13th
予定時刻の約10分前。松木さんは本当に会社までやって来た。私はギリギリまで打ち合わせに参加するかを迷っていたけど、主任に説明する理由が思いつかなかったから仕方なく応接室に向かった。
主任に続いて応接室へ足を踏み入れると、そこにはいつも通りのスーツを着こなしている松木さんがいた。その姿が視界に入った瞬間、自分でも体が強張るのを感じた。一瞬だけ目が合った気がしたけど、すぐにその視線は主任の方へ向けられた。今までに味わったことがない種類の緊張感に襲われながら、主任に不審がられないように気をつけながら軽く頭を下げた。
「すみません、今日は突然」
「いえいえ。こちらこそ、わざわざ来て頂いてありがとうございます」
主任とそんな会話を交わす松木さんは私の予想通り、全く普段と変わらない仕事用の笑顔を浮かべていた。声の調子も特に変わったところはなく、きっと主任は私と松木さんの間に事件が起きたことなんて何も気づかないだろう。「もしかして本当に忘れてるのかな?」なんて思ってしまいそうになるほど、目の前の松木さんはいつも通りだった。
応接室に入ってから私はひと言も発さないまま、松木さんと主任の間で始まった2人会議の内容を、ひたすらノートパソコンに打ち込んでいく。一瞬だけ顔を上げて松木さんの様子を確認すると、やはりその表情はいつもと変わらず、優しく微笑みながらも、真剣に主任との会議に勤しんでいた。
一度は松木さんとしっかり話をしようと決意していたはずなのに、いざこのように普段通りに振る舞っている松木さんを前にすると、私の中に生まれた感情はやはり「怒り」に近いものだった。土曜日の夕方、平気な顔で私に話しかけてくる松木さんをイメージしただけでムカムカしていたけど、それとは比べ物にならないほど気持ちが尖っていく。
この人は、一体どういうつもりでここへやって来たのだろう。
わざわざ私がいる所へやって来て、私がどんな反応をするのかを確認しに来たのだろうか。
自分のキスが私にどんな影響を及ぼしたのかを、その目で確かめたかったのだろうか。
そんな自分の推測だけで、どんどん私の中の怒りが大きくなってきてしまい、松木さんの浮かべる仕事モードの微笑みが、なんだか私のことを見下しているような表情に見えてくる。「キスなんかで怖気づいちゃって」と香織が私を揶揄っていたけど、まさか本当に松木さんもそれに似たことを考えているのではないかと思えてしまう。やり場のない怒りを、唯一の捌け口であるパソコンのキーボードにぶつけていく。
何度か「今のところ、大丈夫?」という主任からの確認に返事はしたけど、それ以外の時間はひらすらパソコンの画面だけに集中していた。松木さんの顔を見てしまうと、例えどんな表情が目に飛び込んできたとしても、動揺して書記の仕事に支障が出そうだったから。
そんな居心地の悪い時間が流れたまま打ち合わせが終わり、松木さんを見送る時が来た。結局、打ち合わせが終わるまで一度も松木さんから声をかけられることはないままで、私がこの場にいた意味がいよいよ分からなくなってきて、頭を掻きむしりたくなる衝動をぐっと抑える。
応接室を出てからも、松木さんと主任が並んで歩く後ろについて行くだけで、一切松木さんと目が合うことはない。
今の私にとっては、松木さんと向き合って話をしておきたいとか、パジャマやスマホをどうするかなんていう目的は二の次三の次に降格してしまっていて、目の前を歩いている松木さんが何を考えているのかだけが気になり始めていた。
狭いエレベーターでビルの一階まで降りて、少し歩いたところで松木さんが口を開いた。
「あの、お見送りはここまでで結構ですので......すみません、お手洗いの場所を教えて頂いても宜しいでしょうか?」
その言葉を聞いた主任は少し意外そうな顔を浮かべていたけど、すぐに「そうですか。お手洗いはですね.....」と言いながら、フロントをキョロキョロと見渡し始めた。
トイレくらい外に出てからいくらでも探せるのに、どうしてわざわざこのフロントで探すんだ。そんな疑問を心の中でぶつぶつと呟いていると、「あの......」という声が聞こえた。
「早川さん。お手洗いまで案内して頂けませんか?」
「......うぇ?」
こんな少し間抜けなやり取りが、今日初めて松木さんと交わした会話だった。
どうして私が......
そう言おうと思ったけど、松木さんの言葉を聞いた主任は「そうですね。では、今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」なんて言ってから、私たちが降りたまま停まっていたエレベーターにさっさと乗り込んで戻って行ってしまった。
いきなり訪れた、エレベーターホールで松木さんと二人きりの時間。緊張と怒りで微かに震える手を握ぎりしめてながら、床を見つめて松木さんの方から口を開いてくれるのを待ってみる。しかし一向に、松木さんが何か言葉を発する気配はない。仕方なく「......こっちです」と言って、トイレがある方へ歩いていく。松木さんを見ずに歩き始めたけど、すぐ後ろからヒールの音が聞こえてくるから、きっとついて来ているはずだ。
この時点で、松木さんが本当にトイレへ行きたかったわけでは無いことはなんとなく察しがついた。きっと、私と二人きりになれる機会を見計らっていたのだろう。そこで得意気に「私の事、意識してる?」なんてあの猟奇的な笑みを見せつけてくるのかもしれない。もしくは、その場でまた襲い掛かって来る可能性だってある。そうなったら、急いで逃げなければ。それで、もう縁を切ってしまおう。
「......ここです」
ビルの外観の割には綺麗なトイレの入り口の前で立ち止まり、松木さんの顔は見ないまま呟いた。背後で鳴っていたヒールの音は止んだけど、松木さんからの返答はない。そのままトイレの中へ入っていくこともなく、ただ私の後ろで立ち止まっているだけのようだ。
このままだと、女子トイレの前で並んで立ち尽くす不審な二人組になってしまう。そう思った私は、松木さんのスイッチが入らないうちにこの場から離れてしまおうと、「では、失礼します」と言って後ろを向いた。
「待って!」
何歩か歩いたところで背後から大きな聞こえた声が、フロア全体に響き渡った。運悪くエレベーターホール付近には、先ほどまでいなかった社員数人が
「大きい声出さないでください!」
トイレの入り口のドアが閉まったことを確認してから注意すると、松木さんは申し訳なさそうに「ご、ごめん......」と呟いた。その伏し目がちな視線は、ともすれば泣き出してしまいそうなほど不安な表情を演出していた。応接室に入った瞬間以降は一度もその顔を見ていなかった私には、松木さんがいつからこんな表情を浮かべていたのかは分からない。
そんな松木さんがどんな言葉を発するのかを待ってみるけど、やはり一向にその口が開く気配はない。狭い空間に入ったことで更に際立つ静寂に痺れを切らした私は、自らこの静寂を破ることにした。
「営業で訪問した先でお手洗いを借りるのは、マナー的には良くないと思います」
松木さんの視線が一瞬だけ私の視線と繋がった後、すぐに逸らされて行き場を失ったように迷い始めた。
「......ごめん。私、訪問営業とかあんまりしたことなくて」
「それなのに、急にここに来させられたんですか」
「いや......ここに来たのは、私が自分で考えたことで......」
「当日ギリギリでアポを取るのもあまり良くないですね」
私からの注意を受けた松木さんは、「ごめん」と呟いてから項垂れてしまう。そんな松木さんに少し動揺しつつも、「私に何か用ですか?」と声をかける。それに反応してゆっくり顔を上げた松木さんは、ジャケットのポケットから何かを取り出した。
「......これ」
そう言って差し出されたのは、私のスマホだった。受け取って電源ボタンを何度か押してみるけど、画面が明るくなることはない。予想通り、充電が切れているようだ。
「家に忘れてたから......」
「......わざわざ、ありがとうございます」
「......スーツはクリーニングに出してるから」
「......お手数をおかけして申し訳ないです」
それから、再びしばらく沈黙が流れた。誰かが入って来ることもなく、私たちが黙ってしまえばすぐに静寂は復活してしまう。また何か会話を切り出そうかと考えていると、松木さんが先に口を開いた。
「この前のこと、謝りたくて」
「......この前って?」
当然、「この前」が何を指しているのかは理解していた。だけど、松木さんが「この前」の事に対してどう思っているのかを聞き出したくて、一度松木さんが切り出した話題をそのまま続けてみる。
「その......無理やり......キスしたこと」
「謝りたかったんですか?」
「だって......早川さん、怒ってると思ったから」
もう一度、松木さんの瞳が私の方へ向けられる。それが例の瞬間と同じ潤んだ瞳に見えて怯みそうになってしまう。なんとか正気を保ったまま、松木さんの言葉に答える。
「怒ってますよ」
意図的に少し強い口調で告げると、また松木さんの視線が逸れる。今の松木さんは、眼を動かすことしかできなくなっているみたいだ。微かな声で「そうだよね......」と呟く松木さんに向けて、言葉を繋げる。
「......特に、今の松木さんに対して怒っています」
また私の方へ上がってきた視線から、今度は私が目を逸らしてしまう。
「あんな事をして私を困らせて。その瞬間は怒るというより、すごく怖かったんです。あんな事をされた意味が分からなくて。でも、なんとか冷静になって、もう一度松木さんと会って話をしなきゃと思ったから、今日の夜にでもお家に伺おうと思ってたんです。そうしたら、いきなりここに来るって言うし、いざ会ったら普段通りの顔で主任と話してるし。そんな松木さんを見てたら、だんだんムカムカしてきて。この人は、どういうつもりでここにいるんだろうと思って」
そこまで話しても、松木さんからは何も反応がない。何か返答を待った方が良いかなという考えも頭を過ぎったけど、一度飛び出した私の言葉は止まってくれなかった。
「あの時、私も何も言わずに逃げ出して来ちゃったし、もしかしたら松木さんも私と会い辛いと感じてたりするんじゃないかなと思ったから、私から松木さんに歩み寄って、しっかりお話しなきゃって思ってたんです。なのに松木さんは、仕事を盾にして無理やり私の前に現れて。どういうつもりなんですか?私に何か言って欲しかったんですか?」
「......連絡もできなくて、早川さんのお家も知らないから......これしか会う方法が思いつかなかったの」
ごめんなさい、と小さな声で呟いた松木さんとは対照的に、私は声のトーンを上げていく。
「松木さんなら、仕事用のメールアドレスを使ってでも私と連絡を取ろうとするんじゃないかと思ったんですけど。それに、主任には今日のアポを取る連絡をしている訳ですから、やっぱり直接私に連絡するのを避けていたんじゃないですか?」
少しずつ自分の声が大きくなっていることに気づきながらも、それを抑えることはできない。そのままの状態で、私が一番聞きたかったことを確認する。
「そもそも私、松木さんの本心が分からないんです。いつも表情をコロコロ変える松木さんが何を考えているのか、どれが本当の松木さんなのか、掴めないんですよ。確かに、そんな松木さんとお話することが楽しくもありましたけど。そんな中で、あんなことをされて......『好き』だなんて言われて。松木さんが冗談でそんな事を言ってキスをしてくるような人なのか、それとも本当に......私のことが好きなのか、それも分からなくて。もし冗談だったなら逃げ出した私がバカみたいだし、冗談でそんな事をしたことに対して怒らなくちゃいけないから。逆に、あの言葉が本心だったなら......しっかり返事をしないといけないと思いますし。だから、教えてください。あの言葉とキスは......本心なんですか?」
松木さんの方を見ると、まだその視線は私の方へ向いていた。今日初めて、私たちの視線が繋がったままの状態が保たれる。
「......本心だよ」
しばらく閉じられていた松木さんの唇が開いた。
「本当に......早川さんが好き」
「それは......要するに......恋愛的な意味ですか?」
そう尋ねると、松木さんは小さく頷いた。さっきまでの弱々しい表情と比べると、わずかに力強さを取り戻したように見えるその眼差しを見る限りは、その言葉に嘘は無いように見えた。
「それは......いつからですか?」
「......最初に会ったときから」
「そ、そんなに早くですか?」
会話の間を埋めるための質問に対して、予想外の返答があって驚いてしまう。最初に会ったときなんてほとんど会話もしていないし、私の頭の中は真月佑奈の事でいっぱいで、松木さんの眼もろくに見れなかったのに。そんな状態の私のどこに好きになる要素があったのだろうか。
「どうして......私なんかを?」
たくさん話したせいで歯止めが利かなくなったのか、別に訊かなくてもいいことを声に出してしまう。
「......可愛いから」
あの日も言われたその言葉。そのときはお世辞だと思っていたけど、その経緯を踏まえてから改めて聞くと妙に生々しく聞こえてしまう。抱えていた怒りを松木さんにぶつけたことで空いた心の隙間を、新たに気恥ずかしさが埋めていく。
「その......もちろん見た目もなんだけど、すごく緊張しながら私の前に座っている感じとか、私が顔を覗いたら慌てて目を逸らすところとか......全部が可愛いなって。食事に誘っても遠慮深そうにしていて、それでも私の話を笑顔で聞いてくれて、少しずつ心を開いてくれているのが伝わってくるのも......全部が好き。家に誘ったときも......」
「わ、分かりました!分かりましたから」
静かなまま熱を帯びていく松木さんの言葉に耐えられず、それを制止する。それでも松木さんは止まることなく、矢継ぎ早に言葉を繋いでいく。
「家に誘ったときも恥ずかしそうにしていたのに来てくれて、カシュともすぐに仲良くなってくれた。ずっとドキドキしてたんだよ。何回も好きって言いそうになるのを我慢してたんだけど、早川さんから『綺麗だと思います』って言われた瞬間、耐えられなくなっちゃって......気がついたら......ごめんね」
確かにその本心を知りたいとは思っていたけど、まさか松木さんが私に対してここまで大きな感情を抱いていたのは想像していなかった。
その予想以上の熱量を受けた私の中に、あの時と同じように逃げ出したいという思いが浮かび上がる。ただ、松木さんが話してくれたその気持ちと、私はしっかり向き合わなければならない。その上で、松木さんの気持ちに対して返事をしなければいけないんだ。
「松木さんの本心は分かりました。そう思われているのは嬉しい......とは言えないですが。その気持ちは、受け取っておきます。でも、申し訳ないですけど、その気持ちに応えることはできません」
私の言葉を聞いた松木さんが小さく頷いたように見えた。微かな反応を確認した私は、その理由の説明を続ける。
「松木さんの言う通り、自分でも私は松木さんに対して心を開いていると思います。あのとき言ったように、松木さんと一緒にいると楽しいのも事実です。それに......確かに松木さんは綺麗な人だとも思ってます。ただ、その想いが松木さんと同じ感情には結びつかないと言いますか......私は松木さんをそういう対象としては見れません。松木さんの恋愛対象が女性だからと言って、私は別に偏見の目で見たりはしませんよ。でも、自分はそうではないので......ごめんなさい」
自分なりの言葉で素直な気持ちを伝えた。松木さんを傷つけないように、慎重に言葉を選びながら。
「......ありがとう」
私の言葉に対して松木さんから返ってきたのは、想定外の感謝の言葉だった。
不安が溢れ出していたその顔には、少しの笑顔が戻っている。
仕事をしているときの笑顔でも、あの猟奇的な笑顔でもない、控えめで素朴な笑みだった。
何に対して礼を言われたのかが分からず混乱していると、松木さんがゆっくり話し始めた。
「私、もう早川さんが口を利いてくれなくなっても仕方ないと思ってた。それくらいの事をしちゃったから......でも早川さんは、ちゃんと私の気持ちを汲み取ってくれた上で、直接話してくれた。それだけで嬉しいの。だから......ありがとう」
そんな風にお礼を言われるとは思っていなかったから、どう反応したら良いのか分からなくなる。言いたかったことは全て言えたし、次にどんな言葉を言うべきかを必死に考える。
「えっと......じゃあ、私そろそろ戻らないとマズイので」
その結果私の口から出たのは、そんな会話の流れを切るような言葉だった。でも実際のところ、もう十分以上は松木さんと二人きりで話しているわけで。
失礼します、と言って松木さんの横を通り抜けようとした瞬間、右腕を掴まれた。少し急いで歩いていた私は後ろから引っ張られるような状態になり、バランスを崩してそのまま松木さんの胸に倒れ込んでしまった。
「ご、ごめん!」
私が声を出す前に、松木さんが慌てて私を身体から引き離した。
「な、なんですか!」
「いや......えっと......」
その慌て方を見ると、松木さんは私を引き寄せたかったわけではなく、単に何かまだ話したいことがあったようだった。事故とはいえ私を無理に引っ張るような形になったことを反省して、離した手で自分の髪の毛を撫でながら言葉を探している様子だった。
いつまでも何も言えなさそうな松木さんに私の方から助け舟を出してあげることにした。
「まだ何かありましたか?」
「えっと......これからも連絡してもいい?」
「え?」
「また、一緒にご飯とか......行ってくれる?」
「ああ、いや......えっと......」
松木さんにそう訊かれた瞬間、私の中には迷いが生じた。
私が前もって考えていたのは、スマホをどう返してもらおうかという事と、しっかり自分の気持ちを伝えてあの日の出来事を清算することだけ。しかもそれは、今後の仕事に支障が出ないようにという事が第一で、松木さんとの友人としての関わりを続けていくことに関しては全く考えていなかった。そんな日々がくることはもう無いと、勝手に思い込んでいたから。
あの出来事に関する話をしたばかりで、すぐにそんなことを尋ねてくる松木さんは、少し都合が良すぎるような気もしてしまう。
でも。
本当に嫌なら、すぐに「会いたくないです」と答えてこの場を離れればいいのに、私は迷っている。「これからも松木さんと会う」という選択肢を、すぐに捨て去ることができていない。つまり、今後も松木さんと会うことを私は百パーセント嫌がっているわけではないのではないか。
もちろん、あの出来事を無かったことにはできないけど、それを踏まえたとしても、これからも松木さんと仲良くしていけるような気がしている......かもしれない。
「......ダメ?」
私の迷いに終止符を打ったのは、そんな松木さんのか細い声と、不安げな表情だった。
ダメと言ったら、その場で泣き崩れてしまいそうなほど、もう限界寸前に見えたから。
「......私は松木さんを好きにはなれませんよ」
「分かってる。それでもいいの」
「......もうキスとかしないでくださいね?」
「うん。絶対にしないから」
「それなら......いいですよ」
そう伝えると、松木さんの表情がパッと明るくなった。
その切り替わる瞬間を見た私は気がついた。
この雰囲気の切り替えは、おそらく松木さん本人が意図しているわけではないということに。
これは純粋に、自分の感情を包み隠さずに表現していただけなんだ。
私は松木さんの本心が分からないと思っていたけど。
私に見せる様々な表情のすべてが、本当の松木さんなんだ。
「じゃあ......行きましょう」
「うん」
二人で外へ出たところで、そこが女子トイレだったことを思い出した。どれくらいの時間が経ったのか分からないけど、この間に誰も入ってこなかったのは奇跡に近いと思う。
今度こそビルの出口まで松木さんを送ったところで、忘れていたある事を思い出した。
「あの......いま私のデスクに松木さんから借りた部屋着が置いてあるんですけど、取って来ましょうか?」
「うーん......いいよ、取って来なくても。早川さんにあげる」
「え、いや......」
「これからも仲良くしてくれるお礼に、プレゼント」
「......調子に乗らないでください」
すっかりいつもの調子に戻っている松木さんに、全くこの人は......と呆れながらも、不思議と先ほどまでのような怒りは湧いてこなかった。
松木さんを見送ってから慌ててデスクまで戻った私は、やはり主任に軽く注意された。「松木さんの体調が優れなかった」という言い訳をしてから仕事に戻った私は、その空白の時間を取り返すために自ら残業に名乗りを上げ、主任が担当する予定だった作業を引き受けたのだった。
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