15th

「アナログとデジタル、どっちがいいかな?」

「別にどっちでもいいんじゃないですか」

「早川さんの家は?」

「アナログですよ」

「じゃあ、私も」


そう言って松木さんは、壁掛けのアナログ時計が入った箱をひとつ手に取った。


「よく今まで時計なしで生活してましたね」

「だって今どきスマホがあるし、腕時計も持ってるし」

「そんな理由だろうと思いましたけど」

「なんだか、わざわざ買うのは勿体ない気がしちゃうのよね」

「お家にお邪魔する立場としては、時計が無いと困るんですよ。わざわざスマホを出して時間を確認すると、なんか早く帰りたい人みたいに見えちゃうじゃないですか」

「私はあんまり気にしないけど」

「こちらが気にするんです」

「そういうもの?」

「そういうものです」


ランチタイムを経た私たちは、こんな他愛もない会話ができる程度には普段通りの調子を取り戻したようだった。とりあえずは、今日のうちに互いに気を遣わずに会話できる空気感に戻ってよかったと、レジで会計を済ませる松木さんの背中を見ながら思った。


 時計を買った店を出た後、松木さんが「カシュにおもちゃを買いたい」と言うので、このモール全体の案内図からペット用品を売っているお店を探して向かうことにした。


 その途中も、私たちはどうでもいい会話を続けた。


 目に入るお店の感想をブツブツ言い合ったり、普段はどんな場所で買い物をしているかを教えあったり、お互いの会社について話したり。そんな会話を続けていたかと思えば、いつの間にか二人とも黙って、何も話さずにただダラダラと歩いたり。そんな一見無駄に思える時間も私は全く気にならず、不思議と心地よく感じていた。


 あの日、私が松木さんに言った「知り合ったばかりなのに、昔から知っている気がする」「相性がいい」という言葉に自分で改めて納得してしまう。松木さんに対して人見知りが出ない理由を訊かれたときに、酔った状態で咄嗟に思いついた理由だったけど、なかなか的確な表現だったと思う。


 それほど気を遣わずに一人で過ごしているときと同じ感覚で過ごせる相手なんて、家族と幼馴染の香織くらいだ。それだけ相性がいいと思える人は、友達が少ない私にとっては貴重だから大切にしたい。これは、真月佑奈との事を掘り下げたいという例のやましい感情は関係ない......と思う。


 このまま松木さんとの関係が続いていけば。


 いつか、松木さんを「友達」と呼べる日がくるのだろうか。


 いつか、あの日の出来事を笑い話にできる時がくるのだろうか。


 それとも、やっぱりこのまま無かったことになるのだろうか。


 あんな......あんな強烈なキスを無かったことにできるのだろうか。


 松木さんに悪意はなかったということを理解した今、改めてその瞬間を振り返ると、あの時に覚えたような恐怖心は鳴りを潜めていて、より鮮明に松木さんの表情やキスの感触が蘇ってきてしまう。

 

 ああ、こんなことを考えるんじゃなかった。本人が横にいるというのに。



「ねえ、大丈夫?」


松木さんに声をかけられて我に返ると、私たちはいつの間にかエスカレーターに乗っていた。下りのエスカレーターで松木さんよりも一段後ろ立っているから、少し松木さんを見降ろすような形になっていて、バッチリ目が合った瞬間、私の心臓が奇妙に跳ねた。


「あ、いえ。なんでもないです」

「そう?それならいいんだけど」


そう言ってエスカレーターから降りた松木さんの後ろをついて行き、そのまま隣に並ぶ。あの日のことを思い出した途端に恥ずかしくなって松木さんの顔を見れないでいる私の気も知らず、松木さんは話を続ける。


「しばらく黙ったままだから、どうしたのかなと思って」

「すみません。少し考え事を」

「なんか顔赤いから、具合でも悪いのかなと思って」

「えっ」


反射的に両頬を手で押さえてしまった。その行動が、顔が赤い理由に心当たりがあると白状しているようなものだと瞬時に理解して、慌てて両手を降ろす。そんな自分を客観視してしまい、挙動不審な自分が恥ずかしくて更に顔が熱くなる。


なんとか誤魔化さないと。


「歩いてたら暑くなっちゃって」


......無理がある。


「今日、暖かいもんね」


......通用した。


このまま、大して興味もない気温の話を続けさせてもらおう。


「この時期の服装って難しくないですか?暑くなったり寒くなったり」

「そうね。今日みたいな休日は自由が利くけど、仕事中はそうもいかないものね」

「そうなんですよ。日中に外回りとかをすると、割と汗かいちゃうんです。なのに、夜には結構冷え込んだりするから、風邪を引きそうで嫌なんですよ」


人間の脳は凄い。言い訳をしなければいけない状況になると、思ってもみない事が口からスラスラと流れ出るのだから。別に私はこの時期の服装にそこまで困っていないし、毎日会社から帰る度に風邪に怯えたりなどしていない。でも、今はそういうことにしておいた方が都合がいいのだ。


「夏になったら、単純に暑くて大変だもんね」

「大変です」

「冬は寒くて」

「大変です。要するに、外回りが大変ってことですね」


そう言うと、松木さんはフフッと笑ってくれた。これで自然にこの話題からフェードアウトできるかと思いきや、松木さんは「よかった」と言って少し真剣な表情になった。


「よかったって、何がですか?」

「早川さんが急に黙り込んだから。やっぱり、私と一緒にいるのが嫌なのかなと思って」

「え?あ、いや、そんなことないですよ!」


黒縁眼鏡の奥の眼が伏し目がちになったのを目撃した私は、急いで弁解しようとした結果、想定よりも大きな声が出てしまった。周りの数人がこちらに視線を向けたことに気づき、ボリュームを調整してから言葉を補足した。


「その......別に無理して話し続けるのも違うかなと思っただけで、決して松木さんが嫌になったわけではないですから。まあ確かに、あんな事をされた人と一緒に出掛けている私ってどうかしてるのかな、みたいなことは少し考えましたけど......でも、嫌ではないですから。どうかしてるなら、どうかしてるで良いですし......きっと、どうかしてる方が楽しいかな、とか......」


自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。どうして私はこんなに焦っているんだ。松木さんは丸い眼を少し大きくして首をかしげている。


「と、とにかく、心配しなくても大丈夫ですから。私はおしゃべりではないので、ときどき黙り込むことがあるかもしれませんけど、ただ喋らないだけですから」


そう言ってから、今回の自分の発言には偽りがないことを主張する意味も込めて、大きめに頷いた。すると松木さんは「わかった。ありがとう」と再び笑顔になった。そして「私も無口な方だから、気を遣ってたくさんお喋りされるより楽だよ」と言った。


「......そうですか?」

「え?」

「松木さんが無口だなんて、感じたことないですけど」


打ち合わせでは流暢に喋り、あの日も私のことを根掘り葉掘り訊いてきて、挙句に私に......。


最後のは関係ないけど、とにかく松木さんは「おしゃべり」な方だと思う。


そのことを指摘すると、松木さんは小さな声でこう言った。


「それは......その......早川さんの前で浮かれてただけかな」


......顔が赤くなってる。


何を突然恥ずかしがっているのか。


私もこんなだったのかな。


まさか、そんなはずはない。


だって、こんな顔。


まるで恋してるみたいな。


いや、この人は私に恋してるのか。


ああ、もう!また混乱してきた!


「......これからはお互い自然に振る舞いましょう」

「そ、そうね」


ランチタイムを経て元通りになったと思った関係性は、やっぱり少し歪なままだった。


そして、そんな私たちは目的のペット用品店をとっくに通り過ぎていた。



***



 踵を返してペット用品店に入った私たちは、カシュへのおもちゃやおやつを選んで買った。とは言っても、私は楽しそうに商品棚を物色する松木さんを隣で眺めていただけだったけど。ここでの私の役割といえば、先ほど買った壁かけ時計でバッグがいっぱいになっていた松木さんの代わりに、買った物を自分のバッグに入れたことくらいだった。


 お店を出た私たちは再び雑談を交わしながら、相も変わらずのんびりとショッピングモールの中を歩いていた。少し気になるお店があったらゆっくり入って行き、商品を見て何も買わずに出る。ほとんどウィンドーショッピングと化してしまった行動は店員さんたちにとってはいい迷惑だったかもしれないが、それなりに楽しかった。


 ショッピングモールの一階から四階まで続いている家電量販店に入っても私たちは、変わらずウィンドーショッピング状態を続けた。商品を見ながら一階から上がっていき、スマホ用品やタブレット機器のコーナーで多少足を止めたものの、結局四階まで辿り着いても何かを買うことはなかった。


 そのまま四階からモール側に出ると、そこは飲食店が集まっているフロアだった。既にランチを済ませている私たちは、多くの店が通路に順番待ちの客を作っている中を悠々と歩いた。


「早めに食べて正解だったね」

「ですね」


そんな呑気な会話をしていると、正面に広がるゲームセンターが見えた。家電量販店から始まったこのフロアも、あの騒がしい空間で終わりらしい。


結局、何も買わなかったな。


そう思っていると、ゲームセンターの手前にあるひとつのお店が目に入った。


お店の中から強烈に主張してくる、無数のギター。その奥に、どっしり構えたピアノが数台見えている。


楽器屋だ。


その光景を見た瞬間、音楽雑誌に掲載されていた真月佑奈のインタビューの内容がフラッシュバックした。



『小学1年生の頃からピアノ教室に通いはじめました』

『中学1年生まで通っていました』



そこでは「双子の姉」には触れられていなかったが、双子の娘を持つ親が、その妹だけをピアノ教室に通わせるとは考えにくい。つまり目の前に広がる光景は、真月佑奈と松木玲菜が双子の姉妹だということを裏付ける情報を得る絶好のチャンスかもしれない。


 私に潜む例の好奇心が再び大きくなりはじめた。


 そうだ。別に、なんてことはない。ただ単に、一緒に買い物に来ている人を自分が行きたい店に誘うだけのことだ。


「あの、松木さん」

「なに?」

「あの楽器屋さんに寄ってもいいですか?」

「え?ああ......」

「ちょっと見てみたくて」

「うん、いいよ」


ほんの一瞬だけ松木さんの言葉に間が空いたような気がしたけど、すんなりと頷いてくれた。そのお言葉に甘えて、私は楽器屋の中へ足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた店員さんに軽く頭を下げつつ、あまり詳しくない弦楽器コーナーを抜けて、ピアノコーナーへ辿り着いた。並んでいる電子ピアノに興味があるフリをしながら、意識は後ろに立っている松木さんに向ける。直接表情を確認できないけど、今のところは何も反応はない。


 ひと通りピアノを物色したところで、私はあることに気づいた。この店に入ったところで、特にやることがないのだ。


 考えてみればあの日、私が訊ねた家族や実家に関する事にも松木さんはあまり答えてくれず、すぐに話題を逸らされてしまった。そんな松木さんが、妹に関連する物で溢れた場所で簡単に態度を変えて、露骨に嫌がるような事はありえないのだ。


 とはいえ、すぐに「行きましょうか」と言って出て行くわけにもいかない。自分の詰めの甘さを恨みながら、私は目の前にあったピアノの鍵盤を軽く鳴らした。


「......弾けるの?」


ペダルを踏んで伸ばしていた「ソ」の音に重なるように、背後から松木さんの声が聞こえた。


「あ、はい。一応。子供の頃に習っていたので......」


ふーん、という興味が無さそうな松木さんの声を最後に再び私たちの会話は途切れてしまった。


 しかし、松木さんから話題を切り出してくれたのはチャンスかもしれない。松木さんには会話を続ける気がないかもしれないけど、私はもう少し続けさせてもらうことにする。


「松木さんは何か習ったりしてたんですか?」

「え?ああ......」


一瞬だけ私と目を合わせた松木さんは、ゆっくりと隣まで来て私と同じように鍵盤を軽く鳴らした。私とは違って和音を鳴らした後で、「私も小学生の頃にピアノやってたよ」と答えてくれた。


やった。予想通り、松木さんも習っていた。


「それは......どれくらい習っていたんですか?」

「......小学生の間かな。中学校に上がったらすぐに辞めちゃった」


その経緯も、真月佑奈が語る過去と一致している。


 密かに興奮を覚えている私の隣で松木さんは、「久しぶりに触った」と呟いた。だけど、その表情はピアノを懐かしがっているようには見えず、むしろ少し複雑な表情に見えた。あの日、松木さんの過去について訊ねたときと似た、複雑な表情だ。その顔を見た私は、「そうですか」としか答えることができなかった。


 再び途切れる会話。しかし、いま私たちの間に流れている空気はこの楽器屋へ入るまでのような心地よいものでは決してなく、店内に流れている心地よいBGMでは到底かき消すことができないほど重たいものだった。


 前もそうだ。好奇心に従って踏み込むものの、松木さんの反応を見た私はすぐに弱ってしまう。あの日はお酒に頼ってここからもう少し踏み込んだけど、今日は全くそんな気にはなれない。それどころか、つい数十秒前に覚えていた興奮など跡形もなく消え去り、今はたた申し訳ないことをしてしまったと強い後悔に襲われている。


「......もう行きましょうか」

「......何も買わなくていいの?」

「ただピアノを見たかっただけなので。すみません」

「そっか」


結局私は何もできず、ただピアノで「ソ」を鳴らして、少し落ち込みながら店を出て行く厄介な客になってしまった。


 このまま黙り込んで、松木さんに私が抱える好奇心を感づかれては困る。何か新しい話題を見つけなければと、楽器屋の向かいにあった有名なアイスクリームのお店を咄嗟に指さして、「アイスでも食べませんか?」と苦し紛れの提案をしてみた。


「......私、チョコミント食べたいな」という声を聞いた私は安堵のあまり、「じゃあ行きましょう!」と松木さんの手を取って、自分でも違和感を覚えるほどのおかしなテンションでピンクの看板に向かって走り出した。

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