10th

 まさか松木さんの家でシャワーを借りる事になるとは思わなかった。そもそも、初めて来た家でシャワーを浴びるという場面自体が滅多にあるものではない。少なくとも、社会人になってからは初めてだ。まだ気が引ける部分はあるけど、一旦1人になって落ち着きたいという思いもあり、松木さんに言われた通りに脱衣所へ向かった私はレモンサワーが染み込んだジャケットとブラウス、下着まで全てを脱いでバスルームへ入った。


 松木さんの家のバスルームはリビングと同じく、見事なまでに白と黒だけで統一されていた。浴槽と上に被せられた蓋、シャワーヘッドやバスチェアまでが黒。壁に設置された棚には、わざわざ黒いボトルに中身を移したシャンプーやコンディショナー、ボディソープなどが並んでいた。何もかもが黒いその空間は白い壁と天井で囲まれていて、私の目の前に設置された鏡に映る私の体まで白くなったように錯覚してしまう。


 お風呂も沸かされていない夜のバスルームに充満する空気は冷たい。ともすれば体に震えが起こりそうなほどの寒さの中に裸で立つ私の体の内側は、まるで温泉に長く浸かった後のように火照っている。それを冷ますために、眼を閉じて冷水のシャワーを頭から被ってみるけど、その熱は冷めるどころか、体の表面がさらに冷やされたことでより際立ってしまった。


 たまにお酒を飲みすぎると体が火照ることはあるけど、このように体の中に充満する熱は経験したことがない。それに私の場合、アルコールによって体が熱くなるのは調子に乗ってかなりの量を飲みすぎたときくらいで、ワイン2杯と少しのレモンサワーだけで引き起こされたとは考えにくい。


 そこまで思考が辿り着いたところで、冷水を浴びる私の瞼の裏に松木さんの顔が浮かび上がった。私の上に倒れ込みそうな程の勢いで近づいてきて私のジャケットのボタンを外し、そのまま人差し指に付着したレモンサワーを舐めた松木さん。


 その光景が嫌になるほど鮮明に瞼の裏に再現され、再び身震いしてしまう。この震えは恐怖によって引き起こされたものか、それとも未だ私の頭の上に降り注いでいる冷水のせいだろうか。どちらにせよ、このままでは風邪を引いてしまうと思った私はシャワーから頭を外し、シャワーのレバーをお湯の方へ切り替えた。


 今の震えの原因としては冷水の方が比率が高かったとは思うが、リビングで何度も私を襲った身震いは、松木さんに対して抱いた「恐怖」によるものだと思う。あの人の行動はあまりに予想外で、猟奇的でさえあった。


 シャワーからお湯が出るのを待ちながら思い返していると、その出来事が起こる少し前にホラー映画について話していたせいか、高校生の頃に観た、ジャングルで暮らす民族が人間を食べてしまうという内容の映画を思い出した。松木さんがレモンサワーの染み込んだ私のブラウスに人差し指を突き立てたとき、本当はそのまま私のお腹を切り裂いて内蔵を食べるつもりだったのではないかと思えてくる。それほどまでに松木さんの行動は私にとって、人の道を外れている行動だったということだ。


 床のタイルから湯気が昇っていることに気づき、一旦シャワーを止めてからバスチェアに座る。"BODYSOAP"と書かれた黒いボトルからボディーソープを手に取り、手の平で軽く泡立ててからお腹を触る。壁には白いボディタオルが掛かっていたけど、それを借りるのは少し気が引けたから、そのまま手で直接洗うことにした。


 レモンサワーを被ったと思われる場所を重点的に洗っていると、松木さんの指に撫でられた感触が蘇ってきてしまう。何をしても、何を考えていても、最終的に思考は松木さんの行動に結びついてしまうくらいに、私にとっては強烈な体験だったのだなと改めて感じる。これはもはや「トラウマ」と呼んでもいいと思う。


 お腹周りがある程度泡まみれになったところで、そのまま体全体に泡を広げていく。汗だくになっていた背中までなんとか手を伸ばしながら、松木さんの異様な行動から思考を逸らすために、私がこの家に来るにあたっての目的として考えていた事について考えることにした。


 私が知りたかった、松木さんの家族構成。真月佑奈のインタビュー記事には、「両親と双子の姉がいる」と記されていた。もし松木さんが「双子の妹がいる」と言えば、私の中で「2人が双子の姉妹だ」という確信は強まるはずだった。


 そして松木さんは、私からの「兄弟姉妹はいるんですか?」という質問に対して、「妹はいないよ。私だけ」と答えた。それを聞いた私は一瞬、自分の予想は見当違いに過ぎず、真月佑奈と松木玲菜は外見と名前がよく似ているだけの他人なのかと思った。


 でも今になって考えてみれば、「兄弟姉妹はいるのか」という問いに対して松木さんが「妹はいない」と返答したことが引っ掛かる。その会話の直前に私が自分の妹について話したことが影響していたのかもしれないけど、松木さんは「妹」という存在に限定した答えを返した。その一方で「私だけ」とも言っていたから、他に兄弟や姉もいないということだろう。


 その言葉と松木さんが醸し出していた雰囲気から推測すれば、本当に妹がいないのではなく「妹」という存在と向き合うことを避けているのかもしれない。仮にそうだとすれば、真月佑奈のインタビューで語られていた「姉とは連絡を取っていない」という内容とも一致する。


 事前に私の中で立てた仮説と、松木さんから少しずつ聞き出した情報が結びついていくことに多少の興奮を覚えながら、シャワーで体中の泡を落としていく。この興奮は、推理小説やミステリー映画で謎が解き明かされていくシーンに似ている。私の場合は「解き明かす」というよりも、予想と事実を照らし合わせながら項目ひとつひとつにチェックマークを入れていくような、何かの作業に近いものだけど。


 体を洗い終わったところで、髪の毛はどうしようかと迷う。シャワーを借りている身だし、あまり時間はかけたくない。でも、そこまで長い髪でもなければ、そもそも頭から冷水を被った時点で髪はずぶ濡れになっているわけで、どちらにせよ乾かさなければいけないのは変わらない。


 そんなことで悩んでいると、背後から物音が聞こえた。振り返ると、バスルームのドアの向こうで動く影が見えた。


「大丈夫?」


ドアを隔てた脱衣所から声をかけられた。その声を聞いた瞬間、ようやく薄れかけていた松木さんの猟奇的な笑顔が再び強くフラッシュバックしてしまった。気がつけば私はバスチェアから立ち上がってシャワーを止めていた。


「だ、大丈夫です!今出ます」


「大丈夫?」ってどういう意味だろう。そう思いながらも咄嗟に答えた。


「着替え、置いてあるから。ドライヤーも出しておくから、自由に使って」

「ありがとうございます」


 ドアの向こうの影が去って行ったのを確認した私は、ふっと息を吐いた。同時に自分の肩がガクンと下がったことで、松木さんに声をかけられて体に力が入っていたことを理解した。そして反射的に両腕で胸元を隠していた自分に気づき、奇妙な恥ずかしさが込み上げてくる。「今出ます」と言ったのに、心臓の高鳴りを感じて動くことができない。どうやら冷水と温水を連続して浴びたせいで、本当にお酒が廻ってしまったみたいだ。そう意識した瞬間、また自分の体が火照り始めているような気がしてくる。体に残った水滴が何故か、自分の体から染み出て来た汗のように感じてきてしまい、もう一度軽くシャワーを体に浴びてからバスルームを出た。


 見ると、洗濯機の上には畳まれたバスタオルがあり、その横には同じく畳まれた黒い布が重なっていた。おそらく松木さんが私のために用意してくれた着替えだろう。体を拭いてから下着を着け、その用意された着替えを手に取る。


 少し薄手の黒いシャツは、ボタンや襟の縁が白くなっている。あの人は一体どこまで白と黒に拘っているのだろうか。そんなに黒が好きなら、今はブラウンの髪の毛も黒くすればいいのに。そんなことを思いながら、ブラの上から直接そのシャツを着る。やはり私には大きく、腕を伸ばすと袖が少し余る。そんなシャツが肌に直接触れる感覚に少しのむず痒さを感じながら、そのシャツと全く同じ色のパンツを履く。なんとも軽い松木さんの服に身を包んでからドライヤーを使うために洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の姿を確認したところで気がついた。


 これ......部屋着だよね。


 いや、むしろパジャマと呼ぶ方が自然かもしれない。


 貸してもらった服に文句を言うつもりはない。ただ、私はこれを着て帰らなければいけないのだ。特別ファッションに拘りがあるわけではなく、上下ジャージ姿のまま平気で買い物に出かけることができてしまう私だって、一応は1人の女なわけで。流石に下着の上にパジャマ1枚だけの姿で電車に乗るのは憚られる。だからと言って、仮に洗濯機でブラウスを洗ってもらったとしたら、乾くまで待っていたら終電を逃してしまうだろうし。まあ、仕方がない。レモンサワーを盛大にこぼしてしまった私の責任だ。


......私の責任かな?


そんな疑問も浮かんだけど、もうあの出来事は無かったことにしようと決めて、少し急いでドライヤーをかけてから脱衣所を出た。


「松木さん、シャワーありがとうござ......」


そう言いながらリビングに入った私は、不意に飛び込んできた松木さんの姿に驚いてしまい、言葉を途中で止めてしまった。


 リビングの中心でカシュを抱きながら立っている松木さんは、私とお揃いに見えるパジャマ姿になっていた。ただひとつだけ私と違うのは、私が履いているパンツが足首まで伸びるロングパンツであるのに対して、松木さんは太ももが露わになるほど丈が短いショートパンツを履いているという点だ。パンツスタイルのスーツを着た松木さんしか見たことがなかった私は、ラフな姿の松木さんを目撃しているこの状況に、まるで1人の女性のプライベートを勝手に覗き見しているような感覚に陥ってしまう。


 もし本当にこれが覗き見ならば、このまましばらくパジャマ姿の松木さんとカシュの日常を観察していたいと思ってしまうが、残念ながらこれは覗きではない。その証拠に、私は松木さんとばっちり目が合ってしまっている。


「ん?どうしたの?」


カシュを撫でながら、松木さんは私を不思議そうに見つめていた。まあ、シャワーを借りたお礼を言いながらリビングへ飛び込んできた人間が、ドアを開けた状態のまま固まって自分のことを見てくるのだから無理もない。


「あっ、えっと......シャワーありがとうございました」


途切れていたお礼を言い直して、リビングのドアを閉める。それを確認した松木さんは抱いていたカシュを床に降ろしてから、そのままキッチンへ向かった。その姿を無意識に目で追っていると、私の足に突然何かが触れた。驚いて視線を落とすと、猛スピードで駆け寄ってきたカシュが私の足首に前足で抱き着くような姿勢になって、必死に尻尾を振っていた。


 これはきっと、私に遊んで欲しいのだろう。初めて対面したときとは全く逆の反応を意外に思いながら、その顔をじっと見つめる。すると、いつまでも立ったままの私に業を煮やしたのか、「ウー、ワン!」と大きく吠えられてしまった。


「あ、はいはい」


 この場でしゃがんであげようかと思ったけど、ドアの前よりもリビングの真ん中で遊んであげた方がいいなと考え、そのままソファの後ろ辺りを目指して歩く。カシュはそんな私を追いかけてきて、仕舞いには先回りしてその場所で待ち構えていた。


さっきまで威嚇してきたくせに。


心の中でそう呟きながら、正座をするように床に座った。その瞬間、「待ってました」と言わんばかりの勢いで私の脚に飛び乗って来たカシュが、そのまま私の胸の辺りに前足で体重を預けるような姿勢になる。想像以上の勢いに驚いてしまったけど、積極的にじゃれてくる子は嫌いではない。そのまま背中を撫でてあげると、カシュは口を半開きにして舌をだらしなく出した。ニヤケているようにも見えるその口の隙間から、小刻みに荒い呼吸が溢れてくる。


「すっかり懐いちゃったね」


そんな声と共に、私の視界に影が差した。見上げると、ミネラルウォーターのペットボトルを持った松木さんが、私の目の前でニコニコしながら立っていた。


「これ、ソファの方に置いておくから。カシュと遊んであげて」

「あ、はい。ありがとうございます」


そう言った私の視線は再び、ソファへ向かう松木さんの後ろ姿を追ってしまっていた。いや、正確には松木さんの脚を追っていたというべきか。


 色白で、シミひとつ見当たらない綺麗な脚。太っているわけでも細すぎるわけでもなく、程よく肉付きがあるように見えるその脚を眺めていると「触り心地が良さそうだ」なんて思ってしまうのは、カシュを撫でながら松木さんの脚に注目しているせいかもしれない。


 私がそんなことを思いながら視線を注いでいることに、当の松木さんは気づいていなかったようだった。その代わり、私に抱かれているカシュはその変化を敏感に感じ取ったのか、「なに見てんだよ!」と言わんばかりの大きな鳴き声を一発、私の右耳にお見舞いしてきた。その鳴き声に怯んだ私の隙を突いて、カシュは一気に私の顔に前足を乗せてきた。その勢いに圧されて後ろへ倒れてしまった私は、それからしばらくの間、カシュの顔舐め攻撃に見舞われたのだった。

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