21st
梅雨が明けた途端に東京は蒸し暑さを増して、仕事で頻繁に外回りをする私にとっては辛い環境となり始めていた。照りつける太陽の日射しを浴びながら昼間の東京を歩いていると、嫌でも夏が到来していることを実感させられる。クーラーが効いた会社で黙々と事務仕事をしていた去年までの自分が恨めしい。去年の今頃、外回りから帰ってきたばかりの汗だくの状態で私のところへ書類を持ってきた社員さんを少し気持ち悪いと思ってしまったことを、一年越しに申し訳ないと思っている。
松木さんの前で醜態をさらしてしまったあの日から、毎週金曜日の夜は松木さんと食事へ行くことが恒例となった。毎週のように二人で居酒屋へ行き、松木さんが一週間の間に溜め込んだ会社への不満を聞く。お酒を一滴も飲んでいないのに「もう働きたくない」と嘆き始める松木さんを、酔った私が「大丈夫ですよ。頑張れますよ」と励ます。そんなことを毎週繰り返しているうちに、松木さんの愚痴を聞いていると一週間の終わりを実感するようになってしまった。
ちなみに、あの日の「払う払わない問答」を経てからは、食事の会計は二人交互に払うようになった。松木さんはまだ若干納得していないようだったけど、特に何も言われることはなくなった。
そしてもう一つ。あの日の約束通り、松木さんは私に「好き」とは言わなくなった。一方で、ふとした瞬間に無言でじっと見つめてくるようになったり、ボディータッチをされることが増えたような気がする。居酒屋を出てから駅まで歩いているといきなり腕を組んできたり、帰りの電車の中で私の肩に頭を乗せてきたり。最初のうちは、初めて松木さんの家へ行った日のことを思い出して体が強張ったりもした。
しかし”慣れ”とは怖いもので、いつの間にか松木さんのそんな行動に対して特に何も思わなくなってしまった。一応毎回のように注意はしているけど、松木さんは一向に行動を控えようとしないので、もう私も半ば諦めてしまっているような状態だ。そんな松木さんの行動を私が「受け入れた」と勘違いされることを避けるために、これからも形だけの注意はしていくつもりだけど。
そんな金曜日以外にも、相変わらず松木さんからは大量にカシュの写真が送られてきている。そして最近は写真だけではなく動画も送られてくるようになった。
松木さんは最近になってようやくカシュのしつけを始めたらしく、「おすわり」や「お手」などを教える様子を収めた動画が頻繁に送られてくる。おすわりは案外早く覚えてくれたらしいけど、お手には苦労している様子。ただ、動画を観ている限りでは、なかなかお手を覚えてくれないカシュさえも松木さんは可愛がっていて、言うことを聞いてくれないカシュを松木さんが抱きしめるところで毎回動画が終わっている。
毎日のように送られてくるカシュの写真のおかげで私も日々の疲れを癒すことができていたのだが、次第にある欲が出てきてしまった。
カシュに会いたいな。
私が直接カシュに会ったのはゴールデンウィークに松木さんと遊びに行ったついでに家に寄らせてもらったあの日が最後で、それ以来はスマホの中のカシュしか見ていない。もちろん写真や動画でも十分に可愛いのだが、実際に会って私に駆け寄ってきてくれるカシュの魅力には叶わない。
明日は金曜日。例によって松木さんと食事に行く約束をしている。私はそこで、ある提案をしてみようと思い立った。
金曜日の夜。今日はいつもの居酒屋を通り過ぎて少し歩いた所に見つけたイタリアンバルに来ている。バルと名乗ってはいるが、簡単に言ってしまえばイタリア料理が多い居酒屋という雰囲気。最近はレモンサワーとハイボールばかり飲んでいなかったから久しぶりにワインなんかもいいかもしれないと、乾杯のビールをすぐに飲み干してから赤ワインのボトルを注文した。今日は私が払う日だし、好きなだけ飲んでしまおう。
「大丈夫?また倒れないでよ?」
ピザから皿に滑り落ちてしまったチーズを一生懸命フォークで生地の上に戻していた松木さんが、運ばれてきたボトルワインを見てそんな言葉を投げかけてきた。
「大丈夫です。もう酔った状態で走ったりしませんから。もしまた松木さんに声をかけてくるような奴がいたら、言葉巧みに撃退してやりますよ」
「それは頼もしい」
ようやくチーズをピザに戻すことができた松木さんは、嬉しそうにそれを頬張った。私もその様子を見ながらワインを一口飲む。渋みが少なくて私好みのワインだ。以前松木さんに高級なお店に連れていってもらった時に飲んだワインは、正直なところ味がよくわからなかった。緊張していたというのもあって、なんだか渋みが強くて味にも癖があるなという印象しか残っていない。ご馳走になった立場で申し訳ないが、あまり美味しいとは思えなかった。考えてみれば、ワインを飲むのはあの時以来だ。やはり私には、値段的にも手頃で味わいもシンプルなこれくらいのワインがちょうどいい。
お酒が飲めない松木さんはいつも基本的にソフトドリンクを飲んでいるのだけど、この店の雰囲気につられたのか、今日はノンアルコールのカクテル、通称「モクテル」なるものを注文して飲んでいる。トロピカルピーチというピンク色のそれを嬉しそうに飲んでいる松木さんが、大人に憧れて背伸びをしている女の子のように見えて可愛らしい。
注文した料理はどれも美味しくて、松木さんと「この店は当たりだ」と頷き合った。松木さんは生ハムとモッツァレラチーズの盛り合わせが特に気に入ったらしく、ほとんどを一人で食べきってしまった上に、追加で同じものをもう一皿注文していた。
しばらく料理とドリンクを楽しんでいるうち、やはり会話はいつも通り松木さんによる会社への愚痴タイムに突入した。何杯目かのモクテルを片手に「もう働きたくない」と嘆き始める松木さんを、ボトルの半分ほどワインを飲んだ私が「大丈夫ですよ。頑張れますよ」と励ます。店が変わっても、結局はいつも通りの展開だ。
それなりに時間が経過して、もうそろそろお開きかなという雰囲気が漂い始めた。ここで私はようやく、忘れかけていた本題に入ることにした。
「松木さん。ちょっとお話があるんですけど」
「うん。どうしたの?」
「来週、三連休があるじゃないですか」
「ああ、そうだね。海の日だっけ」
「はい。それでですね......」
「なになに?」
「......カシュに会いたいです」
真っすぐ松木さんの眼を見てお願いした。
松木さんは数秒の沈黙の後、「ああ、カシュね」と言って苦笑いを浮かべた。それから少し俯いて、頭をポリポリと掻きながら「カシュね。うん。カシュ......」と繰り返した。私としては、「もちろん!カシュも会いたがってると思うよー」なんて快くOKしてくれると思っていだのだけど。想像とは違う反応に困惑してしまう。
「都合悪いですか?」
「あ、いや......大丈夫だよ」
そうは言ってくれるけど、どこか浮かない表情なのは私にも明らかだ。何か松木さんの機嫌を損ねることを言ってしまったのだろうか。何か私が良くないことを言ってしまったのなら教えてほしいのに、松木さんは「何曜日がいい?」なんて訊いてくる。
「あの、何か予定があるなら無理しないでください」
「大丈夫だって。何も予定はないよ」
「でも、なんか......私、変なこと言っちゃいました?」
「ううん、何も」
「気になるので、何か言いたい事があるなら言ってください」
「え、でも......」
「『でも』ということは、何かあるんですよね?」
「うっ......」
「大丈夫ですよ。言ってください」
松木さんは、頭を掻いたことで毛羽立った髪の毛を手ぐしで整えながら、観念したようにボソボソと喋りはじめた。
「三連休のことを訊かれて、てっきりお出かけに誘ってくれるのかと思って。そうしたら、カシュに会いたいって言われたから......ああ、カシュか。みたいな......」
「......はい?」
私は松木さんが言っていることがイマイチ理解できず、思わず聞き返した。すると松木さんは恥ずかしそうに、髪の毛先を指でくるくるとしながらさらに言葉を付け加えた。
「その......私じゃないんだっていう」
「私じゃない?」
「私に会いたいと思ってくれたのかなと思っちゃったの」
私が松木さんではなくて「カシュに会いたい」と言ったことが気がかりだということ?それは、つまり......
「嫉妬ですか?」
小さく頷く松木さん。
「......カシュに嫉妬するのは流石にどうかと思います」
「だ、だって!いつも私から誘うばっかりで、早川さんから誘ってくれたことなんて今まで一回も無かったんだもん!そんな早川さんが三連休のことを訊いてくれたから嬉しかったの!」
松木さんの中で何かが吹っ切れたのか、今度は大きな声で勢いよく訴えてきた。
「私からとか松木さんからとか、そんなに大事ですか?」
「大事だよ!私ばっかり会いたがってるみたいじゃない」
「そんなことないですよ。私だって会いたいと思ってますよ」
そう言い切ったところで、自分たちが大声で繰り広げている会話が急に恥ずかしくなってきた。
なんだか、これではまるで......そう聞こえるじゃないか。
そう意識した途端、一気に顔に熱が上昇してしまう。
松木さんは松木さんで顔を赤らめて口元が緩んでいるし。
モクテルで酔うわけはないから、そうさせているのは私の言葉なのだろう。不本意ながら、松木さんを喜ばせてしまったらしい。
「もう一回言って?」
「嫌です」
「お願い。一回だけでいいから」
「絶対に言いません」
「言ってくれないと、カシュに会わせないよ」
「それは卑怯です!」
自らの不用意な発言のせいで、あっという間に形成逆転となってしまった。
「残念だなぁ。カシュも早川さんに会いたがってると思うよ?」
「カシュをだしに使って私に言わせたって意味無いじゃないですか」
「さっきはカシュ関係なく言ってくれたんだから、言葉自体が本心だったのは分かってるもん」
「じゃあ言わなくていいじゃないですか!」
「だめ。聞きたいの。ほら、どうする?」
いつもそうだ。
結局いつも、松木さんのペースに飲み込まれてしまう。
たった一言を言うだけ。
それを、私は何故ここまで頑なに拒んでいるんだ?
そういう感情は松木さんからの一方通行で、私の中には一切ない感情だ。
変に意識する必要はないじゃないか。
......いつもこうだ。
結局いつも、こうやって私が折れてしまうんだ。
「......松木さんに会いたいと思ってます」
ああ、言ってしまった。
「顔、赤いよ?」
「ワインのせいです」
「お酒には強いんじゃないの?」
「松木さんと一緒にいると酔いやすいんです」
「どういうこと?」
「知りません!もういいでしょ?言いましたよ。これでカシュと会わせてくれますか」
「もちろん。たっぷり遊ばせてあげる」
悪戯っ子のようなその笑顔を見ていると、どうしてこの人と毎週のように一緒にいるんだろうと疑問が湧いてくる。カシュが可愛いから......ということにしておこう。
しばらく満足そうに笑っていたその悪戯っ子は突然、「そうだ」と言ってスマホを取り出して何かを調べ始めた。今の私は、松木さんの一挙手一投足に何かたくらみがあるのではないかと疑うようになっている
「......なんですか?」
「ちょっと待ってね。えーっと......そう、ここ!」
そう言って松木さんが見せてきたスマホの画面に書かれている文字。
「ドッグラン......ですか」
「そう。いつか行ってみたいと思ってたんだ。外で思いきり走り回れることなんてなかなか無いでしょ?前に調べたときにここが気になって。関東で一番大きいドッグランなんだって」
「へぇ......」
「一緒に行かない?」
ドッグランで、元気よく外を走り回るカシュ。
......見たい。
「行きます」
「本当?やったー!休みの日に早川さんとお出かけできるの久しぶりだから嬉しいな」
「目的はカシュのドッグランですからね」
「ええ?私に会いたいんじゃないの?」
「もう言いませんからね」
こうして私と松木さん、そしてカシュによる初めての外出が決定したのだった。
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