8th

 電車を降りた私たちはコンビニでお酒やジュース、お菓子などを買ってから、松木さんが暮らすマンションまで歩いて向かった。


 コンビニを出た途端、なぜか私たちの会話はピタリと途切れてしまった。松木さんからのお誘いを断ることができず、あれよあれよと言う間にここまで来てしまった私は、コンビニを出たところで急激に「今から松木さんの家に行くのだ」という実感が湧き、不思議と何を話せばいいのか分からなくなってしまった。少し俯きながら歩いていると、視界の右端にパンプスを履いた松木さんの足が映り込む。


 その松木さんも、何も言わずに私の隣を歩いている。何か喋った方がいいかと思い松木さんの方を見ると、不意に視線がぶつかって驚く。どうして、この人は前を見ずに歩くんだろう。危ないですよと注意しようかとも思うが、ぶつかるような人も物も無いので、何も言わずにまた視線を地面に戻す。


 結局、2人とも何も話さないまま歩き続ける。駅から歩いた距離に比例して街の騒音は小さくなっていき、2足のパンプスが地面を踏み鳴らす音だけが、閑静な住宅街に響いている。


「ここだよ」


静寂の中から聞こえた松木さんの声は、いつもよりも少し落ち着いているように感じた。自宅を目の前にして、少し自然体に近づいたのかもしれない。


 見上げると、夜闇の中に1棟のマンションが建っていた。暗くてよく見えないけど、それほど大きなマンションではない。もしかすると、私が住んでいるマンションの方が大きいかもしれないくらいだ。勝手なイメージで、松木さんは高層マンションに住んでいると思い込んでいたから、少し意外に思う。


 松木さんが入口にあった機械を少し操作すると、自動ドアが開いた。きっと、暗証番号か何かを入力したのだろう。そこからマンションの中へ入り、エレベーターに乗る。この時点で私は、マンションの良し悪しは建物の大きさでは判断できないということを知った。私の住むマンションよりも何倍も広いエントランスは、眩しいほどの高級感を醸し出していて、まるで一流ホテルのようだった。エレベーターの中にはモニターが設置されていて、階数表示がデジタル数字で簡易的に表示される私のマンションとは大違いだ。


 綺麗なモニターに滑らかなフォントで表示される階数が「3」になったところでエレベーターは止まり、開いた扉から松木さんが降りて行く。意外に早く訪れたその瞬間に驚きながら、置いて行かれないようにその背中を追う。


 エレベーターから降りて、数えること3つ目のドア。その前で立ち止まった松木さんはバッグの中から鍵を取り出すと、それをドアに鍵穴に差し込み、くるりと回した。そして縦に長いドアの取っ手を握ったところで、松木さんは小さく「あ、そうだ」と呟いてから、その視線が私の方へ向けられた。


「確認するの忘れてた」

「何をですか?」

「何かアレルギーあったりする?」

「......あれるぎー?」


全く予想していなかった単語が飛び出したせいで、一瞬その言葉の意味が分からなかった。自分で口に出してみたところで、ようやく松木さんの言う「アレルギー」の意味を理解した。


「いえ、特にはないですけど」

「それならよかった」


そう言って松木さんは、玄関の扉を引いた。


 どうして家に入る直前にアレルギーの確認をするんだろう。もしかして、何か料理でも作ってくれるつもりなのだろうか。そんなことを思いながら、恐る恐るその後ろをついていく。


「お邪魔します」


 私がそう言うと同時に、帰宅した家主に反応した廊下のライトが自動的に点灯する。照らされた玄関を見ると、松木さんが脱いだばかりのパンプスの他に、私服用と思われるパンプスとローファーがそれぞれ1足ずつ並んでいた。靴はこれだけしか持ってないのかな。それとも、クロークの中に収納しているのか。いちいちクロークから靴を出し入れするのが面倒で、持っている靴のほとんどを玄関に並べたままにしている私の家とは正反対だ。


 自分が脱いだパンプスを玄関の端に並べてから、廊下に上がらせてもらう。どんどん廊下を進んでいく松木さんを追って何歩か歩いたところで、この空間に充満している匂いに気づく。なんとなく私にも覚えがある、独特の匂い。


松木さん、もしかして......


そう言いかけたタイミングで、松木さんがリビングのドアを開けた。その向こうから、小さく聞こえてくるコツコツした音。その音が徐々に大きくなってきて、遂にソレが姿を現した。


ワン!


松木さんに飛び掛かる勢いで駆け寄ってきた小さなトイ・プードルが、甲高い鳴き声を上げた。


「ただいまー、カシュ」


リビングと廊下の境界線でしゃがみ込んだ松木さんは「カシュ」という単語を連呼しながら、その茶色いプードルを両手で撫でている。どうやら「カシュ」はその犬の名前らしい。カシュってなんだろう......歌手?いや、そんなトリッキーな名前はつけないか。


 放っておくと永遠に「カシュ」と戯れていそうな松木さんの背中に、我慢できずに声をかける。


「松木さん、やっぱり犬を飼ってたんですね」

「え?やっぱりって?」


その両手はカシュを撫でたまま、顔だけを私の方へ向ける松木さん。しゃがみ込んでいることもあり、カシュと戯れる松木さんが一気に幼い子供のように見えてきた。


「犬を飼っている家の匂いがしたので」

「え、やっぱり匂いする?」

「します。すぐに分かりましたもん」


キャン!


そこまで話したところで、気持ちよさそうに松木さんに撫でられていたカシュが突然大きな鳴き声を上げた。それからカシュは飼い主の手を体全身で振りほどき、私の方へ近づいてきた。


 先ほどまでよりも棘のある鳴き声を上げながら、私の前で素早く左右へ行ったり来たりを繰り返すカシュ。その様子を見ていると、中学校の体育でやらされた反復横跳びを思い出してしまった。1回、2回......と数えそうになるが、そんな呑気なことは考えていられない。


「これは......警戒されてますね」


尻尾をブンブンと振りながら、甲高い声と唸り声を繰り返している。犬が見せるこの行動には覚えがあった。これは間違いなく、見知らぬ人間の登場に警戒と威嚇をしている。


「そう?喜んでるんじゃない?」


なのに松木さんは、そんな呑気なことを言っている。


「喜んでる時に唸ることはあまりないんじゃないですかね」

「そうなの?でも尻尾振ってるじゃない」

「攻撃的になる時に尻尾を振ることもありますよ」

「そっか。この子を飼い始めてから誰かが家に来るのって初めてだから、よく分からなくて。早川さんは犬に詳しそうね。もしかして飼ってるの?」

「いえ、幼馴染が実家で飼ってたんです。私が小さい頃からずっと飼ってたので、私もよく散歩に連れて行ったりしてたんですよ」


 幼馴染の香織の家で飼われていた、「くーちゃん」というミニチュア・ダックスフンド。小学生の頃から「くーちゃん」と呼ばれていたから、それが正式な名前だったのか、それとも愛称だったのかは分からない。


 両親が共働きだった私は、小学校が終わるとそのまま香織の家に帰っていた。ほとんど毎日香織の家で遊んでいたから、くーちゃんもすぐに私に懐いてくれた。くーちゃんを散歩に連れて行ったり、香織の家に泊まったときにはくーちゃんを抱いたまま眠ってしまったこともある。


「その子、警戒心が強くて。私には懐いてくれてたんですけど、他の友達が遊びに来ると、ものすごい勢いで威嚇するんですよ。その時の動きと似ているので、きっとこの子も私を警戒してるんだと思います」


そっか、と言いながら立ち上がった松木さんは、未だに反復横跳びを続けているカシュをぐっと抱きかかえた。飼い主の腕に包まれたカシュは、途端に大人しくなった。それでもまだ少し喉をグルグル鳴らしながら、まん丸な眼を私に向けている。ほとんど白い部分が無いその眼は、松木さんと真月佑奈の眼に似ている。よく「ペットは飼い主に似る」と言うけれど、これはちょっと違うケースだろうか。


 その飼い主はカシュの顔をぐっと私に近づけ、優しい声で「カシュ。早川さんは怖い人じゃないからねぇ」と語り掛けている。そんな事を言っても、カシュは分からないと思いますよ。そう思ったけど、ニコニコしながらカシュを抱いている松木さんを見ていると、口には出せなかった。


「この子、生まれてどれくらいですか?」

「半年くらいかな」

「それくらいなら......」


それくらいなら、何回か会っているうちに懐いてくれるかもしれませんね。


口からこぼれかけたその言葉を、なんとか飲み込んだ。


どうして、松木さんの家にこれからも来る前提になってるんだ。


まだ廊下とリビングの境界線までしか来ていないのに。


「......それくらいなら?」


松木さんは、中途半端に途切れた言葉の続きを待っているようだった。それに気づいた私も、その先に続ける言葉を急いで探す。


「それくらいなら......かわいいですね」


無理やり絞り出したその言葉を聞いて、松木さんは首を傾げている。それと同時に、カシュも首を傾げたように見えたのは気のせいかな。


「かわいいけど......何歳になってもかわいいんじゃない?」


そんな至極真っ当な言葉をぶつけられた私は、「ですよね」としか言えなくなる。


 私の言葉をきっかけに、それまで盛り上がっていた会話がピタリと止んでしまった。私たちの視線は自然とカシュに集まり、急に注目を受けたカシュは困惑したように飼い主と来客者の顔を交互に見ている。


 次はどんな話題を切り出せばいいのだろう。思考を巡らせた結果、私たちはまだリビングにも入っていないことを思い出した。


「あの......リビング。入りませんか?」

「え?ああ、ごめん。忘れてた」


えへへ、と笑った松木さんは、そのままリビングの中へ入っていった。そうだ。これが目的だったんだから。


 ようやくその中へ足を踏み入れた頃には、すっかり私の鼻もこの家の匂いに慣れていた。

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