三人の顧客候補

***


 今日の天気は雨だが、幸いにも今は晴れている。上海の裏通りにひっそりと佇む茶館の奥、薄暗い個室の一角。重厚な木の香りと、長い年月を物語るかのような古い調度品の並ぶ空間。わずかな明かりに照らされたテーブルの上には、緻密な計算が書き込まれた紙がある。


 対面に座る盧は、政府の厳格な監視と銀行・証券会社の制約が、富裕層の資産を着実に蝕んでいるという事実を、淡々と、しかし鋭い論理で説明した。確かにこの方法なら資産を海外へ移すことが可能で、合理的な計画に見える、数字上は。


 それを聞いても、私の表情は決して明るくならない。彼は、「私は絶対にこの取引に乗る」と思い込んでいる。この数字も、最良の結果を語っているにすぎない。この男は、私にはもはや詐欺師であるかのように感ぜられる。


 私は昨年の不動産投資で、予想を上回る税負担によって苦悩した。それを思い返しても、この「ビジネス」はたしかに魅力的だ。それでも本能は警告を発している。これが彼に気が付かれていないか、それだけが、今の私には気がかりだ。 


 室内に漂う煙草の匂いと、静かに流れる時間の中で、彼の声が低く、はっきりと響く。

「数字だけでは語りきれない現実がある。政府が締め付けを強めるたび、君の資産はただ無情に目減りしていく。銀行や投資の規制、それに伴う税負担は、どんな計算よりも残酷だ」。


 私は彼の説得に、ゆっくりと視線を消しながら、沈黙で答える。数秒間の重苦しさが、私に飲み物を勧める。一口分の水が喉を通って、私はようやく口を開けることができた。

「理論上は、君の言う方法も理解できる。しかし、実際に関わるとなると、どんな計算にも裏がある。その方法は、あまりにも無謀なリスクを伴うし、君はこれをほとんど私に説明していない。」

彼は私の言葉を静かに受け止めながらも、論理と現実のギャップについて考えを巡らせた。


 どれほど合理的な数字で整理された計画であっても、どれほどリスクとリターンが見合うものであっても、目の前の人間への信頼が崩れれば、話を受け入れることはできない。ただの計算では埋められない痛みがそこに発生するのだ。部屋に漂う薄明かりの中、私の心は、冷静な計算と現実の厳しさとの間で揺れていた。


 私は、テーブルの上に置かれた茶杯に視線を戻し、ゆっくりと首を振った。

「結局のところ、私にはそのリスクを負う勇気はない。どんなに数字上で理に適っていたとしても、私は危険な橋を渡るつもりはない。結論は、ノーだ。」

私は静かに、はっきりと宣言した。


 その瞬間、重い空気に亀裂が生じた。盧は、期待外れだという感想を隠しているつもりだろうが、脱力した手から漏れ出ている。彼は、私の決断を静かに受け入れたようだった。


***


 所狭しと詰められた日程帳を眺める。今日は朝から、客人が私は事務所を訪問してくる予定だ。そう考えていると、早速扉がノックされる。

「入れ。」

低く響く声が聞こえ、男はゆっくりとドアを押し開けた。


 盧は扉を開けると、お辞儀をする。数年前はもっと見た目から熱量が溢れ出していた男だったが、今ではすっかり落ち着いたらしい。

「久しぶりだな、盧。」

盧は特徴は、営業スマイルの向こうに見え隠れする鋭い目つきだ。

「お久しぶりです、シューさん。」


 上海の蘇州河沿いには、昔ながらの工場跡地を改装したカフェやオフィスが点在している。その一角、古いレンガ造りの建物の二階に、私は事務所がある。盧は、手土産として、その中で最も良い珈琲を持参してきた。


「お噂は聞いております。ここ数年は『投資家』を名乗られ、中国国内外の資産運用を手がけておられると。そして、表向きは穏やかなビジネスマンに徹しているが、裏ではリスクの高い取引にも手を染めているとも。」

「ほう、なら俺にはどんな話を持ってきたんだ。もちろん、面白い話なんだろうな。」

私は立ち上がって、椅子を手を広げて椅子へ向ける。盧は机に近づき、椅子を引いてゆっくりと腰を下ろした。私はタバコを取り出し、盧に差し出した。盧は一度は拒んだが、何度も差し出すとうやうやしく受け取り、箱から一本取り出す。私は、盧が取り出したタバコに火をつける。


 企んでるなんて人聞きが悪い。彼はそういうと、資料を取り出しながら、新しい事業の話をしに来たとのたまう。

「ほう。何の事業だ?」

私はタバコの煙をくゆらせながら、じっと彼を見た。彼は慎重に言葉を選びながら、投資スキームの概要を説明する。私は冷静に聞いていたが、この話は盧からの情熱を感じないつまらない。それでも、こいつは説明を続ける。私は煙を吐きながら、テーブルを軽く叩いた。

「お前の言いたいことは分かった。だが、今日は帰れ。」

盧は事出意外、驚慌失措といった鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしている。


 盧の「事業」は、まだ頭の中にある。その実現性、その問題点、その過程、何も具体的なことを彼は体験していない。私は主意アイデアには興味がない。彼は、まだ何も試していない。私は、そのような話に乗るつもりはない。

「まず、ドバイ経由の取引はすでに公安の監視対象になっている。お前の言う投資スキームが、本当に『合法的』に見せられるかどうかは別の話だ。」

「合法に見せることはできます。金の投資は、」

「そんな話はしていない。」


 盧がどんなに『投資』だと言い張ったところで、公安がそれをどう判断するかは別だ。そして公安は地下銀行と資産逃避に関する取り締まりを強化している。盧の提案するスキームは、限りない灰色をしている。海外にいるといわれる秘密警察から、電話一本でも入ったら一体どうなるか。帰国次第拘束されることは確実だが、そのあと何が起こるか、誰も保証できない。


 しかし、それよりも大事なことがある。私が聞きたいのは『そういう話』ではないし、盧が私にその『話し方』をすることも気に入らない。盧の話し方は、『俺がカモどもに説明する時の話し方』そのものだ。それを『俺』に向けてくるとは気に入らない。

「じゃあな、盧。」

私は短くそう言うと、椅子をそらしてコーヒーを飲む。


 盧はまだ挽回の機会があると思っている。仮にあったとしても、それは今日、今ではない。私は、彼がこの事務所を訪ねてから、わずか10分で退出を促した。盧は納得がいかないような、いや、まさかこんな形で追い出されることが予想外だという顔をしていた。盧は事務所を出る前に、一度だけ振り返った。私は盧に、こんなつまらない話を2度とするなと一言言ったが、その間も私は手帳を見ている。


***


 電話をかけてきた盧を、私は自分の店に呼び出す。ここは旧上海フランス租界フランス人居留地にある会員制バーだ。店の入り口近くには、小さいながらもしっかりとしたカウンターを設置し、その後ろを通り、従業員向け扉を二度抜けると、個室が複数並んだ廊下が現れる。この一帯は密談をするには優れた立地をしている。その需要をつかまんと、私はこのような作りにしたのだ。


 部屋が九つあるうち、私が指定したのは六十六番。このなかで唯一の二桁の、このなかで最も幸運な番号を持つ部屋だ。そして、唯一接待がしやすい作りをしている部屋でもある。私は、盧が現れるよりも先にこの部屋で待機する。


 この部屋にある調度品のいくらかは、彼の店から購入したものだ。非常によく気に入っているし、彼の目利きはいい。そんな彼から電話がかかってきた。私は、彼と久々に話ができる日を待ち望んでいた。


 従業員が扉を開け、「盧が来た」と伝える。私はここに案内するよう指示を出す。数十秒ののち、盧はこの部屋にやってきた。


 ゆっくりとグラスを揺らす。これは、私の生まれ年のワインだ。きっといい話ができるに違いない、そう思わせる香りだ。

「久方ぶりですね、盧さん。」

「お久しぶりです。馮さん。」

私は彼と握手をすると、彼に座るよう指示して、私も椅子に腰を下ろした。今日は車かと確認すると、盧は首を振った。それならばと、私はグラスをもうひとつ机の下から取り出し、卓上に置く。盧は手の平を向けて静止してくるが、無視して注いで差し出す。

「せっかくなので、いただきます。」

盧はそう答えた。私は彼の手元にグラスを置き、自分のものを持つ。硝子同士がぶつかり合う、高い音が鳴る。

「さて、今夜の話は?」

私は少し口に含むと、彼をじっと見つめた。


「それはワインとよく似ている。ワインも飲むためだけに買われることはない。ワインを持つこともまた、ひとつの資産運用の方法だからね。ワインと一つ明確に違うところは、純粋な資産であることかな。」


 私は運ばれてきた視線を落として考え込む。彼の説明するスキームは、少し考えれば誰でも思いつきそうなところだが、それをはじめに思いついて、そしてはじめに実行しようとしている。この青年は、やはり面白い。しかし、彼には信用に足る実績がない。彼は十年余年自らの店舗を経営していたとはいえ、この『分野』は初学初心者だ。

「馮さん、以前、特殊なルートも検討なさっていたと思います。心変わりはございませんか。」

「心変わりはありませんよ。ただ、やはり信頼がないですからね。」

「信用の問題ですか?」

盧は鋭いところを突く。すでに誰かを口説き落とした人はいるのかと問えば、今のところはまだ交渉中だと苦笑する。


 とはいえ、私は彼と関係グヮンシーを築けていると思っている。このまま手ぶらで帰られても悪い。

「ところで、劉文斌リウ・ウェンビンという男を知っていますか。」

「名前は聞いたことがあります。」

「よければ彼に会って見てください。彼でしたら、きっといい返事をしてくれるでしょう。」


盧はずっとかかえていた疑問を解消しようとする。

「実績ができたとしても、それだけで馮さんが動くとは思えません。何か他の条件があるのでは?」

私はしばらく盧を見つめ、やがて薄く笑った。盧は無言で私の言葉を待った。


***


 彼無くして、簡単経済を語ることはできない。 劉は単なる富豪ではない。金融から貿易に至るまで、不動産から資源開発に至るまで、テクノロジーからエンターテインメントまで、多岐にわたる分野を統率し、事実上の財閥体制を作り上げた。地方政府によって企業が差し押さえられれば、新しい収入源を作りだす。慎重にして豪胆、それが、劉という男について、巷で語られる像だ。


広州の夜は、上海とはまるで違う生々しい熱気を孕んでいる。煌びやかなネオンには似合わない屋台商店が立ち並ぶ。聞き慣れない広東語が飛び交う中を、タクシーが走る。


 広州と上海は似て非なる街だ。ここは欲望が剥き出しの、金の臭いがそのまま汗に染み込む街だ。原始的な本能が、広州の男たちの歩く速度、話すテンポ、交わす視線のすべてに現れる。


 扉を閉めて、コンクリートの暗い階段を降りる。古ぼけた扉を開けると、虚飾による繁栄が、甘い臭いが乗った重低音と共に漏れ出す。どれほど高級な内装を施しても、基盤は軋む床と安っぽい照明だ。中国の見栄っ張りさは、広東でも健在だった。広州の実力者たちが、夜毎悪巧みをする、高級クラブの奥にあるVIPルーム。この非愛国的な部屋こそ、私の目的地だ。


 奥のカーテンをくぐると、もう一つの扉があった。盧が手をかけた瞬間、空気が変わるのを感じた。湿気に満ちた街の喧騒とは異なる、よく冷やされた密談の温度。


 劉はすでにそこにいた。


 短く刈り込まれた髪、無駄のない筋肉質な体型、そして何よりも、その目。まるで上海の証券会社のトレーダーたちが一日中チャートを睨み続けた後のような、あるいは、カジノのディーラーが客の表情のわずかな変化を見逃さないときのような、相手の本質を見透かす眼光だ。彼の腕には、オーデマ・ピゲのロイヤルオークが輝いている。しかも、世界で数十本しか生産されなかった希少なモデルだ。ただの成金ではない、私はそう確信した。


 軽く息を吐き、静かに椅子を引いた。劉は氷の溶けかけたグラスを傾けながら、口元に笑みを浮かべる。

「上海の盧か。」

声は静かだが、広東人特有の抑揚がある。表情を崩さず、ゆっくりと腰を下ろす。

「馮さんは、私のことをどう話していました?」

劉はグラスを揺らしながら、微かに口元を歪めた。

「変わり者だが、信用できる男。それと——」

劉は、盧を一瞬見据え、微かに笑う。

「少し無茶をする、とも言っていたな。」

『無茶』という評価は、褒め言葉だ。ルールに従う者は、結局は何も得られない。劉は笑みを消し、盧のグラスを満たした。

「まずは、お前の話を聞かせてもらおうか。」

 

 劉は話を聞き終わると沈黙する。考えているのか、それとも、次の一言を意図的に遅らせることで優位を確立しようとしているのか、その表情からは一切の感情を読み取ることができない。彼は指を組み、肘をつき、ゆったりとした姿勢を保ちながらも、その視線だけはまっすぐにこちらへ向ける。その眼差しは、まるで精密な測定機器のように冷徹に、わずかな誤差すら許さぬといった鋭さを帯びる。


 音のない圧力が空間を支配し、密室の温度すら低くなったかのような錯覚を覚える中で、私はただじっと彼の口が再び開かれるのを待つ。この男は、言葉の持つ重みを誰よりも理解している。それを最大限に利用する者であることを思い知らされる。その一方で、彼が今慎重に言葉を選んでいることに確信を持も持たざるを得ない。


 ようやく、沈黙を破るかのように、余計な抑揚を削ぎ落とした声音で問いを発する。

「俺に何を求めている?」

疑問ではなく、まるで詰問するかのような響きを帯びたその声に、私はわずかに息を吸う。これまでのやり取りを一瞬のうちに反芻する。この場で私はどこまで踏み込んでよいのか、単に商品を買わせるだけの関係に留めるのか、あるいはそれ以上の関係を築くことを試みるべきなのかという思考が渦を巻きながら脳内を駆け巡る。慎重になりすぎればこの男の興味を惹くことはできない。しかし踏み込みすぎれば警戒心を抱かせる。私はまるで針の穴を通すような精密な判断を求められていることを悟る。沈黙が長引けば、こちらの迷いを悟られる。考えるよりも先に、口が開き出す。今すぐ言葉を紡がなければならない。私は余計な飾りを排し、簡潔かつ端的に、

「あなたに、投資していただきたい。」


 室内の空気がわずかに張り詰める。劉の表情は微動だにしない。その双眸はただ私を映し、無言のまま私の言葉の意味を測るかのようにこちらを凝視し続ける。長い沈黙の果てに、彼はグラスをテーブルに置き、静かに、それでいて確固たる響きを持った声で言う。

「それで、いくらだ?」

私は一瞬だけ目を閉じる。この場での判断がすべてを決める。慎重な額を提示すれば侮られ、高すぎればこの交渉自体が破談に終わる。私は呼吸を整え、無駄な逡巡を排し、静かに、されど断固たる意志を込めて金額を告げた。


 劉は「少ないな」と言った。

 私は、思わず眉をひそめた。


「……少ない?」

 一千万元二億円は、個人が動かすには決して少額ではない。それを「少ない」と言った——この男は、文字通り、桁が違う。劉は、遊びで金を稼いでいる。 だが、その遊び方が普通ではない。彼は金を『増やす』ことより、『動かす』ことそのものを楽しんでいる。


 劉はわずかに背を預け、指を組んだまま、口元にほとんど分からぬ程度の微笑を浮かべながら、静かに、それでいて疑念を差し挟む余地のない響きを伴って言葉を紡いだ。

「お前の計画が本当に成功するなら、一千万元なんて端金だ。」

その声音には、数字に対する執着も、過度な期待も、ましてや疑念すらも含まれていない。ただ単に事実としてその金額の軽さを指摘するに留まっている。まるで五百万元という数字が、彼の思考の範囲にすら収まらぬほど些細なものであることを明示するかのようであった。


 冷たいガラスの感触が手のひらに微かな湿度を伝える。まるで、今ここにある緊張の均衡が、一滴の水の重みによって崩れることを示唆しているかのようであった。

「つまり、もっと出せる、と?」

この言葉が挑発であるのか、試みであるのか、それとも単なる確認であるのか、私自身にすら判然としないまま、言葉は音となって空気中へと放たれ、わずかに停滞する室内の温度を押し上げたかのように思えた。


 しかし、劉は何も言わない。ただ、口元の笑みを深め、ほとんど意識的には感じ取れぬほどの微細な動きで口角を吊り上げ、その目の奥に、瞬間的な熱を宿しながら、極めて淡々とした口調でこう言った。

「俺はな、もう、大概の遊びは済ませたんだ。」

私は沈黙したまま、彼の瞳を見つめ続けた。その表情の奥に潜む意図を測ろうとするが、彼の眼差しはあまりに平坦で、揺らぎがない。己の持つ資産を用いて何かを生み出すことそのものに興じる者の、それもすでに常識的な規模を超えた遊びの領域に踏み込んで久しい者の眼差しがあった。『面白さ』があるか否か、それこそが彼にとっての唯一の判断基準なのだ。


 ゆっくりと、まるでこの会話がすでに完結したかのように、劉は立ち上がる。冷房の効いた部屋の中にもかかわらず、彼の仕草には何か熱を帯びたものがあった。無造作に差し出された手が、私の肩を軽く叩く。

「お前の話は、なかなか面白い。まずはこれで試してみろ。それ以上は、その後だ。」

彼の声音には、明確な「信任」が含まれていたわけではない。ただ、それを確かめるための最初の一歩として、私に機会を与えようという意思だけが存在していた。彼は携帯を手に取り、短く指示を送る。無駄な言葉は一切ない。


 静寂が訪れ、わずか一分ほどの時間が流れた。だが、その間も彼の姿勢は揺らぐことなく、まるでこの瞬間すらも計算に組み込まれているかのように、確信に満ちた静けさが支配していた。そして、その沈黙を破るかのように、扉が開く音が響く。


 二人の男が入ってきた。サングラスをかけた男たちは、無言のまま部屋に入り、一人は劉の側に、もう一人は机の横に立つ。それぞれが抱える鞄は重厚な革張りであり、表面には微かな擦れが見える。劉が無言で軽く指を動かす。ほとんど合図とも取れないような仕草だったが、机の横に控えていた男は即座に反応した。革の鞄を机の上に静かに置く。重みのある鈍い音が響いた。鍵を外す音。小さく、しかし確かな金属音が密室の空気を切り裂く。


 蓋が開くと、赤い帯のかかった札束がぎっしりと詰まっているのが見えた。人民元特有のかすかに湿った紙の匂い。通気の悪い金庫の中で熟成されたような、生々しい現金の質感が目の前にあった。札束の端がわずかに擦れ、薄い粉塵が空気中に舞う。

「これで足りるだろ。持っていけ。」

劉は、額を告げることさえしない。私は鞄に手を伸ばしたが、指先が一瞬だけ止まる。これほどの金額を、まだ確定もしていない取引に投じる個人は、まともではない。慎重さよりも、速さを優先するタイプ。利益よりも、支配を重視する男。この金を「投資」としてではなく、「試金石」として扱っていることが明白だった。


 鞄を持ち上げる。重量が腕にずしりとのしかかる。想像よりも重い。これは単なる人民元の重さではない。この取引に込められた「期待」と「試練」の重みだ。劉は満足げに笑う。口角を最大限まで引き上げたその表情は、狩りを終えた捕食者のようだった。目には微かな愉悦。これはただの商談ではない。「遊び」だ。


 彼が右手を差し出す。私の視線は、彼の手首に僅かに残る煙草のヤニ染みへと吸い寄せられる。劉が何度も誰かと同じように握手を交わし、その度に何かを仕掛け、あるいは仕掛けられてきたのだろう。私はゆっくりと彼の手を握り返し、短く告げる。

「契約成立です。」

握手は短く、確かだった。劉の手は、意外なほど温かく、そして乾いていた。冷徹な計算が詰まった人間の手にしては、妙に人間らしい感触だった。劉はさらに口元を歪め、挑発するように言う。

「このカネで、面白いものを見せてみろ。」

後日の詳細は改めて送ることにし、私は鞄を持ち、席を立った。ホテルまでの道のりは驚くほど静かだった。

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