第4話 希望の原理「白い紙」に導かれて

物語は去年の二月から始めなければならない。私は人生の危機に瀕していた。健康と人生への根拠なしの不安は恐怖にまで移行していた。それなのに私にはもう引くに引けない目標があった。これ以上無駄な人生時間をすごしてはいけない。大学に入りフランス語を習得するために受験勉強に打ち込まなくてはならない。私はすでにファスティングを始めていた。次は生涯にわたる断酒をするしかない。私は体験者の情報を集め出していた。彼らの多くは自分の人生への反省、自己批判を綴っていた。そして私も経験することになる、自分の半生を否定する地獄巡りを。そして神なき原罪との戦いを。


私はかつてキリスト教の信仰を––––イエスを本当に信じているかもわからない曖昧な信仰を––––もったことがある。教会に真面目に通い、聖書を読み、苦しい現実から逃れようと 洗礼まで受けた。しかし私には救済も精神の平安も訪れなかった。牧師先生や、教会の私 に優しくしてくれた親子ほど歳が離れた女性たちには申し訳ない気持ちと裏切りの葛藤に塗れて、私は教会に通う事をやめた。キリストへの信仰に私が求めたものは、人生を穏や かに生きる事ではなく––––私は他の信者とは求めるものが違った––––自分の意思と力で生 きていくための励ましだった––––自分の正当な欲望を肯定してくれる何かだった。ましてや罪の許し––––そう、病魔から立ち直るために通らざるをえなかった原罪––––自分の過去の全ての罪––––と戦って勝利する事などではなかった。それこそが––––この大いなる自己批判こそ、信仰生活がもたらす最も偉大な可能性であるのに!


十三歳の時だ。私は自分のその後の生き方を決定する––––最終的に分裂症をも打ち払う偉 大な思想に触れてしまったのだ。それ以来、私の三度にわたる大学受験への決意も、一時は音楽の道を志すのも、フランスへの留学を夢みるのも、このジョン・ロックの真の救済の思想「白い紙」に導かれてゆえのことだった。私は中学二年生でネグレクトの発達障害だった。落ちこぼればかり集めた学習塾が私のその後の人生を決定するとは思ってもみなかった。


確かに私はその思想の洗礼を受けた。その自助努力と向上心が全ての人生の問題を解決すると信じて疑わない塾教師は、ロックの名も「白い紙」という思想の言葉も、もちろん13 歳でしかない私の前では口にしなかったが。しかし近代ヨーロッパに現れた、真の理想主義者、そして現在の世界のリベラリストの源流––––私の大先輩だ!––––、人権思想の原石である自然権を生み出し––––貧しい百姓にも自分と自分の家族が生きていく権利(!)くらいはある––––と看破したジョン・ロックに私は再び出会うことになる。日本に於ける最高の政治思想研究家副島隆彦の著書の中に私はその名を、救済の言葉「白い紙」を見出すのだった。


ジョン・ロックから、私の13歳の時の塾教師、副島隆彦に受け継がれ、そして分裂症との戦いの生還者である私にまで流れている「白い紙」を精神科医であるお二人に伝えよう。

先天的な脳の機能は変えようがないから薬を飲み続けなければならないなどと言っていてはいけない。美谷川先生、特に若いあなたにはもっと大いなる可能性を与えよう。私を研究しなさい。それは美谷川先生––––患者の苦しみからの解放を精神医学に求めていかつ ての苦学生であった––––あなたにもう一度希望と情熱が蘇るでしょう。それだけではない。大人になったあなた自身の精神と脳をも後天的に鍛えるでしょう。いつの間にかこれだけの言語能力を身につけた私がその生きた証拠です。


13歳の私に人生の恩師が語りかけた言葉、そして副島隆彦の言説から習い自分の中で培われた希望の原理「白い紙」を分裂症を克服した私自らの言葉で語るとしよう。


私の今まで の人生だけではなく多くの人の人生は苦しい。大きなことなど何も成し遂げられない。成功者などほんの一握りだけだ。私はずっと彼らに憧れてきた。音楽家に、文学者に、歴史上の偉人たちに。何が違うのだろう。私とは違う種類の人間なのだろうか。誰でも人生で生活の苦労の合間合間にそう思うだろう。

だが私は偉大な思想の洗礼を受けた人間だった。どのような苦しみの時––––二十歳に精神病院の入院の最も困難な時でもそんなことは露ほどにも考えなかった。ただの一度も!私だけでなく、全ての生きる存在、生きていくこと運命づけられた人間––––精神障害者まで含めて––––全ての人間にとって希望の原理である、ジョン・ロックによって示された理想主義「白い紙」は私にそのようなことは許さなかった。


ロックは語り始める。人間は生まれついた時はまっさらな一枚の紙だ。そこには何も書かれていない。全ての人が同じ一枚の紙として生まれる。美しい色彩も呪いの言葉も書かれてはいない。私たち、白い紙は生きる。一人一人違った人生を。それぞれの幸福と宿痾にまみれながら。ある時多くの人は気づくだろう。自分が美しい紙ではないことを。人間の能力は決して平等ではないことに。自分の人生は取り返しがつかないと思うだろう。希望の原理を知らなければ!

だから私は今こそ語る。人間に素晴らしい教育を与えよ。素晴らしい言葉で、啓蒙の言葉を。美しい芸術を与えよ。美に感動することを教えよ。芸術に涙することを教えよ。人間的愛情を与えよ。優しくされる経験を、そして他人に慈愛を持って接する態度を教えよ。何より自分に打ち勝つこと、絶え間ない自助努力を、常に耐え忍ぶ忍耐を、いかなる危機においても諦めることを知らない精神を見につけさせよ。生涯にわたってより素晴らしいものを求め続ける意志を、人間にとって何が素晴らしいかを考えさせよ。私の言葉はとめどなく溢れる。正当な欲望は、倫理に適った飢えは止まることを知らない。それはより良い人生に向かって前進する原動力になる。私は紙は書き換えられることを知っていた。いつか苦しみの時が終わることを信じてた。そしてそれはついに起こったのだ。私は孤独のうちに勝った。今では私を中傷した人々をはるか下に見下ろすことができる。私には精神医学も薬も必要ではなくなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤星病院conspiracy @manacuba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ