14th

 あれから一週間以上が経っても、松木さんからの連絡はなかった。


 考えてみれば、今まで私のスマホに松木さんから届いていたメッセージは仕事に関する事がほとんどで、毎日連絡を取っていたというわけではない。それなのに私は何故か松木さんからの連絡ばかりを気にしていて、アプリ上の松木さんとのメッセージ画面を一日に何度も覗いてしまっていた。


 私は「これからも連絡していい?」という言葉を受け入れた側なのに、何故ここまで気にしなければいけないのか。別に何も連絡が来ないなら、それで良いはずなのに。


 だからと言って、私の方から何か連絡をするのは「負け」な気がする。あれだけ申し訳なさそうに謝った数分後に「部屋着はプレゼントだよ」などと言い放ってしまうようなあの人のことだから、今頃は私からメッセージが送られてくるのを不敵な笑みで待ち構えているかもしれない。その罠に自ら飛び込むのは避けなければ。そんなくだらないプライドと向き合いながら、私は松木さんからプレゼントされてしまった部屋着を着てベッドに入っている。そんな夜をいくつも過ごしているうちに、いつの間にか世間はゴールデンウィークを迎えていた。


 今から二年前。社会人になって初めてのゴールデンウィークは、慣れない日々に疲れていたせいで、そのほとんどを社員寮の部屋でだらだらと過ごしてしまった。当時はそれでも良かったのだけど、その後の夏休みや冬休みもない社会人としての日々を過ごした私は、まとまった休日の存在価値を身をもって理解した。学生時代のように友達と旅行に行ける機会なんて、本当にゴールデンウィークくらいなものだ。その反省を活かして、去年は香織と沖縄まで旅行に行った。今年もまた香織と旅行にでも行ければいいなと思っていたけど、高校で香織が今年から顧問を務めている料理部が全国大会に向けてゴールデンウィーク中にも活動をするため、旅行は難しいとのことだった。


 誰か予定が空いている友達を探そうか。もしくは、気軽に一人で旅行なんかも良いかもしれない。突発的に海外にでも行ってしまおうか。そんな事を考えて調べてみるけど、もちろん海外旅行の費用など気楽に払える額ではなく、飛行機の席だって既に埋まってしまっていた。


 今年は引きこもりコースだな。そう諦めがついた時には、もう四月が終わってしまっていた。


 五月に入っても特に予定が決まることはなかった。有り余る時間を活用して、まだ大して汚れてもいない家を年末並みに大掃除をしてみたり、たまには料理でもしてみようと奮闘して、乾いたチキンライスの上にスクランブルエッグが乗っただけのオムライスを生み出したりした。


 そんな調子で数日を過ごして、なんとかオムライスがオムライスとしての体裁を保ち始めた頃には、ゴールデンウィークも残り二日となってしまっていた。


 オムライスをスプーンで突きながらテレビを観ていると、テーブルの上のスマホから通知音が聞こえた。それを手に取ると、画面に新着のメッセージが浮かび上がった。


『明日、何か予定ある?』


 松木さんからだった。


 そのメッセージが届いたことにはすぐに気がついたけど、速攻で返信をすると私が連絡を待っていたと思われそうな気がして、あえて二時間程度空けてから返信をした。


『何もないです』


私とは対照的に、松木さんからはすぐに反応があった。


『どこかに出かけない?』

『どこかって、どこですか?』

『それは明日考えよう』

『そんなに適当で大丈夫ですか?』

『大丈夫じゃない?』


松木さんからの能天気な答えに、私は思わず頭を抱えた。


 確かに、「これからも会ってくれる?」という松木さんからの問いに「いいですよ」と答えたのは私だけど。


 あんな出来事の後で、本当に二人きりで出かけたりしても大丈夫なのだろうか。


 どこか暗い場所に連れ込まれて襲われたりしないだろうか。


 本当にそんなことになれば、今度こそ縁を切ることになるのは間違いない。


 ただ、そのような不安を覚える一方で、松木さんと出かけるということに対してそこまで嫌悪感を抱いていない自分もいる。


 むしろ、今後も仕事で付き合いを続けていく上では、これまで通りに松木さんと接しながら距離感を元に戻していくことも大事かもしれないという考えも浮かんでいる。


 そして何より私の中の「好奇心」が、松木玲菜と真月佑奈の関係を掘り下げたいと相変わらず私自身に訴えてくるのだ。


 その感情に素直になると、私の性格は一気に捻じ曲がってしまう。


 松木さんが無理やりキスをしてきて私の人生に無理やり踏み込んできたのだから、私の方だって多少踏み込んでも良いのではないか。それで仮に松木さんのタブーに触れて怒らせることになったとしても、それでおあいこじゃないか。


 そんな最低な考えに、私の中の「好奇心」が同調する。その結果、私は松木さんに『行きます』と返信してしまったのだった。


『ほんと?よかった!』


そのまま私たちは、待ち合わせをする駅と時間を決めてからメッセージのやり取りを切り上げた。


 休日に松木さんと会うのは初めてだ。


 あの時に釘を刺しておいたから、変なことはされないはずだけど......


 そんな少しの不安を抱きつつ、私は松木さんから貰ったパジャマに着替え、翌日に備えて早めにベッドに入った。



***



 初めて見る休日の松木さんは、黒縁眼鏡をかけて黒いシャツワンピースを羽織り、徹底的に黒に身を包んでいた。一方の私は白いスカートに薄いベージュのブラウスを着てしまっているから、真逆の色合いの二人で並んで歩くのが少し恥ずかしい。


「思ったより混んでないね」


隣を歩く松木さんが意外そうに言った。駅からショッピングモールへ伸びる連絡通路の普段の混雑具合を思い返しながら「いつもよりは人が多い気がします」と答える。


 とりあえずお昼前に品川駅で待ち合わせた私たちは、駅で路線図を眺めながら行き先を決めあぐねていた。お互いに特に行きたい場所も無く、更に松木さんはカシュにご飯をあげるために夜までには帰らなければいけないから遠出はできないという状況で、なかなか良い考えが浮かばなかった。


 そんな中で「普段はどんな所に行くの?」と訊かれた私が、映画を観る際によく使っている川崎のショッピングモールを挙げると、松木さんが「そこに行こう」と言い出したのだ。


「よく来るの?」

「はい。先月は来れなかったですけど、ここの映画館を使うことがいちばん多いと思います」

「映画館に違いってあるの?」

「結構ありますよ。設備も結構違いますし、観る映画によって映画館を変えてます。3Dの映画はなるべく川崎か池袋で観るようにしてたりとか。でも、こっちに来ることの方が多いですかね。池袋が映画館が大きい分、いつも混んでいるので」

「へえ......私は近い所にしか行ったことないや」


その口振りから推測するに、松木さんはあまり映画館には行かないようだった。割と一人で映画館に行ったりするイメージはあったんだけどな。


「松木さんは休みの日とか、どこかへ行ったりしますか?」

「カシュが家に来てからは、あまり遠出はしてないかな。一人暮らしだから、平日はほとんど一緒にいてあげられないしね。それに、私の家から少し歩いた所にスーパーがあるから、そこで買い物は済ませちゃう」

「今日もカシュと一緒にいてあげなくてよかったんですか?休みも残り少ないですし」

「まあ、確かにカシュも連れてこれたら一番良かったけどね。でも、ここ数日はずっとカシュと遊んでたから。それに、カシュだけじゃなくて......」


そこまで話したところで、松木さんの言葉がピタリと止まった。


「......だけじゃなくて?」

「あ......いや、なんでもない。せっかくのゴールデンウィークだし、一緒にお出かけできたらなって思って」

「......そうですか」


松木さんが言おうとした言葉をある程度は予測できるけど、それを追求することはしない。松木さんなりに気を遣ってくれているのだから、私も気がついていないように振る舞えばいい。


 そんな事を考えながら自動ドアを通ってショッピングモールの中へ入ると、入口のすぐ近くにある喫茶店からコーヒーの香り漂ってくるのを感じた。そのお店の外見は「古き良き」といった感じで、いつも前を通る度に気になっていた。まだそこまで混雑していないように見え、少し早めのランチをここで食べるのも良いかもしれない。そう思った私がその事を提案しようとすると、松木さんの足がピタリと止まった。


「ここ入ってみてもいい?」


そう言った松木さんの視線は、喫茶店のすぐ隣に店を構える雑貨屋へ向いていた。私が「いいですよ」と頷くと、松木さんはその中へゆっくり入って行った。その後ろをついて行きながら、きょろきょろと店内を見渡している松木さんの後ろ姿に注目する。


 この雑貨屋の雰囲気は、松木さんのイメージとは少し異なるように感じた。全体的に白くて明るい空間に、カラフルな商品が並んでいる。そんな中で全身を黒い衣服で包んだ松木さんは、全く違う世界の住人のように見える。まるで、何もかもが黒い国で生まれた女性が、何もかもが白い国へ迷い込んだような、そんな雰囲気を醸し出している。


 黒の国と白の国。そんな物語の絵本がありそうだな、なんて思い浮かべてしまうのは、海外のアニメキャラクターの雑貨に囲まれているせいかもしれない。棚に並ぶ商品と松木さんをぼんやりと見比べていると、そんな空想がどんどん膨らんでいく。



 隣り合いながらも、何百年にも亘って国交が断絶している黒と白の国。そんな黒の国に生まれた黒の姫は、奔放でわがままな性格の女性に育っていた。結婚を勧められても断り続け、自分が姫という存在であることに嫌気が差していた。


 そんな日々の中で黒の姫は、ひょんなことから白の国へ迷い込んでしまう。自分の国とは正反対に何もかもが白いその国から帰る方法も分からずに困っていた黒の姫は、あるとき白の王子様と出会って......


 いや、松木さんの場合は......そうか。黒の姫が出会うのは、白の姫にしておこう。


 白の姫は、黒の姫が住民から反感を集めないように自分の城に匿う。黒の姫も閉ざしていた心を少しずつ開き始める。白の姫は白い服と帽子を黒の姫に着せてあげて、一緒に街へ出かけたりする。黒の姫は街の人々とも交流を深め、その暮らしを心から楽しんでいる。そんな日々の中で二人は絆を深めていく。


 しかし、黒の姫が白の国へ入ってしまった黒の王様が軍隊を白の国へ送り込んでしまい......



「ねえ見て、これ」


店内を眺めながら空想を繰り広げていた私は、そんな声をかけられて現実に引き戻される。声が聞こえた方を見ると、黒の姫......じゃなくて、松木さんがピンク色の小さなポストを手に持っている姿が目に飛び込んできた。


「なんですか?それ」

「貯金箱なんだって」


ほら、と言ってコインの入口を見せてくれる松木さんは妙に楽しそうだった。その姿が空想の余韻のせいで、自分の国に無い色に感動している姫に見えてきてしまう。


「どうかな?」

「どうって......いいんじゃないですかね?」


アバウトな問いに対して相応な答えを返すと、松木さんは「そっか」とだけ呟いて、すぐにそれを置いて他の商品を眺めはじめた。どうやら、私の反応を確かめたかっただけのようだった。


 その後も松木さんは、様々な商品を手に取っては私の反応を窺っていた。水色のティッシュボックスケース、犬の形のメガネホルダー、ハート型のクッション、コアラが抱き着く形になるカーテンタッセル。どれも松木さんのイメージとはかけ離れたものだった。


 どの商品に対しても私の反応がイマイチなことに気がついたらしい松木さんは、結局何も買わずに雑貨屋から出て行ってしまった。妙に物悲しい背中を追いかけて行ってその隣に並んでみると、明らかに先ほどまでと比べて松木さんの歩く速度が遅くなっていることに気づいた。


「どうかしました?何も買わなくてよかったんですか?」

「え?あ、いや......」


やはり今日の松木さんは、どこか様子がおかしい。きっとその原因は私にあるのだろうけれど。


 松木さんとは元の距離感に戻りたいと思っているのは確かだけど、このまま松木さんが抱く私に対する様々な感情を溜め込ませるのは、少し可哀想な気もする。松木さんの気持ちを知った上で今後も付き合いを続けていくと決意したのは他ならぬ私自身なのだから、その部分の責任は私が取るべきかもしれない。


「言ってみてください」

「で、でも」

「その反応で、なんとなく察しはついてますから。それなら、溜め込まずに言ってしまった方が楽じゃないですか?」

「......うん」


小さく頷いた松木さんは、「えっと」「その」とひとりで相槌を打ちながら考え込んだ後、ぽつりと呟いた。


「早川さんは、どんな物が好きなのかなと思って......」


やっぱり、私のことだった。


「ほら、私のリビングを見て『何もないですね』って言っていたじゃない?だから......何か部屋に飾りとかを置けば......早川さんに喜んでもらえるんじゃないかなって......」

「......私が松木さんの家に行く前提なんですね」


そう指摘すると松木さんは、「ご、ごめんね!」と私の隣で慌てはじめた。自分の考えが行き過ぎたものだと理解できているのは良いことだと思うけど、その葛藤をここまで露骨に表現されると、やはり私も調子が狂ってしまう。


「慌てなくて大丈夫ですから。むしろ、松木さんにあたふたされると、私の方も変に意識してしまうので」


そこまで話したところで、今度は自分の発言に疑問が浮かんでしまう。


「私も意識してしまう」なんて、まるで私も松木さんを意識しているみたいじゃないか。


いや、確かに意識はしているのだけど......私まで意識しているみたいじゃないか。


「い、いや、あのっ、意識するって、私はそういう意味じゃないですからね!」

「も、もちろん!わかってるから......だ、大丈夫!」


一体なんだこの会話は......思春期じゃないんだから。


結局、松木さんの態度がどちらに転んでも、私は振り回される運命なのかもしれない。


「と、とにかく......松木さんは自然体で大丈夫ですから。その方が私も普通に過ごせるので。いきなり『好き』とか言ってキスするのはナシですけど」

「だ、大丈夫。そこは絶対に大丈夫」

「それならオーケーです」


そんな会話をしていた私たちは、いつの間にか足を止めていた。どちらから止まったのかも覚えていない。気がつけば通路の真ん中で、ふたり揃ってあたふたしながら立ち止まる私たちは、明らかに他のお客さんの邪魔になっていた。どうしようかと辺りを見渡した私の目に飛び込んできたのは、ここへ入るときに気になっていた、入り口のすぐ横の喫茶店だった。


 私たち、まだ中に入って全然進んでないじゃん。


「あの......気を取り直すためにも、あの喫茶店で早めのランチを食べるのはどうですか?もうすぐお昼時でどこのお店も込んでくると思うので。あのお店でゆっくり、この後の予定を考えましょう」

「そ、そうだね。うん。行こうか」


こうして私たちは、少し急いで喫茶店へ飛び込んだのだった。

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