夜を洗う洗濯機、唸り声、それから兎

.sei(セイ)

あるいは胡蝶の夢

平日の朝十時。天気は晴れ。最高気温は二十五度で最低気温は二十三度。風、微風。湿度低め。なかなかの洗濯日和である。今日は、しばらく雨続きで汚れた夜を洗う。

 夜を洗濯機に放り込んで、漂白剤と柔軟剤、液体洗剤を入れる。ピッとスイッチを押すと、安い縦型洗濯機がゴウンゴウンと体を揺らし始めた。バタンと蓋を閉める。


 その間に、部屋の掃除でもしてみる。とは言え、物の少ないワンルームだ。軽く掃除機をかけて、ウエットタイプのシートで雑巾掛けをしてしまえば事足りてしまう。冷蔵庫からコーヒーを取り出して、ベッドを背もたれにして座る。この部屋にテレビはない。目の前にはローテーブルに乗った画面の暗いタブレット。静かな午前中は、なんとなく、静かなままで過ごしたくて動画を流す気にはなれなかった。

 しばらくSNSを徘徊。座っていた姿勢が辛くなってきて、床にうつ伏せで肘をつく。その姿勢にも疲れてきて、SNS にも飽きてしまって完全にうつ伏せになる。重ねた手に頬を乗せると、洗濯機の音が遠くに聞こえる。ゴウン、ゴウン。ゴウン、ゴウン。まるで巨大な生物の唸り声だ。


ゴウン、ゴウン。

ゴウン、ゴウン。


•••••••

 僕は、森の中を走っていた。頬や手の甲が突き出した枝で切り裂かれていく。血が滲む。

口はカラカラに乾いている。

心臓の拍動が喉にまで迫り上がっている。

僕は背後を気にして時折振り返る。

時折、転びそうになりながら、僕は必死になって何かから逃げていた。全身の筋肉が悲鳴を上げている。


 ハアハアと耳には自分の呼吸ばかりがうるさい。苦しい。このまま逃げるのをやめてしまおうか。こんなに苦しいなら、いっそ、いっそ。


 「逃げるべきだ」という天使と「止まってしまえ」という悪魔が交互に入れ替わる。「逃げ続けるべきだ」という悪魔と「止まってしまえ」という天使。


にげてとまれにげてとまれにげてとまれ


 呼吸と拍動と天使と悪魔がホワイトアウトした瞬間、体の前半分が叩きつけられた。


 倒木に足を掛けて転んだようだ。肘も膝も血まみれ。この様子じゃ顎もだ。幸い骨は折れてないらしい。でも、もはや立ち上がる気力は残っていない。息をするたびに体中が軋む。ああ、もうだめだ。もう、逃げられない。


何から?


 呼吸が落ち着いてきた。遠くで何かが唸っている。虎か何かだ。きっと僕は「これ」から逃げていたんだ。うう、こわい。こわい。死にたくない。


うう、うう、ウウ。


 何か手立てはないか。僕は自分を落ち着かせようと、口元を手で拭う。それから、肩口で顎を擦る。舌で唇を舐めた。血の味。僕の、血の味。僕はまだいきている。戦おう。それがいい。


僕は再び立ち上がって、空に向かって吠えた。


•••••••

 甲高い電子音で目が覚めた。洗濯が終わったらしい。床で寝ていたせいで両手は痺れているし首も痛い。寝違えたかな、と恐る恐る起き上がる。両手をついて、上半身をゆっくり持ち上げる。体の中かからミシミシと音がする。腰を持ち上げて立ち上がる。


 洗濯機を開けると、湿った夜がくしゃくしゃになっていた。腰を屈めて引き摺り出す。少し解して洗濯カゴに放り込む。

 ベランダに出て、夜を広げた。シワを伸ばして、ピンチで止める。


朝の風に、広げた夜が波のように揺れている。




——最新のニュースをお伝えします。今日、昇った月の兎が何者かによって食い荒らされるという事件が発生しました。


 物騒な事件もあったもんだ、とまるで他人事のように思いながら僕はタブレットから流れるニュースを聞きながら、早速洗い立ての夜を広げる。昨日よりも星が一層輝いているようだ。足りないものは月の兎だけ。ぐぐっと背伸びをする。兎のいない月を見上げて、僕は舌で唇を舐めた。

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