22nd

「意外と手続きが面倒でしたね」

「いろんなワンちゃんが集まる場所だからね。病気のこととかもあるし、デリケートなのは仕方ないよ」


私は持っていたカシュのリードを松木さんに手渡して、代わりに一日限定入場券というものを受け取り、ドッグランの入場ゲートをくぐった。




 三連休の真ん中である日曜日。私と松木さんは約束通りカシュを連れてドッグランへやってきた。


 松木さんはわざわざペットの乗車が可能なレンタカーを借りて、私の最寄り駅まで迎えに来てくれた。助手席に座って後ろを見ると、後部座席に固定されたキャリーの中でカシュは伸びをしていた。そんな状態で神奈川にあるという例のドッグランを目指して出発したのだが、私たちと同じように三連休を利用して外出しようと考えた人が大勢いたらしく、東京から出るまでにかなりの時間を要してしまい、一時間半ほどで到着する予定だったにも関わらず、結局二時間半もかかってしまった。


 自然に囲まれた中にあるそのドッグラン。いざ到着したはいいものの、今度はドッグランに入場するために必要な様々な手続きが待ち構えていた。初回利用ということで会員証を作り、カシュが狂犬病の予防接種を受けた証明書を提示して、同伴者である私が入場するための入場券を貰い、二人分の入場料を払う。それも、同伴者は一人までしか許されないとか。犬が自由に走り回れる公園くらいのイメージを抱いていたから、あまり気軽に立ち寄れるような場所ではないことに驚いた。松木さんの言う通り、ワンちゃんたちが安全に楽しめるための決まりなのだから、仕方がない。


 敷地の中にはいくつもエリアがあって、それぞれに特徴があるらしい。ワンちゃんの大きさに合わせてドッグランエリアがいくつかに分かれていて、さらに屋根がかかったエリアや遊具があるエリアに、ドッグプールまである。それぞれが公園として成立するほど大きくて、ドッグランに来たのは初めてで相場がわからないが、「関東最大」という謳い文句は間違いではなさそうだ。


 私たちはカシュを連れて小型犬用のエリアに向かった。中には十組に満たない程度のお客さんがいて、それぞれが連れて来たワンちゃんが縦横無尽に走り回っていた。


「すごいね」

「まさにドッグランっていう感じですね」


そんな会話を交わしつつ、松木さんはカシュの首輪からリードを外して「ほら、行っておいで」と優しく声をかけた。初めての環境に戸惑っているように見えたカシュも、他のワンちゃんたちを見て次第に状況を理解したようで、すぐに自由に走り始めた。


 一匹でぐるぐる走り回ったり、他のワンちゃんの後ろをついて回ったり。見ている私たちが「疲れないのかな」と心配になるほど、カシュはノンストップでひたすら走り続けた。


 一方の私は、ほとんど動いていないにも関わらず、あっという間に疲れてしまった。帽子を被っているとはいえ、雲一つないほど晴れた空の下で日影が全くない場所にずっといるというのは厳しいものがある。


 松木さんも、このまま日焼けをすると自分がかけている眼鏡の痕が残ってしまうのではないかと心配していた。


「そういえば、最近はよくメガネを掛けていますよね。伊達眼鏡ですか?」

「ううん、本物。いつもはコンタクトを着けてたんだけど、ちょっとストックを切らしちゃって」

「外すと見えないですか?」

「うーん......この距離で、早川さんの顔がぼんやり見えるくらいかな。カシュがどこにいるのかはわからない」

「じゃあ掛けておかないとですね。日焼けが気になるなら、屋根がある所に移動しましょうか?正直、私も日射しが暑くて」

「そうしようか」


こうしてカシュより先に限界を迎えてしまった私たちは、呼んでもなかなか戻ってこないカシュをなんとかつかまえて、屋根があるエリアまで移動した。


 その後も遊具があるエリアで遊ばせたり、ドッグプールに連れて行ったりした。ずっと大はしゃぎだったカシュだけど、ドッグプールを前にした途端に大人しくなり、前足を少し水につける程度で、中に入ろうとはしなかった。


「カシュ、水が苦手なんですかね」

「言われてみれば、お風呂に入れたときも結構暴れてたかも」

「犬は泳ぎが得意なイメージがありますけどね」

「無理して泳ぐこともないんじゃないかな。ここでずぶ濡れになっちゃうと、後々私たちが大変だろうし。カシュは飼い主想いなんだよ」

「楽観的ですね」


結局私たちは自分たちが過ごしやすいという理由で、再び屋根付きのエリアに戻ってしばらくカシュを遊ばせた。プールから離れたことで復活したカシュはまた物凄い勢いで走り始めたが、徐々にその勢いが弱まっていき、気がつけば松木さんの足元で座り込んでしまった。


「さすがに疲れたみたいですね」

「こんなに走り回ったのは初めてだもんね」


カシュが走らないのにずっと中にいるのは迷惑だろうと判断した私たちは屋根付きエリアを出て、入場ゲートの近くにあったカフェで昼食を食べることにした。


 カシュも一緒に入店できるこのカフェには、メニューの中に「ワンちゃん向けおやつ」という項目があった。私たちはサンドイッチとアイスコーヒー、カシュのための水とビスケットを注文した。


「残念。お酒は置いてないみたいね」

「こんな昼間から飲みませんよ」


私は一体どれだけの大酒呑みだと思われているのか。でも確かにこの暑い中で飲むビールは格別だろうな、なんて考えてしまっている自分が恥ずかしい。


「カシュと一緒に外出するのなんて定期健診とかの時くらいだけだったから、新鮮で楽しい。まさかカシュと一緒にカフェにいるなんて」

「本当にカシュが好きですね」

「あれ?やきもち?」

「なんでそうなるんですか」


お酒を飲んでいなくてもこの調子なのかと思ったところで、いつもお酒を飲んでいるのは私だけだったということに気づく。


すぐにまたアルコールのことを考えてしまう自分が情けない。松木さんに揶揄われるのも当然だ。


 届いたサンドイッチは想像以上にしっかりとしたもので美味しかった。カシュがビスケットを食べている様子を逐一確認していた松木さんが、私の倍ほどの時間をかけて食べていたのがなんだか可笑しかった。


 ひと息ついた私たちはもう一度ドッグランに戻ることも考えたが、カシュが眠たそうにしていることに気づいて、今日はもう帰りましょうということになった。


 カシュはやはりかなり眠かったようで、駐車場に戻って車に乗せると、出発する前にすぐ眠り始めてしまった。そんなカシュを見た松木さんは「いつかの早川さんみたい」と笑っていた。まあ、あの時の私もタクシーに乗った途端に眠ってしまったからな。松木さんの言う通り、確かに今のカシュといい勝負だったと思う。


「良いところだったね」


駐車場から出発したところで、松木さんがそう言った。


「想像以上に広かったですね」

「家の近くにあったら最高なんだけどな」

「都内だとこの規模のドッグランは難しいかもしれませんね。それに、こういう自然の中にあるのがいいんじゃないですか」

「そうだよね。自然に囲まれた場所にカシュと一緒にこれてよかったよ」

「本当、はしゃぎっ放しでしたね」


後部座席のカシュを見ると、車に揺られながらキャリーの中ですっかり熟睡していた。その顔を見ていると私まで眠くなってくる。


 午後三時近くになって少しずつ太陽が傾き、車のフロントガラスから程よく陽が射しこんでくる。外に立っているときはこの太陽の光が暑くてしかないのに、ガラスを一枚隔てるだけでそれは「暖かい」ものに変わり、カシュから貰った眠気が大きくなるのを助長する。


「......ね」


私が微睡みに突入しかけているのを見計らったかのように、松木さんが私に声をかけてきた。上手く聞き取れなかったその声で眠気から引っ張り出された私は、「すみません。なんですか?」と訊き返した。


「また来たいね」


松木さんは陽射しが眩しかったのか、運転席のサンバイザーを降ろしながらそう言った。


「そうですね」

「車が無いと来られないから、頻繁には難しいけど。次はいつ来られるかなぁ」

「また連休のときがいいですかね?」

「次の連休は......お盆かな」

「ですね」

「......早川さんは実家に帰ったりするの?」


 意外にも、松木さんの方からこの話題が切り出された。


 以前、真月佑奈に関することを聞き出せないかと悪だくみをした私が松木さんの家族について訊ねたとき、その話題に対して松木さんは明らかに心を閉ざしていて、話したくないという雰囲気が溢れていた。それが、こんなタイミングで松木さんの方から家族について触れてくるなんて。もう余計な詮索はしないと決めたからこそ、この話題に関しては慎重にならなければいけない。


「そうですね。一日くらいは顔を出そうかなと思ってます」

「そっか。無理して予定を空けたりしなくていいからね」

「はい。ありがとうございます」

「......」

「......」


車内に沈黙が流れる。


 無理に沈黙を破る必要もないかもしれない。だけどこのまま黙っているというのも、何か事情を知っていると疑われないかと心配になる。それは、実際にを知ってしまっている私が悪い。


 自然に振る舞わなきゃ。

 

 そう思うほど「自然体」がわからなくなり混乱していく、いつものパターンだ。とにかく、余計は発言はしないように気を付ける。


「松木さんはどうするんですか?」

「どうするって?」

「実家に帰ったりはしないんですか?」

「ああ、うん......帰らないと思う。もう何年も帰ってないし」

「そうですか」

「......」

「......」


再び流れる沈黙。


やっぱり、無理に広げる話題ではなかったかもしれない。


少し後悔しつつ、私が次の話題を探そうとしていたとき。



「私、父親が亡くなってるの」



 雑誌に掲載されていたインタビューで、真月佑奈も「父親は亡くなった」と語っていた。


 松木さんの口から、真月佑奈が語っていた内容と同じ経歴が語られている。


 冷静な振る舞いを続けながらも心の中では動揺していた私に、松木さんは父親についての話を聞かせてくれた。


「私が大学二年生のときに癌が見つかって。それから治療を続けて、少し良くなった時期もあったんだけど、それから二年くらいで亡くなったの」

「そうだったんですか......」

「私、もともと家族と上手くいってなくて。大学に入った辺りから少しずつ疎遠になっていたんだけど、そんな中で父親が亡くなってしまって。その頃から実家にも全然帰ってないの。実家には母親が一人きりだし、私がしっかりしなきゃいけないのは分かってるんだけど......どうしても気が向かなくて。初めのうちは母親からも帰って来なさいっていう連絡があったんだけど、最近はそれもなくなって。ここ二年くらいは、ほとんど連絡なし。もう母親も、私に帰る気がないって分かって諦めたんじゃないかな」


最後にはそう言って笑った松木さんだったけど、その笑顔が無理やり作られたものであることは私にも明らかだった。


「早川さんのご家族は元気?」


私が会話をどう繋いで行けばいいのか分からず困惑していると、松木さんの方から助け舟が出されてしまった。


「......元気です」

「そっか」


そのやり取りと同時に、赤信号で車が停止する。松木さんはハンドルに両手を置いてまっすぐ前を見つめたまま、こう呟いた。


「家族は大切にしてね」


真剣な表情の松木さんに、私は「はい」と答えることしかできなかった。


 初めて松木さんが自ら、自分と家族の関係性について話してくれた。その事実は、松木さんが私に以前よりも心を開いてくれているという何よりの証拠だ。その一方で、家族についての話をしていても一切名前が上がらない双子の妹である真月佑奈との間には、私には想像できない程の大きな溝があったのだということを痛感した。


 いつか松木さんが、自ら妹のことを話してくれる日がくるかもしれないと思っていた。いつか妹の事を話してくれて、私も真月佑奈のことを知っていると明かした上で、松木さんとの友人関係を続けていけるのではないかと思っていたが、それが甘い考えだったということを思い知らされてしまった。


 信号機の向こうに、道が真っすぐ伸びている。その光景をフロントガラス越しに見ながら私は、真月佑奈という存在を知りつつ、それを隠したまま、松木さんとの関係を築き始めてしまったことを後悔していた。


 引き返せない所まで来てしまったな。


 そんな私の心境を知る由もない松木さんは、青に変わった信号を見てアクセルを踏んだ。

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