12th

 遠くの方から誰かの声が聞こえる。ゆっくり目を開けると、薄暗い空間の中で光るテレビにプロ野球中継が映し出されていた。ちょうど誰かがホームランを打ったらしく、実況アナウンサーが興奮気味に叫んでいた。どうやら座椅子に座ってテレビを観ていたうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。今が何時なのかを確認しようとしたところで、スマホを失くしていたことを思い出す。


 昨夜、松木さんの家から逃げ出して駅に向かった私は、改札前でスマホが無いことに気がついた。松木さんの家に忘れてきたということはすぐに理解できたが、もう一度あの家に戻るという選択肢は私の中には無かった。そのまま何年か振りに現金で切符を買って終電に飛び乗ったまでは良かったものの、明らかな部屋着姿でパンプスを履いた女がビジネスバッグを持って電車に乗っているという状況は、周囲の酔っぱらったサラリーマンの眼にも異様に映ったらしく、混雑している車両の中でも私の周りだけには妙なスペースが空いていた。


 家に帰ってすぐに寝室のベッドに倒れ込んだが、お酒を飲んで眼が冴えてしまっていたことに加えて、眼を閉じる度に松木さんの顔が瞼の裏に浮かび上がってしまって全く眠れず、仕方なくリビングへ移動して、電気も点けずにテレビに映る映像をぼんやり眺めていた。どれくらいで眠りに落ちたのかは分からないけど、朝の情報番組を最後まで観てしまった記憶がぼんやりと残っている。


 壁にかかっている時計を確認すると、その針は4時前を指していた。プロ野球の試合が行われていることから考えると、おそらく朝の4時ではなく16時の方だろう。土曜日のデーゲームが中盤を迎えていた。


 あの出来事からもう15時間近くが経過しようとしているのに、あの衝撃は一切薄れていない。


 松木さんにキスをされた上に、「好き」と言われてしまった。


 あんな事になるなんて想像もしていなかった。


 そんな風に見られていたなんて知らなかった。


 私が松木さんに対して抱いていた印象は「真月佑奈と同じ顔」の「年上の優しい人」というだけで、当然私は松木さんをで見たことは無かった。


 それ以前に、そもそも私たちは女同士。お互いが恋愛対象になるなど、私が考えないのは当然だ。


 確かに松木さんは綺麗な人だと思うし、その瞳に見惚れてしまっていたのも事実。でも、それは単純に「綺麗な物」を見ていたいという欲に過ぎず、夜景や星空を見ているときの感情と同じようなものだ。あるいは、憧れだった真月佑奈と同じ瞳を目の当たりにできていることに多少の興奮を覚えていたのかもしれない。


 松木さんが私に言った「可愛い」という発言だって恋心に繋がっているとは思いもせず、カシュに対して抱くような「可愛い」と同じ意味合いだと思っていた。あの出来事を経た上でもう一度、松木さんから言われた「可愛い」という言葉を脳内で再生してみると、その意味合いが全く変わって感じられて背筋が凍る。


 松木さんの家で起こった一連の出来事は夢だったのではないかという希望的観測を浮かべてみるけど、そんな事を考えている今でも私は松木さんから借りた部屋着に身を包んでいて、その希望は一瞬にして打ち砕かれてしまう。自分の格好が目に入る度に松木さんを思い出してしまうような気がして、座椅子に座ったまま部屋着を脱ぐ。それを畳んで重ねたところで、昨日私が着ていたスーツも松木さんの家に忘れてきたことに気がついた。


 初めて行った人の家でシャワーを借りた上に、自分の着替えとスマホも置きっぱなしで「お邪魔しました」の一言すら言わずに部屋を飛び出して帰るという行為は、冷静に考えてみれば失礼極まりないと思う。でも、そんな状況に至る原因を生み出したのは他ならぬ松木さんであって、私が悪いわけではない......と自分に言い聞かせる。


 今からすぐにでも忘れ物を取りに行くというのが一番良い選択肢だということは分かっている。だけど、昨日の今日で松木さんに会うのは怖い。一連の出来事を忘れようとしても、松木さんと対面してしまえば嫌でも思い出してしまう。それに、あの出来事を経た上でどんな話をすれば良いのかも分からない。とにかく今は、「忘れ物を取りに行く」という選択肢以外で何か最善の策は無いかを考えるほかないのだ。


 スーツの一式は他にも替えがあるから、とりあえずは大丈夫。問題はスマホだ。この時代にスマホなしで生活するのはかなり厳しい。仕事上のやり取りは仕事用のスマホがあるから、とりあえずはそれで代用するしかないけど、いつまでもそれをメインで使うことはできない。固定電話なんていう物もこの家には置いていないから、知り合いと連絡を取ることもできない。


 だけど、今の私がいくら松木さんと会うことを避けたとしても、おそらく近いうちにまた仕事で会う時が来る。その時が来たら、どんな顔をして会えばいいのだろう。


 松木さんは、どんな顔をして私の前に現れるのだろうか。


 あの人のことだから、いつもと変わらない笑顔で何もなかったように振る舞う可能性が高い。


 そんな松木さんを想像していると、何故か少しずつ腹が立ってきた。


 自分からあんなことをしておいて、それを無かったことにするんですか。


 あんなことを言って私を動揺させておいて、自分は平然としているんですか。


 あんな顔をしていおいて、次に会ったら平気な顔ですか。 


 自分が頭の中でイメージした松木さんの態度に腹が立ってきた。


 忘れたいのに、向こうから無かったことにされるのは釈然としない。そんな意味不明な感情が芽生えてきたのは、まだお酒が抜けきっていないせいかもしれない。


 これ以上考えていても頭が混乱するだけだ。そう思った私は、もうひと眠りすることにした。眠ってしまえばこの思考も落ち着いてくれるはず。


 寝室まで移動することすら面倒に感じて、下着姿のままリビングのフローリングに横になった。素肌に伝わるひんやりとした冷たさに心地よさを覚えながら瞼を閉じる。点けっぱなしになっているテレビからは、野球の試合が終わったことを伝えるアナウンサーの声が聞こえていた。




 感覚としては一瞬だった。目を開けると、さっきまで薄暗かった部屋は完全に闇に包まれていて、ニュース番組を映し出すテレビの画面だけが眩しく光っていた。この番組が放送されているということは、もう時間は夜の9時を過ぎているということになる。あと3時間ほどで土曜日が終わってしまう。


 夜中にこの家に帰って来てから、何も食べていないし、シャワーも浴びていない。胃はグルグルと音を立てているし、地肌がフローリングに微妙に貼りついて気持ちが悪い。だけど、今の私にはそんなことはどうでもよくて、とにかく何も考えずに寝てしまいたかった。何時間も寝ていたのにまだ眠れるのかが不安だったが、興味のないテレビを眺めているうち、すぐに瞼が重たくなった。


 それからも何度か目を覚ましたが、その度に体勢を変えたりテレビを見たりしていると、すぐに眠りに引き込まれた。覚えているのはトイレに一度行ったことくらいで、文字通りの飲まず食わずの状態でひたすら眠り続けた。私の本能が松木さんについて考えることを拒否していたのかもしれない。いくら眠っても眠り足りなかった。




遠くから聞こえてきた電子音で目が覚めた。ゆっくり目を開けると、至近距離でフローリングの木目が見えた。いつの間にか、うつ伏せになって眠っていたらしい。少し顔を上げると、すっかり部屋は明るくなっていた。とは言っても、カーテンを閉めているからまだ薄暗さは残っているけど。


 一体、合計でどれくらい眠ったんだろう。


 少し頭痛がする。


 それに喉も痛い。


 何か聞こえた気がするのは気のせいかな。


 うつ伏せになったままでそんな事をぼんやりと考えているうちに、また少し瞼が重くなってきた。もう一度眠ってしまおうかと思ったその時、リビングのドアが開く音が聞こえた。


「琴乃!大丈夫!?」


そんな悲鳴にも近い声と共に、ドタドタと激しい足音が近づいてくる。驚いて顔を上げると、私の何倍も驚いたような表情をした香織が、肩で息をしながら立っていた。


「......びっくりしたぁ。なんで香織が家にいるの」

「なんでじゃないよ!今日遊びに行くって言ってたでしょ!」


肩で息をする香織に「ああ、そうだった」と返すと、自分でも驚くほどしゃがれた声が出た。


「昨日の朝に『明日何か買って行こうか?』って送ったのに返信来ないし!電話をかけてみたら電源が入ってない、みたいな音声が流れるし!!いろんな友達にも連絡してって頼んでも、やっぱり電話繋がらないって言うし!!!本当に心配だったんだから!!!!」


どんどん声を大きくする香織が、右足でフローリングをどんどん踏み鳴らしながら訴えてくる。


「ごめん。とりあえず下の階の人に迷惑だから、それ止めてくれない?」


何度か咳払いをしてから言うと、香織は頭を掻きむしりながらその場にしゃがみこんだ。


「まあ......良かった。琴乃が無事で」


顔の前に垂れ下がった長い髪の隙間から、ぽつりと香織が呟いた。ため息交じりで少し震えているその声を聞いて、ようやく私の中に「悪いことをしたな」という感情が顔を出した。


「ごめんね。スマホ失くしちゃってさ。もしかしたら充電が切れてるのかも」

「琴乃が丸一日返信をよこさなかった事なんて今までなかったから。昨日の夜に電話してみたら繋がらない。時間を空けてから電話しても変わらなくて......本当に焦ったんだから。インターホンを押しても返事がないし。それで玄関の扉を引いてみたら、鍵もかかってないから」

「え?鍵、かかってなかった?」

「だから私がここに入れたんでしょ。女の一人暮らしで、オートロックでもないんだから忘れちゃダメだよ」

「......気をつけます」


久しぶりに立ち上がると、リビング全体が傾いているような不思議な感覚に襲われた。目が廻っているような気持ち悪さの中で時計を確認すると、9時を過ぎていた。


「やばい。私、合計で24時間近く寝てたかも」

「はぁ!?」

「昨日の朝から夕方まで寝て、1回起きてから夜まで寝て、それからも起きて寝ての繰り返し」


私の土曜日の過ごし方を聞いた香織は、文字通り「開いた口が塞がらない」様子で、私に呆れかえった視線を送ってくる。


「......とりあえず、何か着なよ」

「......そうだね」

「ほら、これ」


そう言って香織は、足元に畳まれていた黒い部屋着を拾って渡してきた。それを見た瞬間、尾を引いていた眠気が一気に吹き飛び、慌ててそれを奪い取る。異常に俊敏に部屋着を掴んだ私を不思議に思ったのか、香織が「どうしたの?」と首を傾げた。


「あ、いや......これは洗濯する」

「そう。じゃあ、他のを着れば」

「だ、だね」


そう言って寝室へ向かおうとすると、「待って」と香織に呼び止められた。


「一日中寝てたってことは、何も食べてないの?」

「うん」


頷いた瞬間、一気に空腹感が押し寄せて来た。


「じゃあ、何か作ってあげるよ。何か材料買ってくるから、その間にシャワーでも浴びておきな」

「お願いします」


確認しなくても私の冷蔵庫に食材なんて無いことを知っている香織に、さすが幼馴染だなと感心する。荷物は置いて財布だけを持って玄関から出て行く香織を見送った後、寝室に向かう。


 適当に着替えを取り出していると、ベッドの枕元に置かれていた一冊の雑誌が目に入った。数日前にベッドで横になりながら読んでいた、真月佑奈が表紙になっている音楽雑誌。写真の中の真月佑奈と目が合った私は、慌ててそれを裏返した。まっすぐカメラを見つめているその表情を見た瞬間、脳内に松木さんがフラッシュバックしてしまったからだ。


 私を見つめる、松木さんの潤んだ瞳。


 私の手に絡んでくる細い指。


 唇に重なった柔らかい感触。


 一日中眠ったくらいではこの記憶は全く色褪せることはなく、むしろ酔いが完全に冷めてしまったことで、さらに鮮明にその出来事の異常さを思い知らされてしまう。


 初めて松木さんに会ったときには、その眼を見る度に真月佑奈を思い出していたのに。今の私は真月佑奈の写真を見て、脳内に姿を現す松木さんにどぎまぎしている。たった3週間でこんな逆転現象が起きてしまうなんて。これから真月佑奈の音楽を聴く度にこんな状態になってしまうのは困るんだけど。


 松木さんの家で浴びて以来のシャワーを終えた私は、洗濯機を回してからキッチンへ向かった。冷蔵庫から2リットルのミネラルウォーターを取り出し、そのままペットボトルに口をつけてがぶ飲みする。食道を通った冷たい水が空っぽの胃袋に溜まっていくのがはっきり分かった。よくもまあ、丸一日近くも飲み食いせずに眠り呆けていたものだな、と自分で感心してしまう。


 普段なら、暇さえあればスマホに触っているけど、スマホが無い状態で出来ることと言えば、やはりテレビを観ることくらいだ。全く興味もない旅番組を眺めていると、香織が返って来た。「鍵をかけろって言ったでしょ!」と叱られたのは言うまでもない。




「何かあったの?」


フォークでパスタを巻いている香織に訊かれた。別に、と言いたいところだけど、丸一日裸で眠っていたなんて聞いてしまったら、そんな疑問を持つのは当然だ。それに、私がいくら「何もないよ」と主張したところで、香織にはお見通しだろうから、隠すだけ無駄かもしれない。


「それなりに衝撃的な事があってさ。34時間も寝るくらいには疲れちゃう事が」

「それ、よっぽどだからね」

「よっぽどだよ。最近仕事で知り合った人と昨日......じゃなくて一昨日、一緒にご飯食べたんだけど、そのまま家にお邪魔させてもらったの。私はただ楽しくお話できればいいなって思ってただけなんだけど......」


そこまで話したところで、その先に待ってる出来事を改めて口にすることに途端に緊張してしまい、言葉が出なくなってしまう。私が落ち着くために香織が買ってきてくれたルイボスティーを飲んだところで、香織はなんとなく事情を察したようだった。


「......そういう話?」

「......そういう話」


話の方向性を確認した香織は、「それで?」と続きを促してきた。


「それで......いきなりキスされて、好きって言われた」

「それで?」

「それで......怖くなって逃げて来た」

「それで?」

「それで......スマホを忘れてきた」

「......え、それだけ?」


香織から思いもよらぬ反応が返ってきた。


「それだけってどういう意味」

「キスされただけ?それ以上は無かったの?」

「そ、それ以上って......無いよ」


もしあのとき私が逃げ出さなかったら、本当に「それ以上」の事があったかもしれないと思うと恐ろしくなってきた。そんな私を差し置いて、香織は何故か「なーんだ」とがっかりしていた。


「なんだ、ってなによ」


人の気も知らずに呑気な反応の香織に腹が立ってそう訊くと、香織はビールを一気に飲み干してから、空になった缶をテーブルに叩きつけた。


「だって、キスされて怖くなったなんて。別に恋愛経験が無い訳でもない24歳のいい大人が、キスをされて怖気づいちゃったの?」

「そ、そういう問題じゃない。だって、そんな事をされるなんて全く思ってなかったんだよ?怖いに決まってるじゃん」

「お互い大人なんだから、なんとなく想像はつくでしょ。他に誰かいたの?」

「私たちだけ......」

「家に行こうって言ったのはどっち?」

「向こうだけど」

「じゃあ、琴乃がお誘いを受け入れたってことじゃん」

「いや、お誘いって言い方は......」

「家に来てくれた時点で、OKだと思っちゃうんだよ。男なんて、そういう生き物なの」

「......え?」


赤ら顔で妙に得意気な表情を浮かべて語る香織に、思わず驚いたような反応をしてしまう。そんな私の反応は香織も疑問に思ったらしく、「『え?』て何よ」と訊き返されてしまう。


「何って......いや、えっと......」


説明するべきかどうか迷い、適当に間を埋める言葉を並べていると、香織がその話題についてさらに掘り下げ始めた。


「そもそも、琴乃が仕事で知り合った人の家に行くなんて珍しいじゃん。高校に入ったときでさえ半年以上は私としか話さなかったくらい人見知りなのに。琴乃が家に行っても良いと思えたっていうことは、それなりに気を許してたんでしょ?そういう事になるって少しも考えなかったの?」

「だ、だって......」


 だって、女同士だから。


 その一言を言うべきか迷ってしまう。


「キスをされた」という話だけを聞いた香織が、その相手が男だと決めつけるのは仕方ないと思う。むしろ、その方が自然だ。私が男の人と2人で食事をして、そのままの流れで家に行ったとなれば、それは確かに香織が言うように私にも落ち度はあるかもしれない。私だって松木さんが男の人だったら、ある程度は警戒しただろうし。


「顔、真っ赤だよ?」


 妙に楽しそうな笑顔の香織にそう指摘されて、確かに顔が熱くなっている気がしてきた。なぜか、眼の下まで涙が込み上げてくるような感覚がある。


「あ、赤くないよ!」

「何、その反応。キスを思い出してるんじゃないの?」

「ち、違う!ビールのせいだって」

「あんたは、ビール1本くらいで赤くならないでしょ。そんなに良かったの?その人のキス」

「そんな訳ないでしょ!」


怒った私に「ごめん、ごめん」と謝る香織だったけど、顔はまだニヤけていた。私がキスの話なんかをした事がないから、面白がっているんだろう。フォークを投げつけてやりたいけど、流石に危険なので踏みとどまる。


 それに、「実は満更ではないのでは?」的な揶揄われ方をされてしまうと、ますます相手が女性だということを切り出しにくくなってしまう。そんな迷いや恥ずかしさが複雑に入り組んで、まだお腹に余裕があるはずなのにパスタが全く喉を通らなくなってしまう。


「で、どうするつもりなの?」

「何が?」

「これから、その人と」

「ど、どうするも何もないよ......」

「振っちゃうんだ」

「振るっていうか......このまま無かったことにならないかな、と」


私がそう言うと、香織はフォークを置いて私に体を向けた。それにつられて私もフォークを置き、向かい合うように姿勢を正した。


「本当に琴乃にその気がないなら、直接会って断らないと」

「......どうしてさ」

「面と向かって『好き』って言ってくれたのなら、面と向かって断るのが礼儀じゃない?男の中には、抱くことしか頭にない奴もいれば、付き合ってからも好きなんて言ってくれない奴だっているんだよ。特に大人同士の恋愛なんか、なし崩し的にそういう関係になってることも多いし。私だって今の彼氏とは何回か寝てるうちに......

「聞きたくない」

「とにかく、そんな中で、その人はしっかり告白してくれたんだから。まあ、先にキスして琴乃に逃げられてるのはダサいと思うし、同意なしに手を出そうとしたのは良くないけど。『好き』って言ってくれたのなら、それだけ本気だってことだよ。それを断るなら、きちんと自分の言葉で伝えないと。良い大人のくせに、家に誘われてそんな事になるって全く想定しなかった香織にも多少責任はあると思う。『知らんぷりしておけば、忘れられるだろう』なんて考えは失礼だよ。フラれるよりも、無かったことにされる方が傷つくんだから」


つい数秒前までヘラヘラしていたとは思えないほど真剣な顔で訴えてくる香織に、何も言えなくなってしまう。その様はもはや「説教」と言ってもいいほどで、子供の頃に学校の先生に怒られた時のことを思い出した。実際、今や香織は高校の先生なんだけど。


「それに、仕事で知り合った人なら今後も会ったりするんじゃないの?」

「......たぶん」

「そんな都合よく、お互い無かったことになんてできないと思うけど」

「......はい」

「次に会ったときに、ちゃんと話をした方が良いと思うよ」

「.....ですね」

「分かれば良し。ほら、さっさと食べよう。パスタが伸びちゃうから」


そう言って香織は、再びフォークを手に取ってパスタを食べ始めた。


 結局、相手が女性だということは言いそびれてしまった。


 ほとんど一方的に捲し立てられた感じだったけど、それでも香織の話を聞いて決心がついた。


 次に松木さんと会ったときに、あの出来事についてしっかり話す。


 そして、私にはそんな想いはないということをしっかり伝えよう。


 一旦冷静になってそう思うことができたのは、香織が駆けつけてくれたおかげかな。


「香織」

「なに?」

「なんか、ありがとう。少し落ち着いた」

「......うるさい」

「えっ」

「お礼とかいいから。琴乃らしくないから。さっさと食べて」


そう言って琴乃は、お皿を持ち上げてパスタの残りをフォークでかき込み始めた。まるでお茶漬けのCMのように、豪快に。パスタってそんな食べ方する物じゃないと思うけど。


「顔、真っ赤だよ?」


そう指摘すると、香織は「ビールのせい」と言ってパスタを完食してしまった。昔から香織は礼を言われるのが苦手で、「ありがとう」と言われる度に態度がよそよそしくなる。それに、お酒に弱いくせに雑な飲み方をするのも昔から。教師になっても何も変わらないな、と安心しながら、私もフォークを手に取った。


 お腹を満たした後は夜になるまで、酔っぱらった香織から彼女が顧問を務める料理部の生徒の愚痴を聞かされた。真面目にやってくれないとか、自分に友達感覚で接してくるとか。それもきっと香織の照れ隠しで、本当は生徒たちが大好きなんだなという事が伝わってくる、愛のこもった愚痴だった。


 その後、酔っぱらいながら大量のカレーを作ってくれた香織は「明後日までは日持ちするから」と言い残して帰って行った。案の定、「ありがとう」と言ったら無視されたけど。


 カレーを食べながら私は、明日会社の帰りに松木さんの家に行ってみようかな、と考えていた。スマホとスーツ取りに行って、パジャマを返す。そして、松木さんからの告白についてしっかり話す。一度覚悟を決めてしまうと、自分でも意外なほど前向きに物事を考えることができるようになっていた。




 翌朝、松木さんのパジャマを入れた紙袋を持って出社すると、既に主任がデスクに座っていた。


「おはようございます」

「おはよ。何?その袋」

「まぁ、仕事終わりにちょっと用事がありまして」


へえ、と言った主任はパソコンのキーボードに手を置いたが、すぐに「あ、そうだ」と言ってこちらを向いた。


「松木さん、14時ごろに来るって」

「......はい?」


全く予想していなかった言葉に、立ったまま固まってしまう。そんな私の反応を見て、主任が意外そうに「聞いてなかった?」と尋ねてきた。


「......はい。知らなかったです」

「そっか。松木さんと仲良いから、てっきり聞いてるものかと思ったんだけど。なんか、急遽打合せしたい事ができたらしいんだけど、『急に来て頂くのは申し訳ないので、お伺いしても宜しいでしょうか』って」

「そ、そうですか......」


もともと今日会いに行くつもりではあったけど、まさかその計画が早まってしまうなんて。


 頭の中で想定していた松木さんとの会話パターンがガラガラと音を立てて崩れ去ってしまい、急に緊張が襲って来た。頭が真っ白になった私は始業時間になっても、しばらく何もせずに座っていることしかできなかった。

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