密輸ルートを企画せよ

 戸口から伸びる細長い廊下を抜けると、埃っぽい空気が鼻を突く。部屋は家具らしい家具もなく、壁一面に紙が貼りつけられている。思い思いのメモや図表が雑多に描かれ、何を示しているのか一見では分からない。その前に腰掛けているのが、ムハンマドという男だ。彼は私を見ると、すっと目を細めた。警戒か、それとも好奇心か、真意は計りかねる。


 静まり返った空気の中で、彼の低い声が響いた。

「上海から来たと言ったな。仕事は順調か?」

私は堂々と応じる。

「順調なら、こんな場所に来るわけがない。」

ムハンマドが苦笑を漏らす。薄暗い照明に照らされた頬には、砂ぼこりのようなものがこびりついていた。私の視線に気づいたのか、彼は灰皿を指先で軽く叩く。

「骨董屋をやっていたって?本物と偽物、どっちを扱ってた?」

こういう切り込み方をするのは、あらかじめ何かを調べている証拠だ。「……どっちもだよ。」

私が曖昧に言葉を濁すと、彼はゆるく首を振った。

「なるほどな。じゃあ市場の嗅覚はあるってことだ。俺にはそういう人間が必要でね。」

その台詞は誘惑にも聞こえるし、値踏みにも感じられる。埃臭い部屋に微妙な沈黙が落ちた。私は室内をぐるりと見渡す。机らしきものの上には、書きかけの書類、雑然と置かれた携帯端末。いずれもいわくありげだ。


 ムハンマドが煙草を口に運び、その青い煙が薄暗い天井へ溶けていく。

「お前、いま無職なんだろ? 腕はあるのに、使いどころがない。だったら、」

彼はそこまで言いかけて、言葉を切る。私も黙ったまま目を伏せる。危険な香りを発する誘いに、私の胸がざわついていた。


 上海から逃げ出すように来たのに、再び裏に踏み込むのか、その疑問が頭をもたげる。

「何を運ぶつもりだ?」

私が低く問いかけると、ムハンマドはニヤリと笑みを深めた。

「合法の品さ。大っぴらに売ってもいいものばかりだ。」

その『合法』という言葉ほど信用ならないものはない。だが、好奇心のほうが先に走る。私は喉の奥で笑いを嚥み込み、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。

「考えさせろ。」

答えを保留すると、ムハンマドは肩をすくめる。

「もちろん。逃げたっていいんだぜ。ただ、ここに来ちまった時点でお前も同類だ。——じゃあな。」

彼は最後に煙を吐き出すと、視線を外した。それが『解散』の合図なのだろう。私は立ち上がって扉の方へ向かう。ふと背後から感じる視線に、首筋の皮膚が粟立つ。


 部屋を出る直前、振り返ろうかと迷ったが、そのまま視線を前に向けたまま扉を引いた。乾いた錆の音が小さく軋む。階段を下りる足音だけが、私の鼓動よりも大きく響いていた。薄曇りの夕空がビルの隙間から覗いている。私は雑居ビルを出るなり、一度深呼吸をしてからタクシーを拾った。背後でまだムハンマドの視線が突き刺さるように感じたが、気のせいだろうか。


 車内で、私はスマートフォンを取り出す。先ほどの怪しい誘いに対しては、恐怖半分、興味半分というのが正直なところだ。だが、思い返すと胸が少し高鳴る。私は心の奥底で、この話に積極的に乗り気になっているのを自覚した。

「はい、到着です。二十二元になります。」

タクシーのドアを閉しめると同時に、私はビジネスホテルの一室へ足を踏み入れた。安い照明が、古ぼけた壁紙をうっすらと照らす。小さなデスクにノートパソコンを広げ、すぐさまVPN起動する。ネット検索履歴を見られるのはまずい。公安部網絡サイバー安全保衛局に嗅ぎつかれても困るからだ。


 画面に打ち込むキーワードは「中国 密輸 罰則」「ロシア経由 関税」「中東 金相場」など、なんとも危険な単語ばかりだ。あるいは上海での販売ルートとして「地下貴金属市場」「塩化金 検査方法」なども調べてみる。


 いくつかのブログやニュース記事に目を通すと、公安が定期的に組織的密輸を一網打尽にしている実例がいくつも見つかる。成功事例と失敗事例が、玉石混淆で転がっている。表向きは「適切な捜査の成果」として報道されているが、逆に言えば、『摘発されずにやり過ごした』密輸ケースも少なからず存在するはずだ。決して軽々しい道ではない。しかし、だからこそ面白い。大手を振って稼げない以上、こういう抜け道こそが私の得意分野かもしれない。


 ノートパソコンの横には、かつて骨董屋を営んでいた頃の資料が積まれている。当時から本物と偽物を問わず売りさばいてきた経験は少なくない。その時も、グレーゾーンを利用して巧みに利益を得たことがある。国家が線を引く「合法」「違法」の境界は、実際には曖昧だ。そこに商機があるのだ。


 ふと、思い出したようにメモ帳を開く。

・王水:金を溶解できる。塩化金生成に必要。

・塩化金:金属探知機を回避しやすい。

・農薬偽装:正規登録せず、偽装書類で対応?

・ドバイ:世界有数の金取引市場、規制緩め。


 一つひとつのキーワードを丸で囲んで矢印を引き、繋げていく。気づけばノートのページはすでに大半が埋まっていた。


 ドバイには金を専門に扱う業者が多数存在する。数年前にネットで読んだ記事には「現地の業者は大量の金地金を加工・売買している」と書かれていた。王水で溶かした塩化金を再還元できる施設があるなら、取引のハードルは下がるというわけだ。


 農業農村部農林水産省は頭の硬い連中だ。認可を得るまで非常に長い期間が必要で、かつ地方政府からの承認も必要だ。成分分析、安全性試験、書類提出にそれらの準備で、全工程合わせて四年程度掛かる。農薬の名目で、中国国内の業者から正規に輸出手続きを踏むためには、認可を受けた上で商品化する必要がある。ここまで来ては公安だけ欺けば済む問題ではなくなってしまう。どんな形であろうと、商品偽装は必須であるのだ。そして、偽装をするならば、それを元に戻す工程が必要だ。それが可能なコネクションがあるならば、それを活用しない手はない。


 なるほど、これは実現可能なビジネスだ――そう直感する自分がいる。少し休憩をとろうと、簡易ベッドに背中を預ける。天井の染みを眺めながら頭を巡らせると、公安の捜査網や関税法、政治的リスクのことも思い浮かぶ。一般の共産党員に、我々に、こうした行為が許されるのかという疑問がないでもない。だが、既にテナントも失っている今、正攻法だけで生き残れるほど甘くはない。むしろ、国家こそが抜け道だらけの構造を放置しているのだから、利用する側の責任ではないだろう、とすら、思う。


 部屋の空調の音が微かに振動し、スマホがバイブレートする。何の通知かと確認すると、旧友から「店は大丈夫なのか」というメッセージが届いていた。遅い、もう店はなくなったよ、と返信しそうになって手を止める。余計なことは言わないに越したことはない。


 私は薄く笑ってパソコンを閉じた。この無謀な計画に賭ける価値はありそうだ。好奇心が私の背を押している。明日の再会で、ムハンマドに何を提案するかはもう固まった。あとは、どこまでこの『企み』に踏み込むかだ。


 ひとまず散らかった資料とパソコンをテーブルにまとめ、最低限のセキュリティ対策をしてからホテルを後にする。朝まで時間は少しある。コンビニで買った缶ビールを片手に、薄暗い街を歩いていると、不思議と肩の力が抜けていた。私は今、追い詰められているのか、それとも、もう一花咲かせるために前向きに動いているのか。少なくとも、これからムハンマドとの話し合いで、私から仕掛ける準備はできている。誰に強いられたわけでもなく、そう自分自身が望んでいるのだ。微かに浮かぶ笑みを、誰に見せるでもなく噛みしめながら、私は静かな夜の街を歩き続けた。


 翌日の夕方、私は再びムハンマドのもとを訪れた。前回と同じ雑居ビルの一室。壁一面に貼られていた紙切れはそのままだが、彼の表情は少しだけ柔らかい。

「来るとは思わなかったが……案外、好奇心旺盛なんだな。」

ムハンマドが苦笑混じりに言う。


 テーブルの上には簡単な地図と、いくつかの書類が広げられていた。

「ロシア経由のルートが潰れたって、前に言ってたが?」

私が尋ねると、彼は書類の端をトントンと整えながらため息をつく。

「ああ。昔はモスクワ経由で欧州へ流してたけど、あちらさんの警戒が強まって、こっちは巻き添え食らった形だ。テロだなんだって大騒ぎしてるしな。今から同じ経路を掘り起こすのは、リスクが大きすぎる。」

地図には複数の線が描かれ、それぞれロシアや中央アジアを経由してヨーロッパへ伸びている。私が視線を滑らせていると、ムハンマドはペン先であるポイントを示した。


「ここ、満洲里マンジュリーって場所。ここで積み替えをするんだが、今は検査が厳しくてね。まともに通すと利幅がまるで無い。となると、別のルートを探すしかない。」

私はペンを受け取り、地図の隅に大きな丸を描く。

「欧州じゃなくて、ドバイはどうだ? あそこなら大口の金取引が日常茶飯事だし、規制も緩い。資産を『動かしたい』連中には理想的だろう。」

ムハンマドは興味深げに眉を上げる。

「確かに、アラブの富豪は金を買いたがる。ヨーロッパより手っ取り早いかもしれん。」

彼が灰皿にタバコの灰を落とす。私は意を決して、本題を切り出す。

「ただ、金属のまま運ぶのはリスキーだ。金の延べ棒をそのまま検査にかければ、一発で足がつく。そこで考えたんだが、加工するってのはどうだ。俺は塩化金がいいと思っている。」

ムハンマドが視線を上げる。

「塩化金……要は王水で溶かすってことか?」

「そう。金属探知機には引っかからないし、成分分析の手間もかけさせれば、あえて農薬や化学試薬として通すこともできる。手間とコストは増えるが、その分見返りも大きい。」

ムハンマドは腕を組み、しばし思案に耽った様子だ。

「農薬の申請手続きは面倒じゃないのか?」

「正式に登録しなくてもいい。必要なのは偽装の書類と成分表程度。実際の農業用微量ミネラル入り肥料としてやり過ごせば、検査は緩い。もちろん、検査官が怪しむ可能性はゼロじゃないが、他の品目を大量に扱うよりは安全だ。」


 部屋の片隅に置かれた古い換気扇が、軋むような音を立てる。ムハンマドはその音に小さく舌打ちしてから、私の提案をさらに深掘りする。

「となると、金を回収する工程はどうする。一度塩化金にしてしまったら、元に戻さなきゃ金の価値は引き出せないぞ。」

「ドバイには、おそらく加工設備がある。金の精錬所が多いし、必要なら協力者を探せばいい。あるいは外国で部分的に戻す手もあるが、そこはリスクとの兼ね合いだな。」

ムハンマドが軽く舌を打ちながら、スケッチブックを取り出す。地図に視線を落としていた私を促すように、紙を指で弾く。

「いいだろう。塩化金で運ぶ……か。こいつをうまく流せるなら、俺も金も手に入るし、お前も一発逆転を狙える。問題は、塩化金化する設備や協力者をどう確保するかだな。」


 私は黙って頷き、改めて地図を見下ろす。ロシアも欧州も厄介事が多い。ならばもっと、息苦しくない相手のいる市場を狙う方が現実的だ。そのためにも、上海で協力者を探し、資金を調達しなければ何も始まらない。立ち上がろうとしたところで、ムハンマドがポケットから細い煙草を取り出し、ひとつ私に差し出してきた。

「上海に戻ったら、ちゃんと連絡しろよ。抜け駆けされちゃ困るからな。」

青みを帯びた煙草を受け取り、私はひとまず軽く首を振る。

「これがうまくいけば、抜け駆けする理由もないさ。次に会うときは、もう少し具体的な算段を話そう。」

そう言い残して部屋を出る。


 頬を撫でる冷たい空気と、背後で閉まる扉の音が妙に重く響いた。頭の中では、塩化金の工程からドバイの取引相場まで、あらゆるプランが渦を巻いている。心臓が高鳴っているのは、恐怖か、それとも期待か。答えを知らないまま、私は雑居ビルの出口へと足を急いだ。


 沙遜大厦サッスーン・ハウスに代表される、租界時代の西洋建築は、上海の今を作る貴重な遺産であると同時に負の歴史だ。悪趣味なライトアップによって彩られ、外灘の夜は唸りをあげる。


 林鄭も驚いただろう。こんなに早くこの男が戻ってくるとは。

「ここの机、使っていいぞ。」

林鄭が投げやりな口調で言い捨てる。彼はまだ書類の束とにらめっこしているようだ。私は礼を言う代わりに、鞄から名刺の束を取り出し、机の上にぶちまけた。かつて骨董屋を営んでいた頃、あるいは人脈づくりのために奔走していた頃に入手したものだ。埃を払うと、白地に印刷された名前が次々と姿を現す。


 紙を瞥しては後ろに回す。価値のあるものとないものを選別し続ける。一枚二枚と傍に置く。残っていくのは成金の実業家反社会主義者優秀な証券トレーダー自由主義テロリスト上海市人民政府の人民代表汚職と腐敗の原因たちだ。


 中国人は、世界でも孤立した国家体制に反して、皮肉にも自由主義的である。上海に住む富裕層は、常に新たな投資先を探している。政府が彼らを締め付ければ、安全に資産を動かす方法を模索する者は増えていく。我々の顧客は、その中でも極端な人間たちだ。


 選別の結果出来上がったのは、「社会主義核心価値観」から逸れる、「国家の敵」の塊だった。公安に渡せば、人件費を大幅に削減できるだろう。私はこの凶悪な紙束から何枚か抜き出し、改めて視線を落とす。投資に興味を持ちそうな人物、資産を海外に逃がしたいと考えている可能性のある富裕層、それでいて、表立って銀行や証券会社に頼ることができない者たち。


「相変わらず、いかがわしい名刺ばかり持ってるな。」

林鄭が灰皿の脇にタバコを押し付ける。彼の口ぶりは呆れとも興味ともつかないが、私は気にせず一枚ずつ名刺を吟味する。


 ワン――貿易業で成り上がった派手好きな男。数年前、翡翠コレクションに大金を注ぎ込んだと聞いた。あの時も「不動産ばかりに投資してるのは退屈だ」とぼやいていたから、今も資産の逃がし先を探しているだろう。


 シュー――元銀行員で、現在は投資ファンドを切り盛りする男。公には“中国市場を信用できない”と言っている。そのくせ金融政策のおかげで資産を膨らませた新興富裕層たちを顧客に抱え、うまく回しているらしい。人脈と口の巧さは確かだ。


 フォン――元政府系企業の幹部、今は高級ワインの輸入販売を手掛ける。昔、私の古美術店でそれなりの買い物をしていったことがある。彼は表に出せない金を抱えていると、自嘲気味に笑っていた記憶がある。慎重だが、いったん仲間になれば信頼関係は揺るがないタイプだ。


 林鄭が机に肘をつき、私の様子を伺っている。

「で、その三人をどうするつもりだ?」

「投資の話を持ちかける。あるいは、資産の海外逃避を手伝う、と言えばいいか……とにかく、奴らには『共通の欲』があるはずだ。俺の新プロジェクトに呼び込むには充分だと思う。」

林鄭がニヤリと片唇を上げる。

「お前、最近やけに熱心だな。何を企んでる?」

私は名刺の束を軽く手で押さえ、林鄭の目を真正面から見据えた。

「裏も表も渡り歩いてきたお前にはわかるだろう。俺は資産運用について、ちょっと面白い手段を思いついただけさ。」

「へえ。お前、党員なのに随分と胆が据わってる。」

「党員だからこそ、人脈と抜け道の両方を活かせるんだ。」

自分でも、どこまで本気か分からない言葉がするりと出る。林鄭は軽く笑って、何も言わずタバコの火をつけ直した。


 再び名刺を見つめる。王、許、馮。それぞれに得手不得手がある。誰から声をかければ最初の突破口になるか。最初の打診で断られても、二人目三人目で仕掛けを変えればいい。ビジネスは、少数のイエスと多数のノーで成り立っているものだ。


 私はスーツの内ポケットに名刺を数枚仕舞い込む。ちょうどその時、スマホが振動した。確認すれば、ムハンマドからのメッセージだ。「いつ戻るんだ」という短い問い。意外とせっかちだな、とひとりごとを漏らす。


 深呼吸のあと、立ち上がる。窓の外では、ビルの谷間に虹色の看板が揺れている。上海の夜は、いつでも欲望と危険の匂いを漂わせている。私はこの街で新しいビジネスを始めるのだ。

「林鄭、しばらくここを使わせてもらうぞ。いろいろと忙しくなる。」


 彼は返事をしないまま、また別の書類へ視線を落とす。散らかったオフィスを見回し、私は名刺の束をしっかり掴んだ。これらの人物にどう声をかけ、どう引き込むか。思考が膨らんでいくほど、内部から奇妙な昂揚感が湧き上がる。


 でも、これはほんの手始めにすぎない。私が用意した構想には、もっと多くの協力者が必要になるだろう。首尾よく話をまとめられれば、いやが上にも計画は加速する。私はもう、後戻りする気などなかった。


 ドアノブを回し、部屋を出る。少しひんやりした空気が頬をなでると、ワクワクとした気配が胸の中で弾けた。王に先に連絡を入れるか。あるいは、もう少し情報を揃えてから動くか。その判断は歩きながら決めるとしよう。ネオンがまばゆい廊下を抜けて、私は夜の上海へ足早に溶け込んでいった。

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