17th
松木さんから頂いてしまった黒い部屋着に身を包んだ私は、ベッドに入ってからリモコンで部屋の電気を消した。この部屋着を頂いた経緯が経緯なだけに普段使いするのは気が引けたのだが、一度これを身に着けて眠ったあの日に覚えた寝心地の良さが忘れられず、結局のところ毎晩これを着て眠っている。つい先日、興味本位でこの部屋着の値段をこっそり調べてみたところ、上下セットで二万円を超える高級な代物だったので驚いた。今まで私が寝るときに着ていた服なんて、上下で二千円にも満たない、洗濯をすればするほどヨレヨレになっていくスウェットだったのに。一気に十倍の値段がする部屋着に変えたのだから、これだけ寝心地が良いのも当然だ。
ゴールデンウィークが明けて二週間が過ぎて、ようやく仕事がある毎日の生活リズムを少し取り戻した。まあ、明日が終わればまた土日休みが待っているのだけど。だからと言って、「せっかくリズムを取り戻したので土日も仕事をさせてください」なんて全く思わない。土日に対するありがたみも取り戻したと言うべきか。
一緒に出かけたあの日から松木さんとは会っていない。
別に松木さんを避けているわけではなく、単純に会う機会がなかっただけのことだ。現に、私のスマホには毎日のように松木さんからカシュの写真が送られてきているし、その写真たちは仕事で疲れた私を最大限に癒してくれている。二回しか会っていないにも関わらずカシュは私のことを覚えてくれたようで、初めて会ったとき以上に懐いてくれるカシュに私はすっかり夢中になってしまったのだ。
真っ暗な部屋でベッドに入り、画面の明るさを落としたスマホでカシュの写真を眺める。この一連の流れが、ここ一週間で就寝前のルーティーンと化してしまった。会社でパソコンとにらめっこし続けてくれた自分の眼球をさらに痛めつけているのは心苦しいが、残念ながら一人暮らしの私には「目が悪くなるからやめなさい」と注意してくれるような人はいないし、今さら視力が下がったところでさほど生活に支障もない。そんなことをぼんやりと考えながら、私は今晩もカシュの写真に癒される。
大量のカシュの写真の中には何枚か、松木さんも一緒に写っているものもあった。カシュを抱いた松木さんが鏡越しに自分たちを撮影した写真や、カシュと頬をくっつけるようにして顔を並べた写真。鼻先をこすり合わせた写真に、松木さんがカシュに顔を舐め回されている決定的瞬間を写した写真。さすがに、写真だけであの日のあの瞬間を思い出して一人で赤面するようなことはないが、未だに他の人の顔を見るよりは多少特別な感覚を覚えてしまう。
だけど、ここ数日でそんな私の感覚にも変化が起こり始めている。
それは、三日前に送られてきた一枚の写真がきっかけだった。
胡坐をかいて座る松木さんが、お腹の辺りにカシュを座らせている姿を捉えた写真。画角から考えると、おそらく床に置いたスマホを何かに立てかけて、タイマー機能を使って撮影したものだと考えられる。カシュはどこか違う方向を向いてしまっているが、松木さんはしっかりカメラ目線で、もっと笑えばいいものを何故か妙に真剣な眼差しでこちらを向いている。
その写真を見た瞬間、私の脳裏にある瞬間が蘇った。
初めて真月佑奈の曲を聴いた大学一年生の私が、貪るようにインターネットで真月佑奈に関する情報を調べていたあの日。
そのとき私が発見したのが、胡坐をかいた状態でアコースティックギターを抱え、こちらへ真っすぐな視線を飛ばしている真月佑奈の写真だったのだ。
その写真を思い出した私は、久しぶりにネットで『真月佑奈』と検索してそれを見つけだし、松木さんから送られてきた例の写真と見比べてみることにした。もちろん、ベッドの上に寝転んだ状態で。
確かに構図は同じ。浮かべている表情も似ている。なのに、違う。
しばらく二枚の写真を見比べ続けていた私は、あることに気づいた。
それは、真月佑奈と松木玲菜は同一人物ではない、ということだ。
時間をかけて考えた結果、考えなくてもわかるような当たり前の結論に今さら辿り着いた。
もちろん、私が松木さんが真月佑奈の双子の姉であると結論づけている時点で、二人が別人であることなど分かっていた。しかし私は、自分が二人を無意識のうちに同一視していたらしい。心のどこかで松木玲菜という女性に、自分にとって特別な存在である真月佑奈を重ねてしまっていたようだった。
そう意識した瞬間、これまで私が取っていた行動の本当の意味にもようやく気付くことができた。
二人が双子の姉妹であることは、私の中で既に揺るぎない事実となっている。それにも関わらず私は、二人が姉妹である確実な証拠を求めて、会話の中で松木さんに探りを入れたり、わざわざ楽器屋へ松木さんを連れ込んだりして、その度に勝手に罪悪感を覚えて落ち込んでいた。
今さら追加で証拠を手に入れたところで結論は何も変わらないのに、私は執拗に証拠を求めた。それはきっと、本当に証拠が欲しかったのではなく、松木さんに真月佑奈の一部を見出したかっただけなのだ。
真月佑奈が亡くなってから時間が経ち、時間と共に薄れているとはいえ、私の中には真月佑奈が亡くなったことによる喪失感がまだ残っている。彼女と同じ顔をした松木さんなら、その喪失感を打ち消してくれるかもしれない。私は、そんな淡い期待を無意識に抱いていたに違いない。
そのことを意識した上で改めて二人の顔を比べてみると、今まで気がつかなかった二人の違いが目立って見えてきた。
真月佑奈の方が肌が白く見える。
そういえば、松木さんは左頬に小さな黒子があった。
よく見ると、真月佑奈の方が鼻筋が細い気がする。
松木さんの方が少しふっくらしているからかもしれない。
二人がそっくりなのは間違いない。私が松木さんと初めて会ったあの日に激しく動揺したように、ただ顔を見ただけではほとんど同一人物に見える。だけど今では、僅かな二人の違いの方が強く主張しているように感じる。
その理由は、おそらく私の脳内に松木さんの様々な表情が記録されているからだろう。
二人の顔の違いを見抜く程度には、私の中に松木さんとの記憶が積もり始めているのだ。
今や、真月佑奈と同じくらい、私にとって松木さんは色々な意味で忘れられない存在になってしまったのだ。
それなのに私は、真月佑奈との関係を聞き出そうと躍起になっていた。
せっかく親しくなった松木さんを、真月佑奈と同一人物として扱おうとしてしまっていた。
松木さんから送られてきた一枚の写真をきっかけに、そんな私の考え方がすごく失礼で、勿体ない事だと気がつくことができたのだ。
これからは純粋に、松木玲菜という女性との友情を築いていきたい。
そう強く思ったのだ。
......あくまで、友情を、だ。
そして私はもう一つ、ある重大なことに気がついた。
自分のくだらない好奇心のせいで忘れていたこと。
自分自身が二人の顔がそっくりであることにすぐに気がついたにも関わらず、他人が松木さんを見てどう思うかを考えていなかったのだ。
正直に言ってしまえば、確かに真月佑奈は知名度のあるアーティストではなかった。とは言え、私のように熱狂的な固定ファンが多くいたのも事実だ。そんな真月佑奈のファンが街で松木さんの顔を見て驚く可能性は十分にあり、そのまま勢いで声をかけてしまう人もいるかもしれない。
今のところそのような場面に私が遭遇したことはないが、場所によってはその出来事が発生する可能性は一段と高くなる。例えば、音楽に関連する場所ではどうだろう......楽器屋のような。
そう。松木さんを楽器屋に連れ込むという私の行動は、そんな危険性を孕んだ重大な事だったのだ。松木さんもその可能性を危惧していた可能性はあり、実際に明らかに居心地が悪そうにしていた。
もし私が一緒にいるときにそのような出来事が起こってしまったら、私は真月佑奈を知らないフリをする自信がない。
私の白々しい演技で嘘を隠し通せるわけがない。
松木さんも、そのような事故的な出来事で私に話すのは嫌だろう。
いつか本人が、自らそのことを話してくれる日がくるまでは、そのような状況に遭遇することを避けなければならない。
私は、自分の中で住みついていた邪な好奇心に別れを告げ、秘密を知る者としての責任感を背負っていく覚悟を決めた。
カシュの写真をひと通り眺めて満足した私は、そのまま眠りに就いた。
翌朝、私は久しぶりに真月佑奈の曲を聴きながら通勤電車に乗った。
以前のように松木さんの顔が脳裏に浮かぶことはなく、純粋に真月佑奈の曲に集中することができている自分に安堵しながら、私は普段と同じように列車に揺られたのだった。
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