縁日で猫は

多田いづみ

縁日で猫は

 参道にはたくさんの夜店が出ていた。

 神社は大きく育ちすぎた立ち木のせいで、ふだんは昼間でもひっそりとして暗い。にぎやかな町のなかにあって、ここだけ何かで隔てられたように静かだった。それが今夜は、境内のいたるところに提灯が吊られて、びっしりと参道に並んだ夜店にも煌々と明かりが灯っている。

 呼び込みの口上や子供のはしゃぎ声、発電機の音などで、活気があるというより騒々しかった。いつもは広く感じられる参道も、すれ違うのがきゅうくつなほど混んでいる。


 この縁日のにぎわいを見ながらわたしはふと、このあたりでよく見かける野良猫のことを思い出していた。尾の曲がった黒い猫だった。神社で飼われているのかとも思ったが、参拝者になれなれしく近寄ってはこなかった。わたしの姿を見ると、いつもあわてて物かげに隠れたり、見えないところへ逃げていったりした。今頃は拝殿はいでんかどこかの軒下で、この騒ぎがおさまるのをじっと待っているのかもしれなかった。


 わたしは屋台をひとつひとつ眺めながらゆっくりと歩いた。べつに腹は空いていなかったが、わらび餅を買って食べた。きな粉と黒蜜の香ばしい甘さが、夏の日のプールの帰り道を思い起こさせた。

 縁日の出し物のなかでも、わたしのお気に入りは金魚すくいだった。といっても、すくい網を持って金魚を追いまわしたいわけではない。それよりも、大きなたらいのなかを赤い金魚の群れが涼しげに泳ぐのを見るのが好きだった。


 参道を行きかう人びとは、思いのほか浴衣姿が多かった。花柄の浴衣にあざやかな淡紅色の帯を締めた少女が、父親に手を引かれてやってくるのが見えた。手にはりんご飴を持って、ときたまそれを舐めて、下駄をカラカラ鳴らしながらわたしとすれ違った。


 そうしているうちに参道の終わりまで行きついて、引き返そうとしたときのことだった。

 参道からずっと離れた拝殿のわきに、小さな屋台が出ているのが目に入った。その屋台は間口が半間もない小さなもので、かたつむりのような不思議なかたちの印が染め抜かれた暖簾のれんをかかげて、暗闇のなかにぽつんと佇んでいた。


 暖簾の奥には男が座っている。うつむき加減でよく見えなかったが、男は易者かなにかのようだった。しかし、そうした出し物が神社の夜店に出ているというのも妙な気がした。屋台にはろうそくが一本灯っているだけで、今にも百物語がはじまりそうな妖しい雰囲気が漂っていた。

 屋台の上には何も載っておらず、男の商売は依然わからなかった。やはり占いかなにかだろうと近寄ってみると、

「今日はもう終いだよ」

 と、うつむいたまま男が言った。


 男は、痩せて疲れた感じの老人だったが、こうした商売には定年などないのだろう。白髪まじりの、しかし年齢のわりには豊かな頭髪をうしろになでつけ、縁なしの眼鏡をかけて、鯉口の襟元は大きくはだけていた。そこからあばら骨がくっきりと浮き出て見える。こんな暗いところで本でも読んでいるのか書き物でもしているのか、老人はずっと下を向いたままだった。


「あ、そうですか。今夜はまたずいぶんと売れたんですね」

 わたしがそう言葉を返すと、かんたんには追い払えないと思ったのか、それともわたしの言い草に皮肉でも感じたのか、はじめて顔を上げて眠たそうな目をこちらに向けた。

「なに、本当のところを言うと今日は早めに切りあげたんだ。人を待ってるんでね」

 老人はそう言うと、照れ隠しのようにニヤリとした。


 わたしは見ず知らずの相手と会話を楽しむようなたちではない。それをこうしてしつこく食い下がったのは、どうにも気になるものを目にしたからだ。

 小さな生き物が二匹、老人の頭のまわりに浮かんでいる。それは鳥ではなく虫でもなかった。その姿形は魚のようになめらかな流線形で、うろこは虹色に輝いていた。どういうわけだか羽根もないのに悠然と宙を泳いでいる。二匹とも、さきほどすれ違った少女の帯に似た、長くて華やかな尾びれを持っていた。その尾びれが、ゆったりとした動きに合わせてふわりと宙に舞った。


「店じまいのところお邪魔してすみませんが、ちょっと気になったんです。そこに浮かんでるでしょう、ほら魚みたいな。それって何なのかなと思って――」

 と、わたしは老人の頭の上に浮かぶ不思議な生き物を指さした。

「ん? ああ、これか。あーこいつはつまりあれだ。……にいさんはこれ何だと思う?」

 老人は、言われてはじめて気づいたというようにそれを目に留めて、なぜかわたしに問いかけてきた。

「いや、わたしに訊かれてもわかりませんけど――見たところ魚のようですが。でも魚は空を泳がないから、何か仕掛けがあるんでしょう」

「そうかなあ。空を泳ぐ魚だっているんじゃないかなあ。だってトビウオなんかは空を飛ぶし、空から魚が降ってきたなんて話も聞いたことがある」

 老人は子供っぽい口調でからかうように言って、ニヤニヤした。


「そんなものがいたら、それこそ大発見でしょうけど……ああ! わかりましたよ。それがあなたの商売なんですね?」

 わたしは、老人のことを手品のタネを売る香具師やしだと思った。縁日の出し物には、たまにこうした手品道具や手品のタネを売る店が出る。店じまいだなんだともったいぶって興味を持たせるのが、この老人のやり方なのだ。

「さあ、どうだろうな」

 老人は肯定とも否定とも取れるような表情で、ほくそ笑んでいる。そして、頭をポリポリとかきながら老人は言った。

「どうだい、にいさん。あんたこいつにずいぶん興味があるようだし、あたしもしばらく人待ちの身だ。暇つぶしにひとつ賭けをしようじゃないか? こいつのタネを見破ったら、ただで一匹わけてやってもいい」


 じつを言うと、今夜はめずらしく金魚の二三匹でもすくってやろうという気になっていたのに、金魚すくいの出店がなくてがっかりしていたところだったのだ。新種の生き物なのか玩具おもちゃなのか何なのかわからないが、こんなものがわたしの部屋のなかを泳いでいたら素敵だろうと思った。

「それはいいですけど、もしわからなかったら?」

「そんときはもちろん何もなしだ。べつに命とろうってんじゃねえから心配しなさんな」

 それならわたしに損はなかったので、やらない理由はなかった。


 わたしはあらためてその魚のような? 奇妙な生き物をじっくりと見た。屋台の屋根から糸でつられているのではないかと考えたが、何も見えなかった。魚と屋根の間に手を差し入れて左右に振ってみたが、何も引っかからなかった。

 わたしの知らない最新技術を使った投影機かなんかで、立体映像を映しているんじゃないかとも思ったが、そうした仕掛けはどこにも見つからなかった。そもそも、屋台を調べていたときにうっかり魚に触れてしまったのだ。かすかだったが間違いなく触れた感覚があったし、驚いてぴゅうと逃げたその動きにも、はっきりと実感があった。

 そしてまた、玩具のたぐいと考えるにはあまりに精巧すぎた。体のわりに大きな目は、細かくギョロギョロとよく動いた。宙を泳ぐ姿があまりに自然なので、もしかしたら自分は水槽のなかにいるのではないかと錯覚するほどだった。

 わたしは腕を組んで考えたが、何も思い浮かばなかった。


「どうした、にいさん。もう降参かい。じゃあ、そろそろタネ明かしとするか――といっても、じつはタネなんかありゃしないんだ、ははは。最初からこいつはこういう生き物なのさ。おや? やっと待ち人が来たようだ」

 老人はそう言うと、わたしの肩口の先にある参道の方を見遣みやった。

 その視線につられるようにわたしはうしろを振り返って、その待ち人とやらを確かめようとしたが、そこには誰の姿もなかった。そして妙な気配を背中に感じてあわてて振り向き直すと、老人と屋台は煙のごとくに消えていた。目を離したほんのわずかの間に、闇に溶けたようにいなくなってしまったのだ。ろうそくが消えたときに漂うパラフィンのつんとくる匂いがかすかに残っていたけれど、それだけだった。


 わたしはしばらく呆然と立ちつくして、何が起こったのか理解できないままふらふらと参道に戻った。誰かにこのことを無性に話したかったけれど、にぎやかな参道まで来てみると、すべてが夢だったように思えてその気が失せた。


 それからずっと悶々とした日々を送ったが、後になって、あのとき何が起こったのかようやくわかったような気がした。

 老人は腕のいい手品師だった。それは結局タネがわからなかったあの魚の仕掛けからも明らかだ。手品には視線誘導という技術テクニックがあると聞いた。人の注意を別の場所に向けているうちにタネを仕込む手品の手法のひとつだ。あの老人は、待ち人が来たと言ってうしろに注意をうながして、わたしが振り向いているその隙にタネを仕込んだのだろう。あの屋台は見た目よりもずっと軽かったに違いない。それに加えて、一瞬でパタンと畳める組み立て式だったのかもしれない。そしてわたしがうしろを向いている間に、急いで屋台を担いで拝殿の裏か、大きな立ち木のかげに隠れたのだ。神社の奥には明かりもなかったから、闇に紛れてしまえば姿は見えない。そうしてあっけに取られるわたしを暗闇から眺めていたのだろう。


 どうして老人がそんなことをしたのかはわからない。新作の出し物の実験台にされたのか、あるいは単純にからかわれたのか。老人は自分の安寧を邪魔するしつこい客を追い払うために、ひと芝居打った。ただそれだけのことだったのだ。


 それでもわたしには割り切れない気持ちが残った。神社を根城ねじろにしていた黒い野良猫のことだ。その後何度も神社を訪れたけれど、あの猫の姿を見ることは二度となかった。

 くだんの出来事とはまったく関係ないかもしれないし、あったとしても何がどう繋がるのかわからなかったが、ぼんやりした疑念が魚の小骨のように、ずっと心に引っかかったままだった。

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