20th

 かれこれ二時間以上が経過して、私はちょうど心地いい具合に酔っていた。松木さんと一緒にいるときにお酒を飲んでいると、いつもより酔いやすいと感じるのは気のせいだろうか。


 お酒を飲まない松木さんも満足したようで、「そろそろ行こうか」と言って、当然のようにテーブル脇にぶらさがっていた伝票を手に取った。


「あ、ちょっと待ってください」


慌てて松木さんを制止した。今日の私は、密かにある決意をしていたのだ。


「今日は、私が出します」


松木さんの予想外の発言で少しペースを乱されてしまったが、ここは譲る訳にはいかない。


「いつも出してもらってばかりなので。今日は私に払わせてください」


そう言って松木さんの手から伝票を抜き取る。


「私が年上なんだから、私が払うのが当然でしょ。ほら、貸して」


私の手から、伝票は再び松木さんの元へ。


「ダメです。私が払います。いつもお世話になりっぱなしは嫌なんです」

「私が払いたいんだからいいの」


そのまま「払う払わない問答」がしばらく続いた結果、私が妥協案として提案した「二人で割り勘」という選択に、松木さんは渋々うなずいてくれた。まさか松木さんがここまで私に奢られることに渋るとは思っていなかった。お酒を一滴も飲んでいないのに私と同じテンションで張り合ってくるなんて。


 今どき現金なんて使わないよ、などとブツブツ小言を言いながら財布から合計額の半分を出して渡してくれた松木さんには先に店を出てもらい、私が会計を済ませる。会計をしてくれた店員の若い女の子を見て、私は大学時代に香織が居酒屋でバイトをしていたことを思い出した。香織から聞かされるバイト先への愚痴が特に多かったその時期が、私に人の愚痴を聞く耐性がついた大きな要因となっているのは間違いない。


 考えてみれば、香織と松木さんの愚痴を話している調子が似ているような気がしてくる。もしかしたら二人を会わせてみたら、意外と気が合ったりするのかもしれない。香織が真月佑奈の顔を覚えている可能性があるから、実際に会わせることはしないと思うけど。


 そんなことを考えながら店を出た私は、そこに立っている松木さんが陥っている状況を見て、口から出かけていた「お待たせしました」という言葉を飲み込んでしまった。


 一人の男性が、松木さんに声をかけていた。


 暗がりの中でも、松木さんが困惑しているのがはっきりとわかった。


 まさか。


 慌てて松木さんの元に駆けつけて、「どうしたんですか?」と訊ねた。「えっと......」と説明してくれようとしたところで、その男性が「あれ?お友達?」と言って割って入ってきた。金髪の頭を刈り上げて、あごひげを生やし、革ジャンを着ている男。私がこれまで関わることを避けてきた部類のファッションのその男に思わず体がこわばる。


「二人なら丁度いいっすね。俺もこれから友達と飲みに行くんですけど、一緒にどう?」


その男はタメ口と敬語が混ざった気持ち悪い日本語でそう言って、ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべながら私と松木さんを交互に見た。その瞬間、ようやく私はこの状況を理解した。


ああ、なんだ。これが俗に言う「ナンパ」というやつか。


私が予想していた展開と違って、なんだか少し拍子抜けした気分だ。


 店を出た瞬間にこの光景を目にした私が慌てた理由。


 私はてっきり、松木さんの顔がバレたのではないかと思ったから。つまりこの男が、真月佑奈を知っているのではないかという不安が頭を過ぎったのだ。少し前に、このような状況が起こったらどうしようかと悩んでいたところだったから、早とちりしてしまったようだ。


 しかし、これはこれで厄介な状況だ。事実、松木さんが困惑しているのには変わりない。


「だ、大丈夫です!私たちはもう十分飲みましたから」

「ええ?まだまだ飲み足りないんじゃないの?遠慮しなくていいよ、俺が奢るし」


一体、何を根拠に私たちが飲み足りないと判断しているんだ。


「本当に結構なので」

「じゃあ、そっちのお姉さんは?まだイケるっしょ?」


そう言って再びターゲットを松木さんに移したナンパ男。だけどその前に一瞬、私を睨んだように見えた。なるほど。俺が声をかけたのはお前じゃねえよってことですか。


 大丈夫です、と断り続ける松木さんにしつこく絡む男。


 っていうか、ナンパってどうやって断るの?みんな、こんなにしつこいものなの?ナンパされたことがないから相場がわからない。わかりたくもないけど。


 今の私が考えつく手段は、あれしかない。


「......走りますよ」

「え?あっ」


私は松木さんにそう告げて、その場から一目散に走り出した。


「おい、ちょっと!」


背後から聞こえた男の叫び声を無視して、駅を目指してまっすぐ走る。


小雨が降る中を、駅前を歩く酔っ払いたちの間を縫うように走り、一気に駅の改札前まで辿り着いた。息を切らしながら後ろを振り向くと、私たちを不思議そうに見つめる人たちの視線はあったが、あのナンパ男はさすがに追いかけてこなかったようだ。


「逃げきれましたね」

「あ、あの......早川さん?」

「はい?」


呼吸を整えながら隣を見ると、松木さんはナンパされていたとき以上に困惑した様子で、何も言わずに私に向けた視線をチラチラと下に落としている。


「なんですか?」


松木さんに倣って下を見た私は、松木さんが困惑している理由がすぐにわかった。


私の右手が、松木さんの左手をがっちり握っていたのだ。


走り出した際、無意識に松木さんの手をつかんでいたらしい。


「あっ、すみません」


慌てて手を離すと、松木さんは「いや、私はいいんだけど......うん。そっか......」などとブツブツ言っていた。松木さんがそんな状態になっている理由について考える余裕なんて今の私にはなくて、私まで「そうですよね。あ、いや、すみません。私が......すみません」なんて文章にならない言葉を羅列することしかできなくなってしまった。


 微妙な空気感のまま、改札の前で立ち尽くす二人。動揺している中でも、私たちが他の人の邪魔になっていることだけはわかる。


 邪魔になっているので、早く行きましょうか。


 そう言おうと松木さんを見たけど、なかなか言葉が出てこない。早く避けなきゃ迷惑になる。それが分かっているのに口が開けなくて、ただ松木さんの顔から眼を逸らせないまま、時間だけが過ぎていく。


 じっと私に見つめられる形になって気恥ずかしそうにしていた松木さんも、次第に不思議そうな表情を浮かべ始めた。


 徐々に目に見える風景がぼやけ始めて、さらに松木さんの顔に焦点が合っていく。


 やっぱり綺麗な眼だ。


 これだけは、どうしても認めざるを得ない。


 真月佑奈と松木さんの違いを探したりしていたけど。


 この眼だけは二人ともに共通している。


 じっと見ていると吸い込まれそうになる眼。


 松木さんの顔が......


 だんだん近づいてくる......


 これは......





「あっ、起きた!大丈夫?」


気がつくと、松木さんに顔を覗き込まれていた。背中にひんやりとした感覚があって、なんだか据わりが悪い。


 そのまま松木さんの顔を見ているうちに、自分が仰向けになっていることは理解できた。


 ゆっくり体を起こしたが、いまいち状況が分からない。私がいつの間にか駅のベンチで寝かされていたということと、激しく頭痛がするということだけは辛うじて理解できた。


「あの、私......」

「早川さん、急に何も喋らなくなったと思ったら、いきなり私の方に倒れこんできて。びっくりして見たら顔色が悪くて苦しそうだったから、慌てて近くのベンチまで運んだの」

「そうだったんですか......」

「お酒を飲んだ状態で走ったのがよくなかったんだね」

「そうだと思います。すみません......」


 ベンチから降りて立ち上がると、地面が傾いているような感覚がある。まだふらついている私を見かねてか、松木さんがタクシーで帰ろうと提案してくれた。


「ねえ、どうしてあんなに焦ってたの?」


ロータリーに向かって、私のペースに合わせてゆっくり歩いてくれている松木さんが、そんな事を訊いてきた。


「私があの人に声をかけられたとき。もう少し話せば諦めてくれたと思うんだけど。いきなり焦った早川さんが間に入って来たと思ったら、『走りますよ』なんて言って私を引っぱって。そこまで焦る理由でもあったの?」

「ああ、えっと......」


真月佑奈のファンに見つかったと勘違いしました。なんて言えるはずがない。


「......助けなきゃと思ったんです」

「どうして?」

「それは......困っている松木さんを見たら、咄嗟に助けなきゃと......」


決して嘘ではない。むしろ、走っている最中は、あのナンパ男から松木さんを助けなきゃいけない、という思いでいっぱいだった。自分でも知らないうちに松木さんの手を取ってしまうくらいには一心不乱だった。


 そんな説明を聞いた松木さんは、急に私の腕をぐっと抱き寄せてこう言った。


「そういうところが好き」


 落ち着き始めていた頭痛が一瞬にしてぶり返すほどの衝撃が体全体を駆け巡った。


「そ、それはなしだって言ったでしょ!」

「ごめん。もう言わないから」

「本当にわかってます?」

「わかってるよ。ごめんね」


「ごめんね」と言っているけど、松木さんの顔は見るからに楽しそうだ。


......反省してないな。


まだ注意を続けようとしていたところで、ロータリーに停まっていたタクシーに私はいつの間にか松木さんが見つけたタクシーに押し込まれてしまった。柔らかいシートに腰を下ろした瞬間、松木さんに言おうとしていた抗議の言葉が全て吹き飛ぶほどの疲れが押し寄せてきた。襲ってくる急激な眠気に逆らう気力もなく、そのまま瞼を閉じてしまった。


 家の最寄り駅に到着したところで松木さんに起こされた私は、結局タクシー代を松木さんに払わせてしまったのだった。

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