延吉

Kubaani

上海から延吉へ

 日々偽物と格闘しては神経をすり減らし、たとえそれが本物であっても売れるとも限らない現実に頭を悩ませる。紅塔山高級タバコに火をつけ、20平米の部屋から外を眺めることが、ここ半年ほどの私の日課だった。


 私が営んでいた宝石店は、中華第一の都市・上海の一角にあった。豫園中華庭園の近くを通る老街旧市街にそびえ立つ摩天楼を間借りし、お金の余っていそうな老人、何かわからず入ってきた観光客、事情通、立退長者、そして党幹部を相手した。


 党幹部には興味深い性質がある。彼らは、時に同じものを2つ購入し、その片割れを我々のような小さな古物商に格安で売り渡す。わざわざ1万元20万円で購入した珍品を、1000元2万円で譲り渡すのだ。一見不合理なようだが、ここには彼らなりの知恵がある。なんでも、こうすると私腹を肥やしていると疑われた時に「いや、これは格安の代替品なんですよ。いやあ、困ったな」と言い張ることができるのだそうだ。この国には偸税脱税や税額詐取に訴求期間の制限が存在しない。そのため、裏金の行方をくらませてしまった方が、受け取るにしても都合が良いのだ。本当に、政治闘争を勝ち抜いてきた者たちの生存戦略と政治文化には尊敬を念を覚える。


 この歪つな仕組みは、物価が世界一高いこの街を支えている。こうして格安で売り払われた品々は、我々の手を通して人民の中へ流れ出す。拍売オークションで彼らが売り捌いた商品は富裕層やコレクターへと流れ着く。我々は、この偉大なる党からの賜物によって生きながらえていた。


 海の向こうの金髪の大統領は、この文化を破壊した。彼は自国の復興を掲げ、我が国に貿易戦争を挑んだ。それから1年と経たずして、党幹部どもは保身に走り、散財をしなくなり、市場が賑わうことも無くなった。たったひとりの掛け声で、この楽園は崩壊した。上海の街の古物商店の少なくない数の店舗が、その大小ある歴史に幕を下ろした。かくいう我が城も例に漏れない。帳簿に目をやると、よくて売上が八割減、ひどいときは0元を達成したことが記録してある。


 ここからどう立て直すかを考えていると、見慣れた初老の男が尋ねてきた。小脇に抱えているのは数枚のファイルだ。そのの向こう側に、中途解約の文字が見える。


 噂だけは耳にしていた。この馬鹿は、彼の持つ不動産を売却するためにここにいる。君も小耳に挟んでいると思うが...そう男は立ち退きの話を切り出した。契約満了まではもう2年あると少々抵抗を試みるも、後ろに屈強な男が見える。これ以上抵抗しないことが、”賢い”共産党員としての振る舞いだろう、私は渋々店を畳むことに同意した。少々の違約金のみを受け取れる旨が立ち退き命令を受ける紙に記されてあるだけ良心的というものだ。


 翌々日、総量にして数十点もの在庫を自家用車へ詰め込み、我が家へ逃げるように帰った。次の仕事は何をしよう、車の中で相棒をふかしながら考える。マンションの入り口には、無愛想な警備員が安物のタバコを吸いながら座っている。彼の注意は周りの人間ではなく手元の手机携帯電話に向けられている。私は、まだ残っている紅塔山を潰して愛車を降りる。金食い虫を横目にエレベーターに乗り込み、7階のボタンを押す。恐ろしい事実-すなわち、今手に持っている箱がもはや空であることであることに想いを馳せる。次からはグレードを下げざるを得ないな。


 格子のついた冷たい扉を開け、壁掛けの湾曲モニターのスイッチをつける。ニュース番組が流れてくるが、今の私にはこれを見る体力はない。しばし適当にチャンネルを回してしばらくする。やがてムカつく顔をしているひつじのキャラクターがコミカルな動きをするアニメに辿り着く。肩から腰の力が抜け、重力が私をソファベッドへ押し付けた。


 いくばくかの時間が過ぎた時、窓の外を走る車から鳴る日常の音色が私の頭を持ち上げた。夜景と文廟儒学者どもの「聖地」が窓の外に見える。果たしてこのままこの街に住み続けることでにどれほどの意味があるのだろうか。少しの蓄えもある中、このまちで更なる仕事を探す理由は、私には見つけられなかった。少し考えたのち、私は一度地元へ戻ることを決心した。


 曇りなき経済特区から引き上げた私は、中国東北部の辺境にして延辺朝鮮自治州の州都・延吉へ向かう。ここから延吉までは、天津と瀋陽を経由する。かつて上海へ上った時は寝台車に寝そべり、高台から落ちて迷惑をかけたものだ。しかし今回の帰省では事情が違い、この大荷物である。そのため、今回は違う手を取ることにした。


 資産を隠すためにも購入していた紅旗車高級車に乗り込んでエンジンをかける。30万人民幣600万円は-今では数年も前のモデルだが、車検をせずとも十分動くだろう-初航海を迎え、順調に夜の道路に繰り出した。


 上海の我が家は売却した。普段使いしていた愛車は知人のディーラーに安く譲渡し、代わり上海に戻る際は店舗用地を格安で探させる約束をした。あいつは常に自分が儲けられるかしか考えないむかつく男だが、信用を裏切って得られる金が少ないことを知っている。家財は管理人に処分を任せた。管理していた老婆は間違いなく家具の幾らかを自分の手元に隠しておくだろう。品物の不良在庫達は知人の経営者に貸しつけ、売れた場合は利益の二割をロールバックさせることにした。これもまた破格の提案であるためか、その知人は快諾した。その日は高級料理店のターンテーブルのある宴会席で食事をとって解散した。復路では、可楽コーラを流しこみながら長い青年期を過ごした上海を想った。

 

 車を走らせて11時間、天津の街を通る頃、広々とした渤海湾を右手に臨める場所で一度休憩を挟んだ。このまま走らせれば瀋陽にたどり着くが、24時間の連続運転は危険であることは言うまでもない。翌日、それから13時間、私の出生の地へとたどり着く。


 この街は近年、南朝鮮による多額の投資がなされている。この土地でしか見られないものはたくさんあるが、その中でも特にこの街を印象付けるものは何かと聞かれれば、それは間違いなく、漢字とハングルが混ざった街並みと看板である。これこそが延吉なのだと、ハングルが叫ぶ。最近の開発によってここはヨーロッパ式の建物が立ち並ぶ奇妙な光景に包まれ流ようになったが、この文字が混在した風景だけは変わらない。


 少し前に民族語教育が廃止されて以来、36の人々が残りの64に対してむける目は厳しい。少し前には大規模な抵抗運動もあったが、その原動力は簡単に粉砕されてしまった。この事件を受けて、街路樹にはカメラが括られるようになり、人々に無機質を流し込む形でデジタル化が進んだ。この街を見下す太陽は、いつだって笑顔なのだ。玄関口である延吉空港はいつだってその笑顔を反射して輝くように整備されている。この大地を照らす太陽の光を反射して空港から流れ出る無貌は、影に対して気を配ることはない。


 12月の雪の中、コートを着て寒さに備えて父母を待つ。この時期の自治州は氷点下20度になり、これに慣れていない人間が耐えられる寒さではない。私にはそれすらも懐かしい。腕時計の短針は5時を指す。予定の時間までは1時間、整備屋でタイヤを変えるにはちょうど良い時間だ。路面凍結による事故を恐れない者はこの街にはいないのだ。


 上海から久々に帰ってきたこの街は、以前よりも賑わっているようにも見える。しかし交わされた会話を聞いてみると、そのほとんどは普通話中国語だ。我々の言葉を話す人はあまりにも少ない。もう一つ、この街の経済発展を印象付けるものがある。それは南鮮韓国のトラックが増えたことだ。かつて南鮮のトラックが走り始めた時、私たちは彼らを歓迎した。それから数年で、私たちは彼らを歓迎しなくなった。いつか出稼ぎに向かった家族が苦しい顔で帰ってきたときのこと、いつか夢を詰めこんだ旅行をしたときに悪意の詰まった言葉を散々向けられ、共産党のスパイだと罵られたことを36・8%は忘れないはずだった。今やテレビには南鮮製の番組が映り、超市スーパーマーケットには南鮮製の食品が溢れ、デパートには南鮮製の衣類が売られている。


 ふと自らの身分証を手に取った。漢字の上にハングルが刻まれた、我々だけの特別な180万枚だ。南鮮資本の公司会社の事務所も増えたとぼやくと、初老の作業員の顔が歪む様子がバックミラーに映った。


 タイヤを付け替えて駅前に戻ると、すでに両親が立って待っていた。車の窓を開け、手を振りながら声をかけるとすぐさま気づき、早足で近づいてくる。ちょっと遅いんじゃないのと口を荒げる母を、父は笑いながら宥める。いいから早く乗りなと私は後部座席に二人を乗せた。数分後の運転の最中も、祖母からの質問責めは止まらない。


 この街には羊串焼きが美味しい店がいくつかある。そのうちのひとつは、親の住むマンションの1階だ。車を停めて引き戸を開けると、スパンコールのついた派手な服を着たおばさんが私を迎える。最初は粗雑な態度だったが、後ろに立つ2人をみて理解したのか、子供の頃の私を思い出したような懐かしむ顔に変わった。おばさんは哈爾浜啤酒ハルビンビールを一本タダにしてくれた。


 干杯乾杯、3者が各々のグラスをぶつける。グラスに注がれたラガービールが横に揺れる。父は昨年度から肝臓を労わるため、ぬるま湯を飲んでいる。母は一気にグラスを透明にして、2杯目に入っている。酒豪は長い時間をかけて上海での生活はどうだったか、彼女はできたかなどを根掘り葉掘り私に尋ねた。今のところ浮ついた話がないということを伝えると、母は落胆し、父は笑った。


 若い女の店員が、皿に盛られた鉄串を運んでくる。串には、今日市場で買って来たばかりであろう成羊の肉が刺されている。父はこれを、机に取り付けられた炭火の焼き台に並べた。十数年見ないうちに、備え付けの焼き台は勝手に串を転がしてくれる優れものに置き換わっていた。「でもこれに変わったのは一昨年のことよ」と店員が笑う。


 机におかれた小皿には、クミンや唐辛子が混ぜ合わさった赤いスパイスが入っている。私には、これは懐かしの味だ。羊ならではの少しの獣臭さと脂の香りが混ざり合う。母はカバンから自前のキムチを取り出した。店長に確認を取ると、そのくらいかまわないと語気を強め、顔をしかめて手を仰ぐ。懐かしの味で、もはや匂いが取れなくなっていたキムチ専用樽が思い起こされる。独特の辛味と酸味は、記憶と今を結びつける。

 

 いつの日か祖父の親戚を名乗った男から聞いた話を思い出す。父は漢族の家系であり、母は朝鮮族の家系だ。2人は北京大学で出会い、のちに結婚した。当時、朝鮮族は未だ「同じ民族同士で結婚すべき」という価値観が支配的であった中の2人の結婚は一大騒動となり、娯楽の乏しい田舎でよく話題に上がったらしい。父は3ヶ月間毎日のように母の家へ通いつめ、痺れを切らした母がその両親を怒鳴りつけ、「結婚を認めていただけなければ朝鮮族をやめます」と啖呵を切ったらしい。これを聞いた母方の祖父は激昂し、祖母は失神したが、最後には母の両親が折れ、晴れて結婚と相成ったとも。その後また一悶着あって一時は勘当騒ぎにもなったそうだが、私が生まれたことを理由に和解するなど、全く話題が絶えない。今では両家共に関係が良好だそうだ。


 しかし父は私に隠し事をしている。私は父方の祖父母と会ったことがない。この中国の伝統において、私は母の「家」ではなく父の「家」に属するにもかかわらず、会ったことがないのは異常なことなのだ。会計を終えて、このことを尋ねると、父は私に、家族は今日本に住んでいると告訴し打ち明け、同時に連絡がつかないのだとも言った。


 改めて連絡が取れないかを確認するため時間が欲しいと父は困る。私はこれを了承し、しばらくはこの延吉にとどまることにした。

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延吉 Kubaani @cbnsbb

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