16th

 アイスを食べながら午後の予定について話し合った結果、せっかくなので何か映画を観ようということになった。


 外の通路に出てからエスカレーターで昇って行くと、映画館の入り口の前に出る。自動ドアを通って中へ入ると、やはりゴールデンウィークというだけあって、ロビーには普段以上の人だかりができていた。


「すごい人だね」

「そうですね。どうします?」

「でも、せっかくだから何か観たいな」


私たちはスマホで上映スケジュールを確認して、時間が合う映画の中からアニメ映画を選んだ。テレビシリーズの劇場版であるその映画に私は興味がなかったし、おそらく松木さんも同様だと思う。ただお互いになんとなく気まずくて、恋愛映画やそのような展開がありそうな映画を選択肢から排除していった結果、アニメ映画しか残らなかったというだけのことだ。


「じゃあ早川さんにチケットをお願いしても良い?私、飲み物とポップコーン買ってくるから」

「いいですけど......さっきアイス食べたじゃないですか。チョコミントのダブル」

「映画館に来るの久しぶりなんだもん。せっかくだから食べたいじゃない?飲み物、何がいい?」

「ああ、じゃあ......アイスコーヒーをお願いします」

「了解」


ニコっと笑った松木さんは意気揚々と売店の列に並んだ。家族連れや中高生のグループに紛れながら、高い位置に表示されているフードメニューを嬉しそうに眺めているその後ろ姿に、私は感心すらしてしまいそうになる。


 ピアノを前にして私たちの間に流れた重たい空気を心配していたのも、この姿を見てしまうと杞憂だったのではないかと思えてくる。


 そんなことを考えていると、松木さんの背中が新しく並んだカップルで隠されてしまう。そのタイミングで私も券売機の列に並んだ。


 スクリーンに近い前方に空いていた隣同士の席を確保して、私は二枚のチケットを持って売店の後方まで戻った。見ると、入場口付近にはドリンクとポップコーンを持って待機する人で溢れている。その光景をぼんやり眺めながら松木さんを待っていると、ある物が目についた。


 おそらく高校生くらいの男女二人組。おそらくカップル。その彼氏の方が手に持っている、まるでポリバケツのようなポップコーンバケット。真ん中に仕切りが立てられていて、塩味とキャラメル味が半分ずつ分かれて入っている。俗に言う、ハーフ&ハーフというやつだ。


 それを見た瞬間、嫌な予感がした。


「早川さん、お待たせ!」


売店に行く前の二割増しで楽しそうな声色。


恐る恐る振り向いてみるとそこには、二人分のドリンクとポップコーンバケットが乗ったトレイを持った松木さんの姿があった。


そのポップコーンは、例のカップルと同じハーフ&ハーフのLサイズ。


私の嫌な予感が的中した。


今にもこぼれ落ちそうな二色のポップコーンを見ていると、私の口から思わずため息が漏れた。


「本当にそれ、全部食べられるんですか?」

「うん。早川さんも食べるでしょ?」

「いや、私はそんなにいらないですよ」

「えー?せっかくの映画館なのに?」


周りにいる中高生と同じレベルの会話をしているうちに、いつの間にか開場時刻になっていた。私は松木さんがポップコーンをこぼさないか注意しながら、二人分のチケットをスタッフに見せてシアターへ入って行った。



***



「お持ち帰りできるんだね。知らなかった」

「だから言ったんですよ。食べきれないですよって」


駅のホームで電車を待ちながらそんな会話をしていた。松木さんの右手には、中身が半分以上残ったポップコーンバケットを入れたビニール袋がしっかりと握られている。


 テレビアニメシリーズを観たことが無くても映画は十分楽しめた。途中までは狙い通り恋愛要素がなく、基本的には激しい戦闘シーンが多かったので助かった。ただ、クライマックスで突然差し込まれたキスシーンには狼狽えてしまった。それも、そこそこなやつだったので、このシーンで松木さんの例のスイッチが入ったりしないかと不安になった。横を向いて松木さんの表情を確認しようか迷ったが、もしその時に向こうもこちらを向いていて暗闇の中で目が合ったら、まるで私の方も意識していると思われそうだったからなんとか耐えた。いや、もちろん意識はしてしまっているのだけど。そう言う意味ではない方の意識のことだ。


 映画の内容についてああでもない、こうでもないと語っているうちにやってきた電車に乗り、空いていた座席に隣り合わせで座った。バッグを膝の上に置いてひと息ついたところで、私がずっとバッグに入れて持ち歩いていた物を忘れていたことに気づく。


「これ。カシュのおもちゃ。忘れないでくださいね」

「ああ、そうだった。ごめんね、ずっと持たせちゃって」

「いえいえ。お安い御用ですよ」


そう言って松木さんにカシュのおもちゃを渡そうしたけど、もちろん松木さんにそんな余裕はない。持てるなら初めから自分で持っていただろうし。だからと言って、ポップコーンが入っている袋に一緒に詰めるのもあまり気持ちの良い選択ではない。松木さんも同じことを考えたようで、二人そろってカシュのおもちゃとポップコーンを交互に見つめた。


「ビニール袋、余分に貰えばよかったですね」

「......そうね」


どうしよう。私のバッグの中に何か袋はなかったかな。


そう思ってバッグの底の方や内ポケットを探っていると、電車が駅のホームに入って停車した。扉が開き、車両には続々と人が乗り込んでくる。少し余裕を持って座ることができていた私も、左側に空いていた隙間を詰めて座り直した。


 私に続いて左へずれた松木さんは、先ほどまでよりも深くシートに腰かけると、「あの......」という小さな声を出した。電車の走行音の中から辛うじて聞き取れたその声に「なんですか?」と返事をすると、松木さんから予想外の案が飛び出した。


「もし早川さんがよければ......このまま私の家に来て、カシュと遊んでくれない?」


全く、この人は......懲りないというか、なんというか......。


 私が呆れていると、電車は再び動き出した。その勢いで私たちの身体が僅かに揺れて、私の右肩と松木さんの左肩が軽く触れた。


 私は松木さんの表情を見ようと隣を向いているのに、当の松木さんの視線は下へ向かったまま。その視線の先には、吊り革に掴まっている男性が履いているスニーカーがあったけど、きっと松木さんの脳はそんな物を認識してはいない。ただ私が次にする発言に備えて耳を澄ましているだけだろう。


「あんなことをされたばかりなのに、またすぐに行くと思います?」


 ある意味、松木さんの「弱み」を握っている私は特に気を遣うこともなく、思ったことをそのままストレートに言葉にして伝えた。


 しかし松木さんは自らの発言を撤回するどころか、さらに私に来てほしい理由を付け加えるという強硬手段に出た。


「ほ、ほら。前に来てくれたときにカシュがものすごく早川さんに懐いていたから。また来てくれたら、カシュも喜ぶと思うの。それに、このまま早川さんがカシュのおもちゃを持ってきてくれたら、荷物的にも楽かなぁ、なんて......」


「......私は袋の代わりですか」


カシュのおもちゃを運んであげることにはそこまで抵抗はないが、なんだか自分が物扱いされたようで少し不愉快だった。


 自分でも驚くほどの低いトーンで発したその言葉は、松木さんをさらに焦らせたようだった。


「違くて!そうじゃなくて、早川さんからおもちゃを貰って遊んでくれたら、カシュも楽しいかなって思っただけ。本当だよ?本当に、その......変な事は考えてないから!そ、それに、私の家に早川さんが忘れて行ったスーツも返さないといけないでしょ?クリーニングから返ってきてから、ずっと私の家にあるから」


......なるほど。今度はそれを持ち出してきましたか。


私も忘れていた、あの日レモンサワーをこぼしたスーツ。たしかに、あれをいつまでも松木さんの家に置かせてもらうわけにはいかない。私の中でふつふつと沸き上がっていた怒りが大人しくなるのを感じた。


「......気は進まないですけど」


正直にそう告げると、松木さんは「そっか。そうだよね」と残念そうに呟いた。そして「ごめんね、わがまま言って」と言って笑った。


 松木さんはさすがに諦めたようだったけど、今度は私の思考に変化が現れ始めていた。


「でもたしかに、あのスーツは受け取った方がいいですよね」


そう言うと、視界の右端で松木さんがピクリと反応したのが分かった。


「それに、カシュと遊びたくないと言ったら、嘘になりますし」


その言葉をきっかけに、車両の床に向けられていた松木さんの視線が一瞬で私の方へ向けられた。そしてその表情は、ポップコーンを買いに行ったときと同じような、キラキラした表情だった。


「わ、分かっていると思いますけど、もし今回も前と同じようなことをしたら、松木さんとはもうお出かけしませんからね」


慌ててそう釘を刺すと、松木さんは「わかってるよ」と笑ってから、狭いスペースで体をゆっくり左右に揺らし始めた。何かのリズムに乗っているのだろうか。誰がどう見ても楽しそうなその様子を見て、この人は本当に正直な人なんだなと実感した。


 こんな松木さんを、心のどこかで微笑ましく感じてしまっている自分がいるのも事実だ。


 そう。正直に言えば、私も松木さんの家へもう一度行くことに対しては、実はそこまで嫌悪感は抱いていないのだ。


 一方的にあれだけの事を私に仕掛けて、一度拒絶されかけたにも関わらず、またすぐに家に呼ぶという行動には疑問が残るけど。


 松木さんだってしっかりとした社会人なわけだし、また同じような失敗はしないだろうという想いがあった。


 そして何よりも......単純にカシュに会いたくてたまらなかったのだ。


 仕方ない。昔から犬が好きなんだから。


 これからも頻繁にカシュを利用して家に呼ばれたら困るなと思いながらも、私は結局、松木さんからの誘いに乗ってしまった。



 それからの出来事は、取り立てて振り返るような事でもない。


 松木さんの家にお邪魔して、本当にただカシュとひたすら戯れていただけ。


 松木さんは約束通り私に一切手を出さなかった。


 むしろ極端に私から距離を取って座る松木さんがおかしかったけど、松木さんなりに気を遣ってくれているのだろうと思って指摘しなかった。


 帰り際、「駅まで送る」と言われたけど、流石に申し訳なかったので遠慮して、スーツを受け取って一人で駅まで向かった。


 前は部屋着姿で走って帰った道をのんびりと歩く私のスマホの中には、新しく撮ったカシュの写真が大量に保存されていた。


 本当に、ただそれだけだった。

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