7th

 今週は松木さんと会うことはないと思っていたのに。


 金曜日の夜に、私は松木さんと向かい合って座っている。しかも妙にムードのある、夜景が見えるイタリアンの店で。大きな窓から見える東京の夜景を眺めながら、松木さんは綺麗なグラスに注がれたオレンジジュースを飲んでいる。こんなお店にもオレンジジュースがあるということにも驚いたし、店の雰囲気と松木さんの大人っぽさが相まって、なんだかオレンジジュースが途轍もなくお洒落なドリンクに見える。逆に私が手にしているグラスの中の赤ワインが、私の雰囲気のせいで貧相な飲み物に見えていないか心配になってくる。


 先週、松木さんから仕事中に送られてきた業務用メールに記されていた大量の『!』は、やはり怒りの意味を込めたものだったらしい。仕事終わりにメッセージを送ると、見たこともない魚のキャラクターが激怒しているスタンプが送られてきた。


『既読スルーされると悲しいからやめて』

『すみません。仕事中だったので』

『返信くらいできないの?』

『うちはそのへん結構厳しいので』


そんなやり取りを繰り返しているうちに、私の職場の雰囲気は理解してくれたみたいだった。


 しかし、それからも相変わらず、松木さんからは個人の連絡先にメッセージが届いた。基本的には、次の打ち合わせの日程についてや、私を通して主任に尋ねたいことなどの仕事に関する連絡がほとんどだった。どうやら松木さんはメールアドレスを使い分ける事が苦手らしく、重要なファイルなどを除いて、ほとんどの連絡事項はプライベート用の連絡先に送られてきた。


 そんな仕事に関する話題の中に、たまに仕事とは無関係の他愛ない話題が混ざっていることがあった。


『明日は晴れるみたい』

『家に財布忘れちゃった』

『いつもより電車混んでる』


こちらからは『そうですか』としか答えようのないメッセージを送りつけてきては、私を困らせていた。


 そんな中で昨夜、突然食事へのお誘いがあった。


『明日の夜って空いてる?』

『空いてます』

『一緒に食事でもどう?』

『大丈夫です』

『大丈夫って、どっち?OK?NO?』

『OKの方です』


 その後、先週とは違う駅が待ち合わせ場所として指定された。今回は連絡先も知っている状態で待ち合わせていたから、松木さんが5分遅れて到着したことにも、特に焦ることはなかった。どうやら松木さんは、待ち合わせ時間にルーズなタイプの人間らしい。主任も以外とお茶目な人だったし、やっぱり人は見かけによらないものだなと思う。もしかしたら、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた真月佑奈も、普段はよく笑うイマドキな普通の女の子だったのかもしれないな。そんなことを考えながら松木さんが来るのを待っていた。


 これまで松木さんと会っていた時に比べれば、かなり余裕しゃくしゃくで待っていたのだが、このレストランに到着した瞬間、その余裕はここの雰囲気で一気に弾け飛んでしまった。また何処かの居酒屋にでも入るのだろうと思っていたから、想像と現実のギャップに軽く目眩がした。


 だって、先週の居酒屋で飲んだビールは1杯590円。それに対して、今松木さんが嗜んでいるオレンジジュースは、1瓶で1480円もする。じゃあ、このワインは一体いくらなんだ?値段を見てしまうと申し訳ない気持ちが倍増しそうだったから、しっかり値段を確認することはしなかった。


 それから運ばれてくるコース料理に、私は狼狽えるばかりだった。一体どこから食べればいいの?この葉っぱは食べていいやつ?このソースの色は、何色っていうんだ......


 私が「イタリアン」と聞いてイメージするのは、ピザとかパスタとか、ミラノ風のドリアとかだ。次々と目の前に運ばれてくる料理を一目見て「あら、これは美味しそうなイタリアンでございますね」なんて言える人は、もうセレブ確定だと思う。


 そんなバカなことを考えている私とは対照的に、松木さんはその料理たちを淡々と、でも満足そうに食べている。食べ方に迷う事もなく、このような場所に慣れているんだろうと思わせるには十分な所作だった。


 お店の雰囲気に呑まれ、私から松木さんに会話を切り出すことはできないまま、いつの間にかデザートまで食べ終えてしまった。このまま松木さんとの時間が終わっていくのも気持ちが悪いので、ずっと心の中で浮かんでいた疑問をそのままぶつけてみることにした。私の右側、松木さんの左側に広がっている夜景を眺めているその横顔に話しかける。


「あの......」


その視線が私の方へ向けられる。お互いに料理に集中していたから、松木さんと目が合うのはここに座ってからは初めてだ。このレストランの照明が、その黒い瞳に反射しているように見える。


「どうして私をここに誘ったんですか?」

「早川さんと会いたいなと思って」


満を持して口にした私の疑問は、そんな簡単な言葉であっという間に片付けられてしまった。私に会いたいと言ってくれるのは悪い気はしないけど、私が求めていた答えとは少々ズレている気がする。私が気になっているのは、どちらかと言えば「このレストランを選んだ理由」であって、私が誘われた理由ではない。


「その......そう言って頂けるのは嬉しいんですけど、どうしてこのお店だったのかなって」


このレストランへ入店した時、松木さんはウェイターに自分の名前を伝えていた。それから察するに、きっと松木さんは事前に予約をしていたのだと思う。つまり、先週のように気まぐれでお店を決めたわけではなく、わざわざ私をここへ連れて来たということになる。前菜が運ばれてきてからデザートを食べ終わるまで、その理由がずっと気になっていたのだ。


「気に入らなかった?」


私が質問をした意図が、少し誤解されているみたいだった。ほんの一瞬だけ、松木さんの目が鋭くなったような気がして、慌てて誤解の解消に取り掛かる。


「い、いえ。そういうわけではなくて、むしろその逆というか。こんな素敵な場所に、どうして私なんかを誘ったのかなって」


他のお客さんを見ても、大体は夫婦やカップルで来ている人が多い。それも、しっかりとしたドレスコードなんかを着ている。こんな仕事帰りでスーツ姿の女性2人組なんて、私たち以外には見当たらない。


「素敵な場所に早川さんを誘ったらダメなの?」

「そ、そんなことはないです。でも、私じゃなくても良かったんじゃないかなって。他に誰か相応しい方がいるのではないかと......」

「例えば?」

「例えば......彼氏さんとか」


そう答えると、松木さんは何故かニッコリと笑った。その意味が全く理解できず、ただ目の前の笑顔を見つめる事しかできなくなる。


 ......この時間は何?


 私たちは、しばらくそのままの状態で固まっていた。もしかして松木さんは、私の反応を待ってるのかな。それなら、私に何て言ってほしいのかな。じっと固まって見つめられると、さすがに怖くなってくる。


「えっと......」

「そろそろ行こうか」

「え?あ、はい......」


ようやく動いた松木さんは、そのままウェイターを呼んだ。丁寧な笑顔を浮かべてお会計を済ませている松木さんを、私はただ見ていることしかできない。レストランの雰囲気的に、「ごちそうさまでーす!」なんて言えるはずもないし。


 そういえば、こういったレストランでは、相手がお手洗い等で席を立っている間に会計を済ませておくのがベストだと聞いたことがある。もし自分がご馳走してもらう立場なら、気を利かせて席を立つのがマナーだとか。


 もしかしたら、松木さんは私が席を立つタイミングを窺っていたのだろうか。あの笑顔の裏には「さっさとトイレにでも行ってきなさいよ」というメッセージが込められていたのかもしれない。それでも私がぼんやりと松木さんの笑顔を眺めているだけだったから、諦めてウェイターを呼んでしまったとか。


 でもそのマナーは、それこそ男女で来たときなどに適用されるものではないのか。彼女が席を立っている間、彼氏がスマートに会計を済ませておく。戻って来た彼女に対して、彼氏は何食わぬ顔。そして、店を出た2人はそのまま......


「早川さん、大丈夫?」


身の丈に合わないワインのせいで私の思考が少々危うい方向まで飛びかけていたところで松木さんに声をかけられ、一気に現実に引き戻された。


「あ、すみません。大丈夫です」

「酔っぱらった?」

「かもしれません」


フフッと笑った松木さんは、「行こうか」と呟いて席を立った。置いて行かれないように、私も急いで立ち上がり、その背中を追いかける。お見送りをしてくれるウェイターさんに、なんとなく頭を下げてから店を出た。


 エレベーターを降りて外に出ると、普段よりも街の騒音がうるさく感じた。レストランの中で静かに流れていたジャズを聴き続けていたせいだろうか。この騒音の方が心地よく感じてしまう私はまだまだ庶民なのだと思い知らされるが、その一方でそんな自分に安心してもいる。


「ごちそうさまでした」


街の騒音に負けないように少し大きめの声でそう伝えると、松木さんは先週と同じように「いいってば」と笑った。値段だけで言えば、前回の居酒屋と今日のレストランでは何倍もの差があるはずなのに、松木さんのリアクションは何も変わらない。ご馳走してもらった立場で、その事を指摘するのは野暮なので止めておくけど。


「お店選び、失敗したかな」


レストランから数メートル歩いたところで、松木さんがポツリと呟いた。


「どうしてですか?」

「だって、早川さんが緊張して何も喋ってくれないんだもん」


そう言った松木さんに、右肩をコツンと小突かれる。


 確かに緊張して喋れなかったのは事実だけど。それが松木さんに伝わっていたということを知った途端、ワインにも屈しなかった私の顔が、だんだん熱くなっていくのを感じる。


「......バレてたんですか」

「だって早川さんったら、料理が運ばれてくる度に、まじまじとお皿を見つめて、私が食べるまで一切手を付けないんだもん」


松木さんは歩きながら、ナイフとフォークを握って固まっていた私の真似をしておどけている。それに対して恥じらいを覚えるが、これも松木さんの術中にはまっている証だろう。


「き、緊張しますよ。あんなお店に行くことなんてないですから。だから訊いたんですよ。どうして私なんかを誘ったんですかって」

「早川さんと会いたくて」

「いや、だから......」

「あんなお店に早川さんを連れて行ったら、私のことを尊敬してくれるかな、なんて思って」


ほんの数秒前まで意地悪な笑顔で私を揶揄っていたのに、今度は悪戯を自供する子供のような表情で話し始める。コロコロと表情や口調が切り替わる松木さんを見ていると、妙な感覚が私を襲った。


掴み所がないものを掴みにいくような、不思議な感覚。


でも、初めてではない。


この感覚は......なんだっけ。


「わざわざそんな事をしなくたって、松木さんのことは尊敬してますよ」


答えは見つからないけど、とりあえず松木さんの言葉に返事を送った。まだ松木さんのことはよく知らないけど、尊敬しているのは事実だから。同じようによく知らないはずの私とこんなに優しく接してくれるなんて、良い人に決まっているし。何故そこまで私を気にしてくれるのかは全くわからないけど。


 私の答えを聞いた松木さんは、また余裕のある笑顔に戻り、「ありがとね」なんて呟いている。この雰囲気の切り替えは意図的なものなのか、そうではないのか。もし意図的なものなら、そのギャップを使って狙った男を落とすのは楽勝だろうな、なんてしからぬことを考えてしまう。


「もう見栄を張るのはやめて、次からはまた普通に居酒屋とかにしようか。もっと大声で騒げるような所で、早川さんが緊張しないようなお店」

「......そうですね」


 そこを弄られるのはもう止めて欲しかったけど、それ以外の点には私も同調する。私だって、いろいろ松木さんと話したかったし、今日は全く話し足りない。2度目の食事の席となれば、前回よりも少し踏み込んだ事を訊けるかもしれないという思いもあったのだが、今日はそれ以前の問題が山積みだった。


もっと、たくさん話したいな。


そう思った私は、思い切ってある提案をしてみることにした。


「松木さん」

「なに?」

「2軒目とかどうですか?それこそ、私が緊張しないようなお店で」


あのイタリアンのフルコースは確かに美味しかったけど、量的には少し物足りない。値段を恐れてワインも2杯しか飲んでいないから、もう少し飲みたいという思いもあった。


 明日は土曜日だし、私としてはなかなか良い考えだと思ったのだけど、松木さんの反応はあまり良くなかった。2軒目ね......とポツリ呟いた後、しばらく黙ってしまった。


「......ダメですか?」

「うーん......ぜひ行きたいところだけど、あまり帰りが遅くなるのは嫌なのよね」

「そうですか......」


明日、朝早くから予定があったりするのかな。それに松木さんはお酒を飲まないから、2軒目という発想自体に馴染みが無いのかもしれない。


 それなら仕方ない。あんなに高級なフルコースをご馳走してくれた松木さんを、更に連れ回すのも失礼だろうし、今日のところは諦めよう。


「すみません。今のは忘れてください。松木さんの都合さえ良ければ、またいつでも......」

「......来る?」


私の言葉と松木さんの言葉が重なり、上手く聞き取れなかった。何かを訊かれたような気がしたけど。


「はい?」


訊き返してみると、松木さんから予想外の言葉が飛び出した。


「うち来る?」


うちくる?......って?


「えっと......うちっていうのは?」

「私の家。早川さんが嫌じゃなければ、私の家でお話ししない?」


今から、松木さんの家に?


「あ、えーっと......それは流石に申し訳ないというか」

「......ダメ?」


まただ。そんな、寂しがる女の子みたいな顔しないでくださいよ。


その眼で見つめないでくださいよ。


 この人と話していると、私が真月佑奈のファンだということを知っているのではないかと思う事がある。それを知った上で、自らが持っている、真月佑奈と同じ瞳を利用しているのではないかと疑いたくなる。


 その瞳で訴えれば、私が断ることはないということがバレているのではないだろうか。



「......行きます」



 私はまんまと、その瞳の魔力にやられてしまったのだった。

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