11th

「お疲れ様」


そう言って笑いながら、松木さんは私にウェットティッシュを差し出した。それを受けとり、顔に付着したカシュの唾液を拭き取る。しばらく舐められ続けていたから、もはや唾液のついていない箇所を見つける方が難しいくらいだ。顔を舐めるのはシャワーを浴びる前にしてほしかったけど、来客である私の顔を舐めてくれるということはそれなりに懐いてくれた証拠でもあるから、まあ良しとしよう。


「早川さんにも懐いてくれたみたいでよかったよ」


ソファに座る松木さんが、膝に乗せたカシュを撫でながらそう言った。私も「懐かれすぎな気もしますけどね」と笑いつつ、ソファに腰を下ろす。また松木さんの変なスイッチが入ると困るから、1人分のスペースを空けて端に座った。


「私が松木さんの服を着ているからですかね」


私の言葉を聞いた松木さんは「私の匂いとか付いてるのかな」と呟いて、自分が着ているシャツをつまんでカシュの鼻の近くに寄せた。


「するのかもしれないですね」


そのシャツの匂いを鼻をひくつかせながら感じ取ったカシュは、それから松木さんの脚と垂直になるように体を回転させて、そのまま寝そべるような姿勢になった。私の方へ向けられた2つの黒真珠のような瞳が、少しずつ細くなっていく。カシュは自分にとって初めての来客である私に対して警戒モードと戯れモードを繰り返して疲れたのかもしれない。微睡んでいるカシュがたまらなく愛おしく思えて、ソファの横に置いていたカバンからスマホを取り出し、その表情を写真に収めさせてもらった。


 そのシャッター音を聞いてカシュが眠そうにしていることに気づいた松木さんは、シャツの匂いを嗅がせることを止めて再びカシュの背中にそっと手を置いた。


 素足の上にカシュを乗せている松木さんは、その体温をはっきり感じているに違いない。この光景を見ていると、小学生の頃、寒い日によく香織の家で温かいくーちゃんを抱きながら居眠りしていたことを思い出した。香織のお母さんに「くーちゃんは湯たんぽじゃありません」と叱られたのを覚えている。


「早川さんは?」


小学生時代まで飛んでしまっていた意識が、松木さんの声で引き戻される。


「な、なんですか?」

「匂い、感じる?」

「......におい?」


何の事か理解できずに首を傾げていると、松木さんは私の着ているシャツを指さした。


「それ。私の匂いする?」


そんな質問が飛んでくることを想定していなかったから、一瞬何を訊かれているのかが分からなかった。自分の体臭でも気にしているのかとも思ったけど、その質問をする松木さんの顔は明るくて、何かを期待するような表情にすら見えるから益々分からなくなってしまう。


「......どうでしょうね。松木さんの匂いを知らないので」


いくら考えてもベストな答えが浮かびそうになかったから、そのまま正直に答えることにした。


 私の答えを聞いた松木さんは、今度は妙につまらなそうな表情を浮かべて「そっか」と言い残し、再び意識を膝上のカシュに向けた。やっぱりよく分からないけど、私の答えは期待通りではなかったみたいだ。


 また少しの間カシュの体を撫でてあげた後、松木さんはそっとカシュを抱いて立ち上がり、ケージの中にある寝床にそっと寝かせてあげていた。こちらへ戻ってくる時、また隣に座られたらどうしようかと思ったけど、松木さんはしっかり1人分のスペースを空けて座ってくれた。


 ソファの対面に置かれた大きなテレビは電源が入っておらず、その黒い画面がソファに腰掛ける私と松木さんの姿を鏡のように映している。ここに来てからどれくらいの時間が経ったのかが気になって部屋を改めて見渡したところで気がついたが、この家には時計がない。


 いくらなんでも物を省きすぎではないか。時計が無い家なんて初めて見た。まあ、「今どきスマホで確認できるし、腕時計だって持ってるし、必要ないじゃない」と語る松木さんが容易に想像できてしまうから、わざわざ理由を訊くことはしないけど。


 家に招いてもらっている立場で、松木さんの目の前でスマホを取り出して時間を確認するのは少し憚られるので、時間に関しては諦めることにする。終電に間に合えば問題ない。


 時間といえば、今日も松木さんは待ち合わせに少し遅れてきた。前回の待ち合わせでも遅れて来たから時間にルーズな人なのかと思っていたけど、この家に来て、なんとなくその理由が分かった気がする。


「松木さん。もしかして、カシュにご飯をあげてから待ち合わせ場所に来たんですか?」


ほとんど手つかずの状態で置かれていたコンビニ袋の中を探っていた松木さんに声をかける。一瞬こちらを見た松木さんは「うん」と頷くと、すぐに袋の中へ視線を戻してしまう。


 カサカサと音を立てながら、真剣な顔で袋の中に手を突っ込んでいた松木さんの表情がパッと華やいだ。そして袋の中からチョコレートの箱を取り出すと、ニコニコしながらフィルムを剥がし始めた。


 チョコが食べたくて、あんなに真剣な顔になっていたのか。可愛らしい人だな。私がそんなことを思っているうちに松木さんは、あっという間にチョコの包装を開けて、ひとつ口の中へ放り込んだ。


 カシュを抱いているときの松木さんは、まるで子供を溺愛する母親のように見えていた。それなのに、甘いミルクティーを片手にチョコレートを口の中で転がしている今の姿は、3時のおやつを楽しむ幸せそうな少女に見える。


 今日だけで、もう何種類の松木さんを目の当たりにしただろうか。


 あの猟奇的な笑顔で私に近づいてきたときの松木さんは、一体どんな事を考えていたのだろう。一体何が目的だったのだろう。


 まさか、単にレモンサワーを味見してみたかっただけなのか。そこでタイミングよく私がレモンサワーをこぼしたから、私の服に染み込んだそれを舐めてみたとか。


 本当にそうだとすれば、松木さんがもう一度同じ事をしようものなら、「普通に『ひと口ちょうだい』と言いなさい」と注意しなければいけない。あの異常な行動をする松木さんは、私の体に何度も震えを齎すほど恐ろしいのだ。少なくとも、いま私の前で2個目のチョコレートに手を伸ばしている女性と同一人物とは思えないくらいに。次の被害者が出ないよう、私が責任を持って指導しなければ。


「どうして、私がカシュにご飯をあげるために帰ったって分かったの?」


そんな疑問を口にしながら、松木さんはチョコレートの箱を私に向けて差し出した。私はその中からチョコを1つ掴み取り、包み紙を剥きながらその疑問に答える。


「前回も今日も、松木さんが待ち合わせ時間に遅れて来たので。遅刻癖のある人なのかなって思ったりもしたんですけど、カシュがいるのを知って、そういうことなのかなって思ったんです」


そこまで話し終わったところで、チョコレートを舌の上に乗せる。少し舌で転がしただけで、溶けだしたチョコから一気に甘味が口の中に広がっていく。本当はカカオの割合が多めのビターなやつが好きなんだけど、久しぶりに食べる甘ったるいチョコレートも悪くない。そのとろけるような食感が心地よく感じるのは、疲れた体が甘味を求めているからかもしれない。


「ごめんね、待たせちゃって」


今度はポテトチップスの筒を開けようとしている松木さんから、そんな謝罪の言葉を渡されてしまう。口の中のチョコレートに集中していたせいで何について謝っているのか分からなかったけど、すぐに途中だった会話を思い出してフォローの言葉を繋げる。


「いや、全然気にしないでください。先週は松木さんの連絡先も知らなかったので、合流できなかったらどうしようっていう不安がありましたけど。今は連絡先も知っていますし、理由も分かって安心しました」

「私も、間に合うだろうと思って待ち合わせ時間を決めてるんだよ。でも、どうしても仕事が終わってからカシュに会っちゃうと、遊びたくなっちゃうのよね。カシュがおかえり!って感じで迎えてくれるのが嬉しくて。お皿にご飯を入れてあげて、飲み水を入れ替えるだけで部屋から出て行こうとすると、もう行っちゃうの?みたいにクンクン鳴かれちゃうし。そうしたら、もう我慢できなくて......結局、抱きしめちゃうの」


抱きしめちゃうの、と言いながら松木さんは手元にあった物をぎゅっと抱きしめた。その胸元で抱かれているのがぬいぐるみか何かであれば絵になったんだろうけど、残念ながらそこにあるのは、のり塩味のポテトチップスが入った緑色の筒なわけで。大人の女性がパジャマ姿でポテトチップスの筒を抱きしめている光景は、あまりにも滑稽だ。


 こんな光景が生まれてしまうほど、松木さんはカシュを溺愛しているんだな。そう思うと、「待ち合わせに遅れないでください」なんて言えなくなってしまう。


「別に、私の仕事が終わる時間に合わせて待ち合わせ時間を決めなくても大丈夫ですよ。松木さんの仕事が終わって、カシュにご飯をあげて、存分にカシュを抱きしめてあげてから家を出ても間に合う時間にしてください」

「でも、かなり早川さんを待たせちゃうことになるよ?」


どれだけカシュを抱きしめるつもりですか?という指摘をぐっと堪え、「大丈夫です。待つことには慣れてますから」と言いながら松木さんの腕の中からポテトチップスの筒を救出する。ほんのり温かくなったその筒の中には、筒と全く同じ配色の細長い袋が入っていて、それを破って開けるとようやくポテトチップスと対面できた。


 薄黄色の上に緑の点が散らばったチップスを指で摘まんで、そのまま松木さんに筒ごと返却する。松木さんは筒の中を覗きこんでから私と同じように1枚手に取ると、「待つことに慣れてるって、どういうこと?」と首を傾げつつ、手に持ったそれを半分齧った。


「私、待ち合わせに遅れたことがないんです」

「え、すごくない?」


傾いていた松木さんの首が、シャキッとまっすぐに戻った。大きくて丸い眼が、さらに大きく見開かれている。


「そ、そんなに驚くことですか?」

「だって、遅れたことがないって凄い事じゃない?1回もないの?」


その言葉を受けてしばらく考えてみたけど、心当たりはなかった。待ち合わせだけではなく、学校や会社に遅刻した記憶もない。改めて考えてみると、これは私の唯一の長所かもしれない。


「1回もないですね。大勢で約束したときも、大体私が一番最初に到着してますから。でも別に自慢するつもりはなくて、単純に私の癖なだけなんですよ。心配性なので、なるべく早く着いておきたいだけなんです。それに加えて、今まで知り合った人たちも何故か時間にルーズな人が多かったですし、自然と待つことが当たり前になっちゃいました」


だから私のことはいくら待たせても大丈夫ですよ、と付け加えてから、手に持ったままだったポテトチップスを1枚まるごと口の中へ放り込んだ。夜中にスナック菓子を食べるのは久しぶりで、少しの高揚感が湧いてくる。


「普段は誰かと出かけたりする?」


こんなに美味しかったっけ、なんて思いながら2枚目のポテトチップスに手を伸ばしたところで、松木さんから新たな質問があった。


「そうですね......例の、犬を飼っていた幼馴染とは今でも会ってますよ。今は高校の先生をやってるんですけど、定期的にご飯食べたり、たまに旅行に行ったりしてますね。明後日も私の家に遊びにくる予定ですし。あとは高校、大学の頃の友達とかですかね」

「じゃあ、結構頻繁にいろんな人と遊びに行ったりしてるの?」

「いや、そんな事ないですよ。友達が多いわけではないですし、仲の良い人たちもみんな社会人になってからは忙しくてなかなか頻繁には会えないので。海外で働いている友達とか、もう結婚してお母さんになってる友達もいますよ」

「ふーん」


自分から訊いたのに、松木さんは何故か途端に興味を失ったように適当な返事を出して、再びコンビニ袋の中を漁り始めた。チョコレートもポテトチップスも少し食べただけなのに、また何か開けようとしているみたいだ。すっかり忘れられてしまったらしいテーブルの上のチョコレートが妙に寂しげに見えて、1つ食べてあげることにする。


「彼氏とデートとかしないの?」


 梅干し味のグミが入った赤い袋を開けながら、松木さんがまた新しく質問を投げかけてきた。会話にしてもお菓子にしても、どうやらこの人は飽き性なところがあるらしい。もしかしたら、私にこれだけ興味を持ってくれるのも今だけなのかもしれない。それなら今のうちに話せるだけ話しておいた方がいいかもしれないな。そんな事をぼんやり頭に浮かべながら、松木さんから提示された新たな話題について口を開く。


「もう3年以上彼氏なんていませんよ」

「......3年前はいたんだ」

「大学生の間はいましたよ。ちょうど高校と大学で1人ずつです」


そこまで話したところで案の定、返ってきたのは「ふーん」という気の抜けた声だった。今度は私が「ふーん」と言ってあげるために「松木さんはどうなんですか?」と訊いてみようかと考えたけど、その質問が頭に浮かんだ時点で答えはなんとなく想像できてしまったから止めた。カシュを飼い始めてからこの家に他人が来たのは私が初めてだと言っていたし、そもそも今日行ったようなレストランに私なんかを誘っている時点で察しはつく。


 真月佑奈に瓜二つなその外見を私が冷静に判断できているかは分からないけど、松木さんの顔は悪くない。むしろ、美人な部類に入ると思う。脚だって綺麗だし。このルックスで28歳という年齢なら、彼氏がいない方がおかしいくらいではないだろうか。それなのに彼氏がいないとなれば、何か性格に問題があるのかもしれない。もしくは、長く付き合っていて結婚も意識していた彼氏にフラれてしまい、その心に空いた穴と寂しい時間を埋めるための何かを私とカシュに求めているとか。


「彼氏ほしい?」


そう訊いてきた松木さんは、いつの間にかクッキーを食べ始めていた。この素早い切り替え方を見るに、決まった彼氏は作らずに、いろんな男を取っ替え引っ替えしながら遊んでいるという可能性もある。


「どうでしょうね。いたら楽しいのかもしれないですけど、なかなか出会いが無いですから」

「社内恋愛とかは考えたことないの?」

「うーん......実は男女関係なく同僚とはあまり親しくないんですよね」

「じゃあ、ナンパとかは?」

「される訳ないじゃないですか。松木さんくらい綺麗な人ならナンパされるのなんて日常茶飯事かもしれないですけど、私なんて街行く男たちの眼中にも入っていないと思いますよ」


 今までの人生で私に言い寄ってきた物好きな男なんて、今まで付き合った2人だけ。ナンパなんて、私とは別世界の人たちが楽しむ行為だ。そんな私とは対照的にすぐに「ナンパ」という発想が浮かんでくる松木さんは、やはり私の予想通り、たくさんの男たちに誘われ、大人の遊びを楽しんできたのだろう。


「本当にそう思う?」

「......何がですか?」

「私が綺麗だって?」

「は、はい」


妙に真剣な表情で尋ねられると、首を縦に振るしかなくなってしまう。本心ではあるから問題ないけど。私が嘘をついているとでも思っていたのか、私の答えを聞いた松木さんは一転して表情を和らげて「よかった」と呟いた。それから、久しぶりにチョコレートの箱に手を伸ばしたと思ったら、中から2つのチョコを手に取り、片方を左の手のひらに乗せて私の方へ差し出した。容姿を褒めたお礼か何かだろうか。ありがとうございます、と言って受け取ろうとすると、チョコが乗った松木さんの手がスッと引っ込んでしまった。


「早川さんも可愛いよ」


何事かと思えば、松木さんの口から飛び出て来たのはそんな言葉だった。


 今まで「可愛い」なんて元カレにすら言われたことがないし、もちろん自分でも思ったことがない。だから、その言葉が松木さんからの社交辞令のような「お返し」だという事にはすぐに気がつく。


 その言葉に対するお礼と、チョコレートをくれた事に対するお礼を「ありがとうございます」という言葉にひとまとめにして、私からの「お返し」としてポテトチップスをプレゼントした。


「まあ、仮に私の容姿が良かったとしても、いきなり見知らぬ男に話しかけられたりなんかしたら怖いですけどね。そもそも人見知りですし。この性格が治らない限りは、出会いなんて無いと思います」

「そうなの?早川さんからそんな雰囲気を感じたことないけど」

「たしかに、私も何故か松木さんに対してはあまり人見知りが出ないんですよね」

「......どうして?」

「どうして......でしょうね」


私にとって松木さんは、「人見知り」という性格を遥かに超えてしまうほど衝撃的な存在だから。でも、その理由をここで明かすとまた話がややこしくなりそうだから、正直に言うことは絶対にないけど。


 一方で、その理由を抜きにしても松木さんはすごく接し易くて、一緒にいると楽しいのも事実だ。社会人になってから今まで同僚の誰ともプライベートで遊ぶことがなかった私が、仕事の席で初めて会ってから3週間で家にお邪魔してしまっているのだ。私と松木さんは性格や嗜好も似ているわけではないと思うけど、何か波長が合うのかもしれない。


「よく分からないですけど、知り合ったばかりなのに、昔から知っているみたいに感じるというか。松木さんと一緒にいると楽しいんです。言葉で説明するのは難しいんですけど......相性が良いんじゃないですかね。私がそんな言い方をするのも失礼かもしれないですけど」


松木さんに対して大きな隠し事をひとつ抱えているとはいえ、ここまで本音に近いことを言うことができるなんて、やっぱり私が松木さんに心を開いているのは確かな事のようだ。


 気恥ずかしさをごまかすために、私の手の中で温まり始めていたチョコレートを食べる。1個目よりも更に甘く感じるのは表面が解け始めていたせいか、それともポテトチップスを食べた後だからか。


 口の中でチョコレートをじっくり舐めて溶かしながら、手元に残った包み紙を小さく丸めていると、私の右側で松木さんが動く気配を感じた。「一緒にいると楽しい」というのも誉め言葉のようなものだし、またお礼に何か貰えるのかな。まだ開けていないお菓子は何かあったかな。


 そんなことを考えていると、視界の右端から伸びてきた白い手が、私の右手の甲にそっと重なった。驚いて顔を上げた私は、いつの間にかこちらへ体を寄せていた松木さんの顔を視界の中心で捉えた。


 ちょうど同じ高さになった私たちの目線が空中でぶつかる。目の前にある表情はほとんど無に近かったけど、その中でぽっかりと浮かんでいる黒い瞳の表面は潤んでいるように見えた。まるで水に濡れたビー玉のようにキラキラと輝いていて、私の表情がそのまま反射してしまいそうだ。例によって、松木さんに見つめられている私は、脳からの伝達が一切遮断されてしまったように体を動かせなくなってしまう。


 その美しい輝きを見つめていたい欲望と、再びあの猟奇的な行動に襲われるのではないかという恐怖が混ざり合って生まれた初めての感情が、私の心臓の辺りに溜まっていくのを感じる。


 目の前の綺麗な顔に何か言葉をかけようとした、その瞬間。


 目の前の瞳の輝きが遮断されると共に、私の唇に柔らかい何かが触れた。


 それは一瞬の出来事で、私が瞬きを数回すると、その瞳は再び私に向けられていた。


 今......何をされた?


 私がその感覚の正体を徐々に理解し始めていることに気づいたのか、ほんの少しだけ、松木さんの口元が緩んだように見えた。柔らかくて穏やかなはずのその微笑みが、今の私にはたまらなく恐ろしかった。


 逃げなきゃ。


 直感でそう思った時には、既に手遅れだった。


 両手に松木さんの細い指が絡んできて、まるで操り人形のように松木さんの思い通りに動かされてしまった私はそのまま押し倒され、ソファの上に後ろ向きで倒れ込んだ。


 両手が繋がったまま、仰向けに倒れた私の上に松木さんの影が重なる。天井から部屋を照らしている照明が逆光になり、松木さんの表情を読み取ることができない。その影がゆっくり近づいてきて、私の耳元で囁いた。


「本当に相性が良いのか、確かめてみる?」


 そんな言葉を私の耳に届けたその唇が、そのまま私の唇に重なった。垂れ下がった松木さんの髪が私の頬に弱々しく触れる。パニックに陥った私は呼吸も上手くできなくなり、なんとか空気の逃げ場を作ろうと少し唇を開ける。しかし、その隙間はすぐに松木さんの唇によって塞がれてしまう。その隙間を縫って松木さんから私の口の中に何かが注ぎ込まれてくる感覚に、私の脳と心臓から危険信号が発せられる。

 

 これ以上はまずい。


「んん!んんん!」


 なんとか絞りだした声は重ねられた松木さんの唇に遮られてしまい、私の耳に届くことはなかった。それでも何かを感じ取ったのか、松木さんは私の唇を解放してくれた。


「何するんですか!」


抑え込まれていたものが一気に飛び出すように、大きな声が私の口から放たれた。一度ペースを狂わされた呼吸はすぐには元の調子に戻ってくれず、空気の塊が私の口から出入りを繰り返すだけで、それが呼吸としての役割を果たしてくれているのかは分からない。


 私の叫びを受けて松木さんの体が少し起き上がった。その隙に両手に絡んでいる指をなんとか振り解き、ソファから転げ落ちるように松木さんから逃れる。すぐに立ち上がろうとしたけど、強張っていた体が一気に緩んでしまい、自分の体を支えられるだけの力を両脚に込めることができない。そのままソファとテーブルの隙間に埋まるようにへたり込んでしまう。


「......嫌だった?」


そんな辛うじて私の耳に届くような弱々しい声と共に、松木さんは私に上目遣いの視線を送ってくる。その顔は、少し頬が赤くなっているように見えた。


 松木さんの立場で、どうしてそんな顔ができるの。


「い、嫌に決まってるでしょ!どういうつもりですか!」


私の叫び声を聞いた松木さんはソファから降りて、そのまま私と同じように床に座り込んだ。再びこちらへ迫ってきそうなその表情に怯み、私はへたり込んだまま後退りしてしまう。しかし松木さんは、そんな私の脚の上にそっと手を置いてきた。


「やめてくださ......」

「好きなの」


私の言葉は、叫びと化す前に松木さんの言葉で遮られてしまった。


 私の本能が、そのたった2文字の言葉の意味を理解してしまうことを拒んでいた。「スキ」という響きだけが、まるで何かの暗号のように頭の中をぐるぐる回っている。そんな状態の私に、松木さんはさらに追加の暗号を送り込んでくる。



早川さんのことが好きなの。


私じゃ......ダメ?



 呆然としている私の頬に向かって、松木さんの手がゆっくり伸びてくる。それを受け入れてしまったら私の中で何かが壊れてしまう気がして、その手を振り払って立ち上がった。


「い、意味が分かりません!」


私がそう訴えると、私に注がれていた熱い視線が下に逸れた。言葉が返ってくることはなく、松木さんはそのまま俯いてしまった。そんな彼女の姿に、私も何も言葉が出せなくなる。


 カシュも眠り、テレビも消えていて、アナログ時計もないこの部屋は、私たちが黙ってしまうと一気に静寂に襲われる。


 私はその雰囲気に耐えられず、足元に置いてあったカバンの持ち手を握りしめ、そのまま部屋を飛び出した。


 背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、振り返ることはせずに真っすぐ廊下を走り抜けて行き、そのままの勢いで玄関のドアを開けた。とにかくこの場所から離れたいという一心で、エレベーターを無視して非常階段を駆け下りていく。


 エントランスを抜けてマンションから出ると、一気に冷たい真夜中の空気に体が包まれた。それでも足は止めず、そのまま駅の方へ早歩きで向かう。後ろへ流れていく冷たい空気とは対照的に、私の唇には松木さんの体温がまだ残っているような気がして、シャツの袖でそれを拭う。深夜特有の静けさのせいで、私の心臓が刻む激しい鼓動が際立って聞こえた。

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