな。わけわからないし。
月夜にかかる雲を拝みつつ家に帰ったら、お母さんが仁王立ちをして玄関で待ち構えていた。今日のご飯は?あたし食べてきたしいらない。自分の部屋に行こうとしたら、通せんぼし、手首をひっつかまえて食卓まで強制連行された。食卓に勢揃いされたあたしのかつて大好物だったものたち。オムレツに、ハンバーグに、巻き寿司、お好み焼き、そーめん、うどん、餃子、お母さんが手塩にふるってだしていた。これはお父さんと別れたときの晩餐会を催した夜と似ていた。ワインをかつん。今日だけは特別よ。誰にも教えちゃだめよ。あのときあたしは大人の味を知った。
お母さんは掠れた声で、あんたどれも食べないのね、と。オムレツは卵の生臭さが際立ちまるで生ごみを前にしたかのようで、ハンバーグは何日間もお風呂に入っていない動物の匂いが湧き立ち、巻きずしは口に入れたときの弾力がゴムを思い起こさせて気に食わず、お好み焼きは砂を噛みしめているかのようで。そーめんなら食べられるよ、とあたしはのほほんと答えた。でもお母さんの険しい顔は変わらない。食べてよ、とぽつりと言葉をこぼす。あんた、数か月前からおかゆかそーめん、うどんみたいなものしか食べてない。臭みが気になるんだよねって言ったけど。そうじゃないわ。気づかないふりをしているのは限界なのよ、とお母さんがいきなりリミッターを解除し声を荒げた。おなかのそれ、どういうこと?なんのこと?もしかして、お母さん怒ってる?あたしは怒られている?ごめんお母さん。とりあえず謝った。謝るとかそういう問題じゃないのよ。ごめんなさい、お母さん。あたしはきちんと謝れる子だから、口元に笑みを含ませ空気を重くしすぎないようにして謝り続けた。私があんたに寂しい思いをさせていたのね。そうじゃないよ。どうしてそんなこと言うんだろう。何にお母さんは泣いているんだろうか。しくしくと涙を垂れ流してきらびやかな食べ物の前で崩れ落ちている。明日病院行くからね、もうお母さん深くは聞かないから。あんたも言えなくてつらかったんだろう。あたしはううん、と頭を振った。でもお母さんはそんなあたしを見ないで、せめてご飯食べて、栄養をたくさんとって、と懇願してくる。うん、わかった。あたしは元気よく言ったけど、食卓の椅子に座ることすらできなかった。
今日は学校を休んで、病院へ。数十分待たされて、お母さんの後ろをつけて、診察室に入った。ベッドに横になってください。はい。おなかをだして。はい。お母さまこれは。はい。あたしは、はい、と答えて、天井を見上げる。男の子の汗臭い喧嘩の後意識を失って気が付いたら白い天井を見上げていた、というくだりがふと思い出される。あんな気分だった。気が付いたら、お医者さんが触診して、あたしのおなかになんだかわからない機械を押し当てられる。エコーで映し出されるのよ、と看護師さんが説明をして、画面を指さした。黒い中に白い丸がある。ここが目、ここが口。ここが頭。言われてみても、うわぁすごいですね、と白いつるつるの天井を超加速スピードで言葉が滑っていく。ジェルがくすぐったくて心地よかった。ぴったりと張り付いたエコーにあたしの触覚が反応する。すごいでしょ。看護師さんが遅れて相槌をうつ。お母さんは、また泣きそうになって目をこすっていた。赤い目がまた一層腫れぼったくなる。これから、この手帳を持つことになるの。説明されたものを手に取ってみて、銀行口座の手帳みたいと、感嘆の声をあげてぺらぺらと振ってしまう。もう無理なんですか。ええ、その期間は過ぎてしまっています。お医者さんとお母さんが目配せし、相思相愛。看護師さんはあたしのおなかについていたジェルをぬぐう。だって、この子はまだ自覚すらないんですよ。お母さんそうは言っても娘さんはもうその時期を過ぎてしまっているんです。天井の白をぼんやりと眺める。あたしの耳には先輩からの着信がとめどなく鳴り響いている。お医者さんとお母さんが喋っているのに覆いかぶさって、バイブレーダーがぶー、ぶー。鞄の中で高鳴っている、あたしへのコール。今日もあたしの着信は絶好調。
診察の後、お母さんは待合室で呆然としていた。あたしは隣でちょこんと座って、人が行ったりきたりするのを目の端でとらえている。手のひらの上には帳面。中にはエコー画像が挟まれている。おめでとう、というべきなのにな。人波にお母さんの言葉が押し流される。ぜんぜん言えなくてごめんね。そんなことないよ、お母さん。あたしこそごめん。そうね、悩んでてもなんにもなんないし、おなかすいたでしょ。近くに大学の学食があるんだけど、そこに行きましょうか。うん。病院から十分も歩かないところに大学があるのは確かだ。あたしの先輩が通う場所だから、チェック済み。
大学に連れてこられると、私服姿の大学生がたくさんいて、あたしの制服が浮いていた。広々とした食堂にお母さんと二人で座って、雰囲気を楽しむ。大人って感じだ、と思ったらなぜかワイングラスを重ね合わせた音があたしの胸に響いた。あたしは久々にオムライスを食べたくなった。卵黄たっぷりの、とろとろオムライス。中にふっくらケチャップご飯が包み込まれている。想像したら唾液が止まらなくなる。オムライスを頼もうとしたら、メニューにはさらに今日のランチが載っていた。ハンバーグの肉汁がそそる、今日のランチ。口に入れたらたっぷりの香ばしいにんにくの匂い。どっちも食べたい。お母さんが、ハンバーグを頼んで分けてあげると提案し、あたしたちは各々のランチを受け取り席に着いた。そこでお母さんは、ちょっとお手洗いに行ってくるね、と赤い目をこすりながら席を立つ。大学の休み時間というものなのか、昼過ぎなのに人が多い。あたしの先輩を探す。ここの大学にもいたはず。そう思ったら全員が先輩に見えてきた。あのマッシュ頭の先輩っぽい男の子があっちで喋ってる。大柄な先輩がこっちをちらちら見てる。青白い肌の先輩っぽい男の子が必死に勉強してる。気弱そうな先輩が、お弁当片手に友達と議論してる。すると、ひょろりと長細い男性が、近づいてきた。久しぶり、と手を振ってきたから、どの先輩かわからないけど、お久しぶりです先輩、とにこやかに挨拶を。ちょっと、その子なに?なんて後ろから男性の腕をとる女性が現れた。げっ、と男性が顔をゆがませる。先輩?頭をかしげてしまう。立ち上がって、あたしよりも垢抜けた女性を見上げた。なんだか自分が子供っぽかった。男性があたしのおなかを見て、俺知らないからな、と言い放つと、女性が眉を八の字にさせてなにこれ、とあたしをじろじろローファーから地毛のつむじの先端まで品定め。選定に負けたのか、金切り声をあげて男性に食ってかかる。俺は知らないって。あんたもあんたよ。あたしに女性の般若面が向く。手が振り上げられて、ぱーんっと頬を引っ張たかれる。弾かれた視界に一瞬何が起こったのかわからなくて。数秒して顔を戻すと、ひりひりと頬が熱を帯びていた。白黒と視界が行きかい、黒くなった世界が開けると、目の前の男性がいつぞやのあたしに先輩と付き合うノウハウを教え込んだ、一番初めの先輩だったのを思い出した。もう遠い昔だ。俺は知らないからな、先輩はごみを投げつけるように捨て台詞を吐く。女性に連れられて、あたしの前から消える。頬の肌がちりちりと熱伝導を起こしてスパークする。あっちへこっちへ電線がつながる。あたしは一旦、席に着き目の前のオムライスを食べることにした。かかったケチャップはオムライスを分断するように一本線が引かれていた。スプーンの腹で平らにして、薄くのばし、オムライスの表面をまっかになぞる。薄く延ばされた赤の間から黄色い卵が見えている。ぶくぶくと肥え太り見えないようにしても卵の表面が膜の向こう側に見えている。ふっ、となぜかあたしは笑ってしまった。オムライスを切り分けて、スプーンですくいあげる。薄皮の卵とケチャップライスを口に運ぶと、舌いっぱいに甘さと塩からさが広がった。あたしの目からもぶくぶくと熱が膨れ上がっている。はちきれんばかりの膜が頬からの熱伝導ではじけた。わかんないよ。その一言が過っては、涙で流れていく。わからない。周囲はあっけらかんとした開けた食堂。先輩はどこにもいない。お母さんも今はトイレだし。心細くて仕方なかった。肌が恋しくて、誰の言葉もいらないのに、寂しくて悲しくて、何に対してそう思っているのかもわからない。ひたすらにぱくぱくとオムライスを口に運んで、しょっぱさを噛みしめる。痛覚が発達して、あたしのおなかへたどりつき、大きなおなかの中で何かがぬゆりと動いた。私の中の着信音が鳴り響く。今日もあたしの着信音は絶好調。おなかの中から大きく、ノック、ノック。あたしの全身へ、どん、どん、響いて。そのたびに涙と笑みと、おなかの中の灯が膨らみ続ける。火が灯り、散開していく。どこに重きをおいたらいいのかわからず、寂しさに頬を凍らせ、悲しさに暮れ、心細さに冴える。ただ一つだけ、確かな光があった。あたしはスプーンを置いて、その光をつかむ。おなかのなかの着信音に手を添えた。
あたし、あなたを産みたくない。
動くな、動くな。念じるままに。でも、あたしの着信をおなかのこの子は受け取ってくれない。唇をぐっと噛みしめて、唾を飲み込む。どん、どん。ノック、ノック。動く、動く。あたしの何もかもが揺さぶられる。着信音は否応なく鳴り響く。あたしの呪いの言葉を聞き流し、どこまでも深く浸透していく。この子は生きている。生命の線が二本立っていた。ぴこん、と本線が三本、電波の柱が林立する。ぴこん、ぴこん、あたしの電柱が受け取っている。ここにある命の息吹を。口にしたオムライスが胃でぐずぐずに溶けだして息吹きに加わった。ひゅるひゅると空気がぬけていく。つむじのような虚しいつむじを紡いでいると。また会ったね。どこからか降ってきた声。神様のような後光が遮った。顔を上げると、この前の先輩。どの先輩だっけ、と脳内検索をかける。面倒くさくなってショートを起こした。この前はありがとうと意味が不明な言葉を置いて隣の席に座りだす。ズボンのポケットに小説が丸め込まれてはいっていて窮屈そうにしていた。なにみてんだ。先輩はあたしの額にこつんとデコピンする。あたしの視界はキラキラお星さまが舞い込んだ。ファンシーな世界に迷い込んだお姫様。先輩はそんなお姫様に、ちょっとさ頼みがあって、と切り出した。俺、小説書いてるって言っただろう。芥川賞とかそのへんの賞をいつかとるんだけど、あんたをモデルに書かせてほしいんだよね。そのおなかとか超珍しいだろ。ここは俺のために産んでくれない。うん、いいよ。だって先輩のためだもの。白馬の王子様のためならば産むことに理由なんていらない。迷っていたあたしがバカだった。まじ?ありがとう。先輩の瞳が黒光り。この光の先にあたしは自分のなにもかもを置き去りにする。悲しみも、嬉しさも、焦燥感も、全部あげた。じゃあ、また電話するから。先輩は席を立つ。お母さんが帰ってくる。オムライスが平らげられたあたしの皿を見て、心底喜んだお母さん。ここの食堂のご飯おいしいねぇ。にひひ、と歪な笑みを向けて。
あたし、この子を産むことにした。
お母さんは驚いて、あたしのおなかの着信音を聞き逃す。ほら、今も鳴っている。ノック、ノック。あたしの着信音。頬の痛みが知らない間に消えていて。
今日もあたしの着信は絶好調。エックスデーまでの日取りはすぐそこに。手帳の中身も連なっていく。あれが目だよ。へぇ。これが足。ほぅ。見てみて、もうしっかり顔が出来上がっている。なる、ほど。あたしの中の着信音は機械を通して伝ってくる。眼球の表面に事実が浮かびあがる。これも全て先輩の小説の中の出来事。文字が濁流となって目の前に映し出されていく。こちらはあたしのお子様です。テレビショッピングのように紹介される。お母さんに似て美人さんだね。そうなのか。先輩はこういうときどう書くのだろうか。ベッドの上に放置された後輩です。後輩のおなかの中にはどこも誰かもわからないお子様がいます。一人三百円です。そういった旨をご報告。先輩に発信。先輩、あたしです。順調に育っています。えへへ、先輩が小説を書くんならあたしなんでもしますよ。そうかそうか、良かった。次どうしたらいいですか。まずはおなかの状態を事細かに教えてくれ。まずはですね。あたしが言おうとしてあたしのことは何も知らないことに気づいた。そういえばこの子の状態もあたしのおなかの大きさもどれくらいか見ていない。まずはおなかは手のひらに収まらないくらいになっていて。おなかの子は手と目と頭がしっかりあってですね。あたしのお母さんそっくりなんですって。そうか。先輩?ちゃんと聞いてます。あたしの声届いてますか。あ、聞いてください。ほら。今、おなかのこの子蹴ってる。まるで扉を叩くみたいにノックノックって。内側から叩かれるのってなんだか不思議です。おなかの虫はいじけてるみたいに鳴るのに、ノックは怒ってるみたい。そうか。先輩、あたしのことちゃんと小説にしてくださいね。あたしの発信は途絶えてく。あたしからすることは気恥ずかしくてなんだかやめちゃうんだよね。えへへ、と心がときめく。やっぱり先輩は最高なんだなあ、とよしと決めてメッセージを送る。また会いたいです。そうか、とそっけない一言もとってもクール。
今日もあたしの発信は絶好調。先輩先輩、病室からもみじが見えるんです。赤とか赤っぽい茶色とか絵の具が風景に張り付いたみたい。すんごい綺麗なんで今度見せてあげたいな。病室の中と外でまた違ってて。外ってこんな風景だったっけ。先輩聞いてます?おなかをさすって。ああ、こんなに大きくなってたんだって。こんな大きなおなかどう隠そうと思っていたのか今になってはわからない。腕で抱きしめてこんもりと山ができてて。あったかくて、あたしが包んであげたくなる。今日のノックは最近で一番大きい。他の子よりも多いノック、ノック。あたしの右上をよく蹴る。お母さんが剥いてくれたりんごをしゃくっとひとかじり。甘みとしょっぱさがあたしの病弱精神をつついてくる。病気ではないのにな。季節のせいだろうな。なんだか傷を負ったみたいに心の端がふやけているのです。先輩に発信。今日も空いています。今日の着信も先輩一本きりです。他は誰もいませんよ。そこに先輩は入らないんですか。それでも先輩はあたしと会ってはくれないんですね。そうだね。あたし、もうなんとなく気づいているんですよ。先輩、あたし先輩のこと好きです。好きじゃないよ。きみはわかってないよ、もうちょっと今の状態について教えてくれ。今日の着信はかなり多いです。出たいって言っているみたい。このあいだからご飯がおいしくて、病院食じゃ足りなくなっちゃって。食べる端からおおおおーっと力がみなぎってきてですね。看護師さんが外歩くのがいいよって言うから、歩いて。病院の中って薬の匂いがはびこっているから「死」ってものが近くに感じられるんですよね。独特の香りで誘ってるみたい。そんな香りに後ろ髪ひかれながら外でて、ひやっとしました。階段があってですね。大きなおなかで足が見えなくて思わず態勢が崩れてしまったんです。体が重いしころころ転がったらやばかった。何が?だって転がったら。あれ。何がやばいんだろ。先輩の息がこぼれてくる。秋の息吹があたしの耳から流れてくる。エックスデーまで一ヶ月きっている。テーブルには時間を置きすぎて痛んだりんご。しゃりっとまた食べて、腐り落ちた葉っぱを見て、先輩、紅葉?が綺麗です、と報告する。落ち葉が舞い散って、足元で誰かがそれを踏んで土になってる。生態系っていうんですよね。土に栄養素がいって、木が育つんです。命が芽生えるってことですよね。多分、それって素敵なことです。先輩。聞いてます?
今日の発信をしようとしたら、お母さんの告げ口絶不調。あたしのベッドのそばに来て、そろそろどうするか考えましょうか、としんみょうな顔で言ってくる。このあいだ赤ちゃんのお風呂体験をしたんだった。後ろでお母さんは複雑な表情をしていた。ちゃっぷちゃっぷと赤ちゃんの人形をお湯につけていく。わぁ、すごい。若いお母さんですね。なんというかそういうことを言われた気がする。そのときのことをずるずるとだして。赤ちゃんはお母さんと二人で育てていきましょうか、と宣告された。家に用意するものと赤ちゃんに必要なものリスト、おむつ、服、お風呂、授乳キッド、乳びん、それからそれから、学校について。あ、もういいです。充分です。わかりました。あたしは理解できております。だから今は先輩に発信を。携帯を持つ手がふるふるとなぜか震えていた。着信を捉えているんだろうな。
知らない間にベッドのわきに友達が立っていた。お母さんの言葉を遮るみたいに、やっぱりって何かを口にする。わたしだけあんたのお母さんに教えてもらったの。つるつるに光る床をしっかり踏みしめて。肩にかかった鞄を落とした。ささっとあたしに迫りくる。両肩を握りしめて。なにしてんの?なにって?なんでこんなことになってるかわかってんの?なんでそんなこと考えなきゃならないの?だってつらくない?は?右手のお母さんはぽっかーんと口を開けていた。あれ、そういえば今何を話してたっけ。えへへ、ととりあえず笑って、今の状況を報告しなきゃなと携帯を握りしめる。噛みつかんばかりに友達が、言った。心配してんの。学校のノートもとってんの。また一緒に学校来れるの?わかんないや。今どうだってよくない?そこであたしのおなかの中の何かが下を向いた気がした。上を蹴って泳いでる。すすすーい。お魚みたい。すごい、今ね今ね、蹴ったよ、すんごーくない?ぎゅっと、友達があたしを抱きしめた。どういうこと?わかんない。なんて言葉を繰り返して、友達があたしの首元に顔をうずめる。声の息吹が耳元にかかる。くすぐったくて、でもこの感じはあったかくて。先輩にしてきたのと同じようにありがと、と言っちゃう。ぺらっぺらな声で。あたしの声聞こえてる?と聞いちゃった。聞こえてる。発信できてる。乳びん、子ども用のスプーン、お皿、食塩はほどほどに、とお母さんの続きの言葉が過る。あったかいな。これまでのどんな先輩にももらえなかったな。先輩が本当のあたしを呼び覚ます。ここにいるよ。手元の携帯に語り掛ける。先輩、ここにいます。抱きしめてください。今度はそう発信しよう。友達の温かさがあるうちに。
今日の発信は最高潮。先輩に言いたくて仕方なくて、病院の外にでてすぐ先輩に発信してしまった。何度も発信すると先輩がいつものクールな調子で応答する。先輩、エックスデーまで数日きりました、とあたしはいつも通り報告を。もういつでもオッケー状態。うふふ、面白いですよね、もしかして今日かもしれない。今日はですね、先輩に言わなければならないことがありまして。実は先輩、あたし先輩のことが好きなんです。大好きです。何回も聞いてる?そっか、そうだったっけ。でも今は先輩だけしか見れないんです。会いたいです。白馬の王子様みたいって思って。こんなに好きなの初めてです。全部あなたに捧げますって少女漫画みたいなことも言えます。あれ、これも言ってました?そうだっけ。また会ったらぎゅっと抱きしめてあげます。いらない?先輩?どうしたんですか?切らないでください。
あんたの隣に俺はいらない。今までだましててごめん。小説のネタにするなんて嘘だ。あのままじゃ、産まないと思ったんだ。だからここでさよならしよう。あんたは、その子を大切にしてあげろよ。
なんでですか。ここまで先輩のために大きくしたのに。あたしには先輩しかいないのに。今先輩にいなくなられたら、あたし、あたし。ぷつっと切れる発信。あたしは何度も発信。すかさず発信。とめどなく発信。隙間なく発信。どんなときでも発信。着信拒否されて届かない。つー、つー。虚しく発信。どうしたらいいですか、発信。先輩、この子どうしたらいいんですか、発信。大好きです、発信。何度やっても聞こえない。あたしの体温が一気に氷河期になってしまう。重くなるおなかを抱えて病室にもどろうとする。足が上がらない。こんなに重かったっけ。ぐるんっとおなかの何かが動いて、あたしをせかす。ここにいる、とノックする。やめてよ。ノック、ノック、好機とばかりに。そこにいることを言ってくるの、やめて。携帯が手から滑り落ちて。階段から下へ。蜘蛛の巣を張って。それを掴む気力がない。しゃがむのも難しくてショックすぎて頬が凍っている。先輩、先輩、ひぃひぃと口から冷たい息が響いていく。あられのような涙が瞳からぽろぽろ落ちてく。
何も言えずに立ち尽くしていると、二本足で立っているあたしが見えた。大きなおなかで、たった一人。妊婦さんのゆったりとした服を着ていた。病院前の階段で。
どん、とあたしのおなかが言った。あたしの赤ちゃんが、違うといった。ここにいると怒っていた。怒るのって疲れるよ、やめなよ。おなかをさするんだけど、強くなっていく。痛みが大きくなっていく。羊水っていう水の中で泳いでる。あたしに発信。何度も発信。でもあたしは着信してなかった。おなかを触って、着信。聞こえてるよ。どん、どん、ノック、ノック。あたし、きいてなかった。先輩にばっか発信して。着信して。友達のあったかいハグも、あんたの発信も、知らんぷり。二本足で立って病院に歩みだす。吐き気がする。痛みがおなかの中から破裂する。水が太ももを伝っている。あんたがいた。先輩も、友達も、お母さんも、お父さんも、いつもいなかったのに、あんたはいつもあたしの隣にいた。
あたし、産まないと。
水が破れてる。エックスデーよりも、かなり早い誕生日。あたしの失恋記念日で、そしてあなたの生まれる日。
あたしは踏みしめる。重たい体も凍った頬も引きずっていく。青く冷めた炎が宿っていた。冷たいのにおなかにいるこの子を想っていた。胸が痛い。どくどくと血が通っている。血液が未来へとあたしの体を持っていく。右上げて、左上げて、足取り重苦しく。助けてください。誰かあたしを助けて。今度こそあたしは発信する。あたしの赤ちゃんを助けて。破水してるんです。あたしは発信し続ける。すると、どこか遠くから赤ちゃんの声が聞こえる。明るい雄たけび。ちゃんとした発信。おぎゃー、と元気な鳴き声。あたしはきちんと着信する。そこに行きたい。今ではなくそこへ。あたしは病室のベッドの横で眠っている小さな赤ちゃんを見つけて、微笑むのだ。小さくあくびをする赤ちゃんから、小さな小さな声を着信。柔らかい赤ちゃんの頬に触れて、着信。生きている声を着信。さまざまな発信をあたしは受け取る。その着信の波へ。
そうしたらきっと、明日の着信も絶好調だ。
あたしの発信を聞きつけて、病院の看護師さんやお医者さんが駆け寄ってくる。あたし、とちゃんと言わなきゃならない。お医者さんの白衣をぎゅっと握りしめる。あたしの赤ちゃんなんです。空っぽのあたしから芽生えた命だった。「死」の病院の空気を打ち破って、あたしは叫ぶ。発信し続ける。助けてください。傷心の心を置き去りにおなかを抱きしめる。お母さんが駆けつけて、友達が後ろから来て。お医者さんにすがるあたしを見て、大丈夫と支える。一緒にいるよ。あたしの発信を着信してくれる。多くの着信にあたしの発信は安心してなりを潜める。そこにいてね。うん、いるよ。何度も繰り返し友達と交換してあたしは命の戦場へ赴く。いるよ、一緒にいる。あたし、留年しても学校へ行く。この子にふさわしい人になるために、勉強する。わかった、わたし待ってるから。それはあたしのおなかからの発信も一緒に頑張れと応援してくれる。うん、いるよ、と今度はあたしが着信してあげる。一緒に頑張ろうね。あたし、つらいのも、疲れるのも、頑張るから。考えていくから。全身に体の陣痛を浴びた。
着信音がした。小さな命は雄たけびで発信を繰り返す。その声色はピンク色。弾けてあたしに求めてくる。今日の着信も絶好調。ぎゅっと小さな命を胸に抱きしめた。新鮮な空気を吸おうと一緒に階段を下ると、どろまみれの携帯が足元に見えた。蜘蛛の巣が張り巡らされて死体みないな携帯だこと。あたしは携帯をほうっぽって友達がいる先を見据えた。手を振っている。あたしの手の中の小さな命がまたきゃっきゃっと友達に反応して発信する。あたしはふふふ、と笑って友達へと向き直る。
きっと、明日の着信も絶好調だ。
今日の着信も絶好調 千羽稲穂 @inaho_rice
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