延吉
Kubaani
上海から延吉へ
日々偽物と格闘しては神経をすり減らし、たとえそれが本物であっても売れるとも限らない現実に頭を悩ませる。
私が営んでいた宝石店は、中華第一の都市・上海の一角にあった。
党幹部には興味深い性質がある。彼らは、時に同じものを2つ購入し、その片割れを我々のような小さな古物商に格安で譲る。わざわざ
この歪つな仕組みは、物価が世界一高いこの街を支えている。こうして格安で売り払われた品々は、我々の手を通して人民の中へ流れ出す。
海の向こうの金髪の大統領は、この商慣習を破壊した。彼は自国の復興を掲げ、我が国に貿易戦争を挑んだ。それから1年と経たずして、党幹部どもは保身に走り、散財をしなくなり、市場が賑わうことも無くなった。たったひとりの掛け声で、我々の楽園は崩壊した。この街の少なくない古物商店が、その大小ある歴史に幕を下ろした。かくいう我が城も例に漏れない。帳簿に目をやると、よくて売上が八割減、ひどいときは0元を達成したことが記録してある。
ここからどう立て直すかを考えていると、見慣れた初老の男が尋ねてきた。小脇に抱えているのは数束のファイルだ。半透明の向こう側に、中途解約の文字が見える。噂だけは耳にしていた。この馬鹿は、彼の持つ不動産を売却するためにここにいる。
「君も小耳に挟んでいると思うが......」
男は立ち退きの話を切り出した。契約満了まではもう半年あると少々抵抗を試みるも、後ろに屈強な男が見える。これ以上抵抗しないことが、”賢い”共産党員としての振る舞いだろう。私は渋々店を畳むことに同意した。命令の中には、少々の違約金を受け取れる旨が記されている。それがあるだけまだ良心的というものだ。
翌々日、総量にして数十点もの在庫を自家用車へ詰め込んだ。エンジンに火をつけ、ハンドルを切る。次の仕事は何をしよう、車の中で相棒をふかしながら考える。マンションの入り口には、無愛想な警備員が安物のタバコを咥えて座っている。彼の注意は周りの人間ではなく手元の
自室の冷たい二重扉を開け、壁にもたれかかったモニターのスイッチをつける。ニュースは私の耳を右から左へと通り抜け、壁へと突き刺さる。しばらくチャンネルを適当に回していると、やがてムカつく顔をしているひつじのキャラクターがコミカルな動きをするアニメに辿り着く。懐かしさで肩から腰の力が抜け、重力が私をソファベッドへ押し付けた。
いくばくかの時間が過ぎた時、窓の外を走る車から鳴る日常の音色が私の頭を持ち上げた。夜景と
私の故郷は、中国東北部の辺境にして延辺朝鮮自治州の州都・延吉だ。ここから延吉までは、天津と瀋陽を経由する。かつて上海へ上った時は寝台車の台に寝そべり、そこから落ちて迷惑をかけたものだ。しかし今回の帰省では事情が違う。この大荷物である。きっと、
2日後、私は隠し財産を置いていたガレージを開けた。国産の高級車である
久しぶりだね、と階を上り切る前に、男は言葉を投げつけてきた。久々に見かけたよ。わざわざ君からくるとは、よっぽどのことなんだろう。男は灰皿に粉を落としながら、重い腰を上げた。
1時間の格闘の末、
だが、そのまま売るのも勿体無いということで、一点条件をつけさせてもらった。今度また上海に戻る際は、店舗用地を格安で探させる内容のものだ。この醜男は常に自分が儲けられるかしか考えないが、信用を裏切って得られる金が少ないことを知っている。だがそれでも彼は十分な儲けを得られると確信したのだろう。先ほどからウイスキーを浴びている。復路では、長い青年期を過ごした上海を想いながら、
彼に助言に従い、普段使いしていた愛車は知人のディーラーに安く譲渡し、家財は管理人に処分を任せた。管理していた老婆は間違いなく家具の幾らかを自分の手元に隠しておくだろう。品物の不良在庫達は知人の経営者に貸しつけ、売れた場合は利益の二割をロールバックさせることにした。これもまた破格の提案であるためか、その知人は快諾した。
上海
この街は近年、
少し前に民族語教育が廃止されて以来、4割弱を占める朝鮮族が、「マジョリティ」に対してむける目は厳しい。少し前には大規模な抵抗運動もあったが、その原動力は簡単に粉砕されてしまった。
紅い太陽は、いつだって笑顔で我々を見下す。玄関口である延吉空港はいつだってその笑顔を反射して輝くように整備されている。この土地を訪れる人々は、日照りで乾いた街に気を配ることはない。
事件を受けてか、街路樹には目立つようにカメラが括られるようになった。カメラの役割は人々を”見守る”ことだけではない。カメラを見た人民の心へ無機質を流し込むのだ。人民は、水を一口飲み込んでから、デジタル化が進むことは良いことだとかたる。
12月の雪の中、コートを着て寒さに備えて父母を待つ。この時期の自治州は氷点下20度になり、これに慣れていない人間が耐えられる寒さではない。私にはそれすらも懐かしい。腕時計の短針は5時を指す。予定の時間までは1時間、整備屋でタイヤを変えるにはちょうど良い時間だ。路面凍結による事故を恐れない者はこの街にはいないのだ。
上海から久々に帰ってきたこの街は、以前よりも賑わっているようにも見える。しかし交わされた会話を聞いてみると、そのほとんどは
ふと自らの身分証を手に取った。漢字の上にハングルが刻まれた、我々だけの特別な180万枚だ。南鮮資本の
タイヤを付け替えて駅前に戻ると、すでに両親が立って待っていた。車の窓を開け、手を振りながら声をかけるとすぐさま気づき、早足で近づいてくる。ちょっと遅いんじゃないのと口を荒げる母を、父は笑いながら宥める。いいから早く乗りなと私は後部座席に二人を乗せた。数分後の運転の最中も、祖母からの質問責めは止まらない。
この街には羊串焼きが美味しい店がいくつかある。そのうちのひとつは、親の住むマンションの1階だ。車を停めて引き戸を開けると、スパンコールのついた派手な服を着たおばさんが私を迎える。最初は粗雑な態度だったが、後ろに立つ2人をみて理解したのか、子供の頃の私を思い出したような懐かしむ顔に変わった。おばさんは
若い女の店員が、皿に盛られた鉄串を運んでくる。串には、今日市場で買って来たばかりであろう成羊の肉が刺されている。父はこれを、机に取り付けられた炭火の焼き台に並べた。十数年見ないうちに、備え付けの焼き台は勝手に串を転がしてくれる優れものに置き換わっていた。「でもこれに変わったのは一昨年のことよ」と店員が笑う。
机におかれた小皿には、クミンや唐辛子が混ぜ合わさった赤いスパイスが入っている。私には、これは懐かしの味だ。羊ならではの少しの獣臭さと脂の香りが混ざり合う。母はカバンから自前のキムチを取り出した。店長に確認を取ると、そのくらいかまわないと語気を強め、顔をしかめて手を仰ぐ。懐かしの味で、もはや匂いが取れなくなっていたキムチ専用樽が思い起こされる。独特の辛味と酸味は、記憶と今を結びつける。
いつの日か祖父の親戚を名乗った男から聞いた話を思い出す。父は漢族の家系であり、母は朝鮮族の家系だ。2人は北京大学で出会い、のちに結婚した。当時、朝鮮族は未だ「同じ民族同士で結婚すべき」という価値観が支配的であった中の2人の結婚は一大騒動となり、娯楽の乏しい田舎でよく話題に上がったらしい。父は3ヶ月間毎日のように母の家へ通いつめ、痺れを切らした母がその両親を怒鳴りつけ、「結婚を認めていただけなければ朝鮮族をやめます」と啖呵を切ったらしい。これを聞いた母方の祖父は激昂し、祖母は失神したが、最後には母の両親が折れ、晴れて結婚と相成ったとも。その後また一悶着あって一時は勘当騒ぎにもなったそうだが、私が生まれたことを理由に和解するなど、全く話題が絶えない。今では両家共に関係が良好だそうだ。
しかし父は私に隠し事をしている。私は父方の祖父母と会ったことがない。この中国の伝統において、私は母の「家」ではなく父の「家」に属するにもかかわらず、会ったことがないのは異常なことなのだ。会計を終えて、このことを尋ねると、父は私に、家族は今日本に住んでいると
改めて連絡が取れないかを確認するため時間が欲しいと父は困る。私はこれを了承し、しばらくはこの延吉にとどまることにした。
延吉 Kubaani @cbnsbb
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