第3話
メアは部屋の中央に設置されている、植物の蔓を模した装飾に象られた金属製のテーブルの上に籠を置いた。その横に、いつの間に準備したのだろう、バルクがケトルとコーヒーの入ったマグカップを並べる。二人はテーブルを挟んで向かい合った椅子にそれぞれ腰かける。
「俺も朝食はまだなんだ。一緒に食べながら話そう」そう言ってバルクはパンを手に取るとバターを塗って口に放り込んだ。
「あの…いいって言ってくれたけど、やっぱり宿代は渡したい」
メアは財布を片手にバルクにおずおずと進言した。バルクはメアの顔をふと見つめるがふっと笑って、要らないよ、と静止した。
「ありがとう…」申し訳なさそうにお礼を言い、メアも籠の中からパンを取り出して千切って口に運ぶ。ハードパンのはずだがその口当たりは柔らかく、「美味しい」とパンを千切る手が止まらなくなった。
「ここは大聖堂の管轄内だから、修道士たちが毎朝焼くパンをお裾分けしてもらえるんだ」
「そういう、制度があるのね」
「おかげで助かっているよ。…さて、起き抜けで申し訳ないが、早速本題を話していこう。きみが納得できるように、話をしていきたい」
「ありがとう。いろいろ、聞きたいことはあって。まず、あなたのせいではないと思うけれど、私の推薦状が無効になったこと。それから、どうしてクロードと名乗れないのか。あと……この八年間のことについて」
バルクはメアの顔を見据えていた。その表情には一遍の翳りもない。
「カバルは大都市であるがゆえに、悪魔がヒトを搾取する事例が後を絶たない。だから上層部が地方からの出稼ぎ労働を制限する通達を出した。だけどそれがザルフに直ちに到達していたのかは、分からない」
「それって…」メアの胃の腑を冷たい感覚が走る。
「推薦状は、それはきみがキツネからどんな扱いをされてでも勝ち取ったものだよ。キツネはメアの意識を汲み、規定に沿って推薦状を渡した。…メア。事実をこうして話すことは果たして正しいことなのか、俺は後悔しないとは決して言い切れない。それでも話すことは、今は正しいと思う。」
バルクの口調は淡々と、だが一つ一つを噛みしめるような重さがあった。
「そして俺は、子供のころからずっときみを助けたいと思っていた。だから八年間、あえてザルフから離れていた」
陽の光が、バルクの顔の傷を照らす。秋の空は穏やかに静かに晴れ渡っていた。
メアはテーブルの一点を見つめる。
心臓の鼓動が、胸を破りそうなくらいにうるさい。
誰に、どこに、この思いをぶつければ良いのだろう。
八年もの間自分を搾取し続けたキツネに?
それとも無効の通達を取り決めたカバルの上層部に?
あるいは、独りよがりな思いでザルフを後にしたバルクに?
今のメアには、湧き上がる衝動を抑えることで精いっぱいだった。震える手でカップを掴みコーヒーを一気に飲み干す。冷えたカフェインの苦みが喉を突き抜けていく。
「…時間が戻ってはこないことは、頭では分かっている。子供だったからどうしようもできないことも。私があの環境から抜け出せなかったことと同じように。でも、話を聞きながらあなたのことを独りよがりだと思ってしまったことは言っておくね」力なく笑いながらメアはバルクを見つめた。
「いいさ。いくらでも言ってほしい」バルクの瞳は力強かった。
「バルク」
「うん」
「クロードと、名乗れないのって」
「…ヒトの子供は無力だ。あのころの俺は、キツネを潰すなんてことできなかった。――ヒトだったから」
メアは思わず口元を手で覆った。見慣れぬ傷が増えたのも、瞳の色がどこか翳りを帯びていたことも、そしてそのことは、自らを縛り付けていたあの男と同じ――
「悪魔に」
「…そうするしか、方法がなかったんだ」
バルクの声色は静かだった。
大都市に上京したその日に無職を告げられました。 長月 冬 @ELLY0901
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