懐かしの故郷

 昨晩の騒ぎの後、実家の空き部屋へ通された私は、長い運転による疲労から気付かぬうちに寝ていたようだ。白い日差しを受けた私は目を開き、天井を見る。天井の染み、もはや虫の入り込んで点かないであろう蛍光灯、黄ばんだ部屋の隅、その全てに懐かしさを覚える。窓から見えるコンクリートはひび割れていて、この一角がしばらく再開発の対象になっていないことを示している。昔と最も違うのは、二次元コードが街中にも見られることだ。快点儿起来!早く起きて!と大声でドアを祖母が開ける。このプライバシーのなさこそが延吉であり、私の街だ。大都市はプライバシーの観念が発達しつつある。日本ほどとは言わないが、個人の空間は守られねばならないという観念は少なくとも存在する。それがまだ行き届いていないことは、良いことでも悪いことでもあるかも知れないが、私にとってこの距離感が最も心地よい。

 上海では味わえなかった懐かしの香りに誘われて、昔と変わらない位置にある席へ着く。食卓に現れたのは、あの頃と変わらないカエル肉のスープと粟、そしてうるさくお節介な周りの人達の近況だ。

 祖母が思い出したかのように話し出す。「あ、そうそう、あの子覚えてる?昔仲良かった、三階のあの。」小さな時によく遊んでもらっていた近所の学姐姐さんだ。自分がとても小さいことは、本当の姉だと思っていた頃がある程度には親交が深かった。四歳は歳が上だったと思うが、はっきりとしたことは知らずに生きてきた。彼女も自分が十四になる頃にはすでに北京に出ていったことを覚えている。もはや、彼女の顔ははっきりとは思い出せない。「ああ、覚えてるよ。その娘がどうしたの。」そっけなく応える。「それが最近結婚したらしいのよ。」そう聞いて、少し落胆する自分がいた。「お相手は南鮮の実業家で、来月にはそっちに引っ越すんですって。」彼女は西側と東側の国際結婚になるらしい。よくもそんな良い人間を捕まえられたなと素直に感心するが、会話はあくまで軽く行う。「昔から美人だったし、そういうこともあるんじゃない。」ここまで口を開かなかった祖父も、突然何かが気になったかのように口を開いた。「そういえば今お前の年収はどれぐらいなんだ?」ここ中国では、収入に関する話は日常的なことだ。街中で会った女性に最初に聞かれることの一つでもある。「少し前まで五万元九百万円ぐらいだったよ、店をたたまされたからこれからしばらくは貯金でどうにかするけどね。」それを聞いた瞬間祖母は血相を変えて怒鳴った。「早く新しい仕事に着きなさい、最近流行りの寝そべり族になんてなっちゃだめよ!」「また店をやるつもりなんだからそこには口を出さないでくれよ。そういえば、叔母さんちの娘さんは今どうしてるのさ?」強引に話題を変えて様子を見る。「ああ、あの子なら今はカナダにいるらしいのよ。なんでも遺伝子で博士号までとっちゃったらしいのね、女の子なのにそんなのとったら貰い手がいなくなっちゃうじゃない。」素直に感心した。カナダに留学して博士号まで取り、研究者にまでなる胆力があると知ったら、途端に魅力的に見えた。「いいんじゃないの、あの子はむしろ自分が貰い手になる方でしょ、そうか、あの子は大学に残ったと聞いていたけど、留学して博士か、很厉害啊すごいな。」

 祖母との素早い掛け合いの中、祖父は終始笑顔でいた。まるで、この会話の様子を眺めて懐かしんでいるようだった。気がつけば、食器の中身がカエルの脚骨だけになっていた。祖母が気を使い追加で粟を盛ろうと席をたつが、私はそれを静止した。最近は政府もこの食べ物を残すことが敬意という習慣を規制しようと、食べものを浪費するなという趣旨の法律が制定されている。上海人は改革運動に敏感なのだ。

 食事を終わらせた私は席を立つ。散歩に行ってくると一言告げた私は、人民公園へ向けて足を進める。人民公園はこの街唯一の総合公園であり、植物園、総合公園、遊園地の機能を兼ね備えた、川沿いの風情ある広場である。子供の頃はここで遊ぼうとしても祖父母に止められたことを思い出す。いつの日か乗ってみたかった観覧車も、今では小さく感ぜられる。街を南北に分つ布爾哈通プルハトン河の支流の岸辺に腰掛ける。自分が成長し、自らの店を作るまでを過ごしたこの街も、私の成長に合わせて年老いていく。存在の知らない建物や、あったはずのもうなくなってしまった商店を見つけるたびに、自分の中で落胆してしまう。しかし空と、遠くでは子供が川に置かれた石を右へ左へと渡って遊んでいる様子だけは変わらない。自分も少しだけ童心へ帰り、靴を脱いで足をつけてみることにした。

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延吉ノスタルジア 聖有朱 @cbnsbb

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