リリス ~夢十夜第一夜オマージュ小説~

愛野ニナ

第1話

 

 横たわる女の黒い瞳は、迷いなく私を見ているようであった。

 枕元に佇む私の姿を。

「もう死にます」

 彼女は言った。

「見えるのか」

 ふと声に出して問えば、

「見えますとも」と彼女は答えた。

 私の声さえ聞こえていたとでもいうのか。

 その黒い瞳をあらためて覗き込む。

 透き通るような瞳の中には、腕組みして見下ろす私の姿が確かに映っていた。

 過剰な覚悟や気負いはいっさい感じない。ただこれから起こる事象を静かに受け入れようとしている凪いだ心の色が見えた。

 人は死を悟った時、時空を超越するという。見えないものの姿を映し、聴こえない音を聴く。

 それも必然だったかもしれぬ。

 果たして彼女に死を告げに来たのはこの私自身なのだ。

 女の肌は蒼白で、その白い頬に赤みはなかったが、唇は紅く潤っている。

 長く艶やかな黒髪を枕に散らし、目を開けて真っすぐに私を見ていた。

 とてもこれから死ぬようには見えなかった。

 放心したふうをよそおう風貌の中の、静かでありながらしたたかな瞳の奥にひそやかな意志を宿している。

 私はそれに魅了され、彼女の内という底無し沼に引きずりこまれてゆく己を感じるのだった。

「百年、待っていてください」

 私は頷く。

 人は生きながらえたところでせいぜいが百年であろうとも、私にとっては瞬きほどの時間でしかない。

 真白な花にも似た彼女の手を布団から少し出して、私は自分の手で包み込む。死に逝くその身は寒かろう。案の定、冷たい手だった。私もまた然り。その手を温める熱を持たない己が呪しくもあった。

「死んだら埋めてください。真珠貝で穴を掘って、空から落ちてきた星のかけらを墓標にして。そのお墓の傍で、百年、待っていてください」

 お前のいうとおりにしよう必ず、と私は誓う。


「生まれ変わって、またお側にまいります」

 彼女の唇が微かに笑みの形に開いたように見えた。

 黒い瞳に映った私の姿が透明な雫となって流れ、彼女はそっと目を閉じた。




 彼女の亡骸を抱えて、庭に出れば青白い月の光がさしている。

 私は約束通り、大きな真珠貝の縁で穴を掘る。貝の裏に月の光が反射するたび、きらきらと輝いた。

 やがて穴が出来上がると、羽のごとく軽い彼女の亡骸を埋めた。

 天から落ちた星のかけらを拾い墓石とした。

 私は待つ。その星の墓石の傍で、ただ静かに待っていた。

 幾度も日が昇り、沈む。

 時の虚しさだけが過ぎてゆく中、在りし日の彼女の姿を想っている。私が知っている彼女は、その生を終える最期の時だけなのだった。

 だが、私は自らを愚かとは思わなかった。

 惹かれ合うことに理由など在りはしない。魂が共鳴するという事象そのものなのだ。

 俺に魂などあったろうかと自嘲してみるのだが、おそらく彼女に出会った時より、この俺にも魂は宿ったのだろうと自ら納得するのだ。

 幾年の後か、星の墓石の周りも苔や雑草の類が増えた頃、石の下から私の方へ一本の青い茎が伸びてきた。

 私の胸のあたりで止まると、蕾がゆっくりと開き、ほっそりと柔らかい白い花となった。

 天から一粒の雫が落ち、花びらを微かに揺らした。

 私はその冷たい花びらに口付ける。

 振り仰いだ薄明の空に、輝く暁の星が見えた。

 そうか、百年はもう来ていたのか。

 甘くしたたかに香る花に懐かしい記憶が重なった。

「百合」

 私は呪の込められた彼女の名を呼ぶ。

 物言わぬ一輪の花となって、また私の傍に来たのか。そしてひと時の邂逅が終わる。

 私と触れあい、百合はまた死んでゆく。

 俺が死であるがゆえに。

 百年また待っていよう。

 次の死の時も、その次も、さらに次の百年も。

 私が彼女の死を見届よう。


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