6th
「寝不足なの?」
私が出社してから何度も欠伸をかみ殺していたことに気づいたようで、隣のデスクに座る主任に指摘された。嘘をつく必要もないから、正直に答える。
「はい。なかなか眠れなくて」
「そんなに遅くまで松木さんと一緒だったの?」
「いや、そんなことはないんですけど。少しお酒を飲みすぎてしまって、なかなか眠れなかったんです」
「お酒を飲んだら、眠くなるものじゃない?」
「私は逆に眼が冴えちゃうんですよ」
お酒に強い私の唯一の弱点は、「酔うと眠れなくなる」ことだ。主任の言う通り、普通は酔っぱらうと眠気が襲ってくるらしいのだが、私は真逆の体質で、酔えば酔うほど脳が覚醒して目が冴えてしまい、全く眠れなくなってしまう。
昨夜はそこまでの量を飲んだ自覚はなかったのだが、ベッドに入ってからも全く眠気がやって来ることはなかった。そこで、枕元に置いていたCDプレーヤーに真月佑奈のファーストアルバムをセットして、それを聴きながら寝ようと考えたのだが、その歌声を聴きながら瞼を閉じていたら、逆に私の頭の中が騒がしくなってしまった。
どうやったら、こんな歌詞を思いつくんだろう。
この曲、一回もライブで聴けなかったな。
やっぱり歌上手いな。
......松木さんも同じ声で歌うのかな。
まるで頭の中で、何人にも分裂した小さい私が井戸端会議を繰り広げているようだった。
ファーストアルバムを聴き終わったらセカンドアルバム。セカンドアルバムが終わったらサードアルバム。そんな具合で真月佑奈を聴き続け、結局ラストアルバムまで通して聴いてしまった。またファーストに戻ろうか、なんてぼんやりと考えていたところで記憶がプツンと途切れている。
「それは珍しい体質だね」
紙コップに入ったコーヒーを啜りながら、主任が笑う。
「主任はどうですか?やっぱり眠くなります?」
「うん。いつの間にか寝ちゃってるとか結構あるかな。私、あんまり強くないから。でも確かに、途中で目が覚めることも多いかもしれない」
「なるほど。私は逆に、一度寝てしまえば朝までぐっすりですね」
「なんか、私たち真逆だね」
コーヒーを飲み終わったのか、そう言い残して主任は席を立った。本当は「主任は昨日どうされてたんですか?」と訊こうとタイミングを窺ってたのに逃げられてしまった。主任は逃げたつもりなんて全くないだろうけど。少し離れた場所で新しくコーヒーを淹れている主任の背中を見届けてから、私はパソコンの画面に向き直った。
昨日の会議で主任と松木さんが交わした会話を文字に起こしたファイルを改めて読み直すと、昨日は気がつかなかったタイプミスがいくつも潜んでいた。先週よりは落ち着いていたと思っていたけど、やっぱり緊張していたのかと思い恥ずかしくなる。しっかり誤字を修正してから、ファイルを添付したメールを松木さん宛てに送信した。
さて、次は何をするんだっけ。確か、再来週以降のスケジュールを確認して営業先にアポを取れとか言われていたような気がする。ぼんやりとしか記憶がないから、やはり寝不足が響いているらしい。私もコーヒーを飲もうかな。
そんなことを考えていたら、マナーモードにしていたスマホが震えるような鈍い音が聞こえた気がした。デスクの上に置いてある仕事用のスマホを確認しても、特にメールなどは届いていない。ということは、私用のスマホか。足元に置いてあるカバンの中からスマホを取り出すと、画面にはメッセージが届いたことを知らせる通知が表示されていた。
『メールありがとう』
松木さんからだった。どうして、わざわざ個人的に連絡してきたのだろう。業務用のアドレスでやり取りしていたのだから、そこに返信をくれればよかったのに。うちの会社は......というか多くの会社はそうだと思うけど、業務中にプライベート用のスマホを見ることは良しとされていない。毎回言葉で注意されるわけではないけど、見つかると上司から冷ややかな視線を向けられる。まあ、それは当然のことで、そんな職場に不満なんて全くない。
返信、どうしようか。学生時代みたいに、机の下で隠れてメッセージを打ち込むこともできるけど、そこまでして返信するほどの内容でもないし。でも、無視するのも気が引ける。
結局、私は松木さんの業務用のアドレス宛に『早川です。メールは届きましたか?』と書き込んだ。もちろん届いているのは個人用の連絡で確認済みではあるのだけど、書く内容が思いつかなかったから、そちらには気付いてないフリをしておいた。松木さんがこのメールから「仕事中に個人的な連絡は控えてください」という私からのメッセージを汲み取ってくれることを願いつつ、送信ボタンをクリックした。
さて、仕事......と思ったのも束の間、再びスマホのバイブレーションの音が聞こえた。仕事用のスマホは......変化なし。ということは、私のスマホだ。
またカバンから取り出すと、『届いたってば』『なんで仕事のメールなの』という新しいメッセージが届いていた。この人、何も気づいてないな。わざわざ仕事用のメールに送ったのにこっちへ返信してくるなんて、逆にわざとやってるんじゃないかとすら思ってしまう。
返信した方がいいのかな。というか、松木さんは仕事中にスマホをチェックしているということか。確かにあの会社の雰囲気はうちよりも自由度が高そうだったし、それくらいは許されているのかもしれない。
「コラ」
松木さんとのメッセージ画面を眺めながらぼんやりとそんなことを考えていたら、背後からお叱りが飛んできた。慌てて振り向くと、湯気が立ち昇る紙コップを手にもった主任がニコニコしながら立っていた。
「あ、すみま......せん」
「何?今の間は」
「いえ、なんでもないです。すみません」
一瞬「謝るのは禁止だっけ」などと頭を過ぎってしまった。口の前に人差し指を立てていた松木さんの姿を思い出しつつ、スマホをカバンにしまう。
「彼氏?」
仕事に戻ろうと気を引き締めた瞬間、主任の方からそんな質問が飛んできて、拍子抜けしてしまう。そんな主任はというと、私に注意をした時の「ニコニコ」顔から、私を揶揄うような「ニヤニヤ」顔に変化していた。そんな主任を窘めるように、冷静な口調を意識しながら否定する。
「違いますよ。松木さんです」
そう教えると、今度は主任が意外そうな表情を浮かべた。
「連絡先、交換したんだ」
「はい。教えてって言われて」
「でも、タメ口で送られてきてなかった?」
私に注意をしながら、しっかり画面を覗いてたのか。この人、意外とそういうところあるんだよな。まだ知り合ってから3週間くらいしか経っていないけど、最初に主任に対して抱いた「真面目な人」というレッテルは、既にほとんど剥がれ落ちている。
「昨日、乾杯をした辺りまでは敬語だったんですけどね。いつの間にかタメ口になってました。まあ、松木さんの方が年上ですし、当たり前ですけど」
へえ、と呟いてからコーヒーに口を付ける主任の顔には、あの「ニヤニヤ」が復活していた。コーヒーを体の中へ流し込んだ主任は、紙コップを置いてから「気に入られちゃったんじゃない?」とニヤニヤを私に向けた。
私にも、自覚がないわけではない。「早川さんと仲良くなりたくて誘ったんです」というお言葉も頂いてしまったし。ただ、それを主任に報告するのは少し気が引ける。とりあえず、「そうなんですかね?」とごまかしながら返答した。
「プライベートの松木さん、どんな感じだった?」
主任はパソコンに向き直りつつも、私との会話はまだ続けるつもりのようだ。「プライベートの」という言い方が正しい表現なのかはイマイチわからないけど、素直な感想を伝える。
「いい方でしたよ。ご馳走して頂きましたし。というか、主任も一緒に食事をしたことがあるって言ってませんでした?」
「あるけど、1回だけよ。それも、お互いの上司も一緒で仕事の延長みたいな感じだったから。プライベートというよりは会食っていう感じ」
そうですか、と言いながら私もパソコンに向き直ったけど、何をするべきなのかが思い出せない。とりあえず、スケジュール管理ソフトを開いたところで、また主任が話しかけてきた。
「仲良くできそうなら、仲良くしておいた方がいいよ」
どうしてこの主任は私が仕事に戻ろうとすると、それを引き留めるようなことをするのだろう。主任も仕事したくないのかな。そんな考えは自分の中だけに留めておくことにして、「どうしてですか?」と尋ねた。
「早川さんが気に入られたら、他の会社より優先的に扱ってくれるかもしれないじゃない?松木さん、割と立場も上の方みたいだし」
その言い方に、少しだけ違和感を覚える。なんだか、まるで私が松木さんの会社との契約を繋ぎ止めるためのスパイみたいだ。別に松木さんから一方的に気に入られているわけではなく、主任の言い方に気持ちが少しモヤッとする程度には、私だって松木さんのことは嫌いじゃない。
そう指摘しようかと思ったところで、夜中に私の頭で会議を繰り広げていた小さな私が顔を出して、「キミだって、真月佑奈の事を聞き出したいと思ってるくせに」と横槍を入れてきた。
それは......そうだよね。
何も反論できなかった私は、主任への指摘をぐっと飲みこんだ。すると、まるでその自問自答が聞こえていたかのように、主任が口を開く。
「もちろん、早川さんが松木さんと仲良くなりたいと思ってるなら、それでいいんだよ?会社の事とかは関係なくね。でも、早川さんが面倒くさそうな顔してたから」
「え?」
「スマホ見てたとき」
......私、顔に出てたのか。そして、それを見られてたのか。あの一瞬で、主任は私の表情から心情を見抜き、さらに松木さんからのメッセージがタメ口だったことも確認していたということか。
「そ、それは......どうして仕事中にプライベート用のスマホに送ってくるのかなと思っただけで」
そっか、と言ったところで主任は、部長に呼ばれて席を立った。やっと仕事に戻れる、と思った瞬間、またしてもスマホが震える音が聞こえた。「またか」と呟きながら確認しようとすると、今度は仕事用のスマホの画面が点いていた。あれ、松木さんじゃないのか。少し安心しつつ確認すると、仕事用のメールアドレスに1件、新着メールがあった。
『届きましたよ!!!!!!』
数分前に私が送った『メールは届きました?』というメールに対しての返信なのだろう。
......なんか、怒ってる?
そこで私は、さっき松木さんから届いたメッセージに既読を付けてしまっていたことを思い出した。
既読スルーをしたつもりじゃないんですよ、と返信しようかと思ったけど、仕事用のメールで送信するには砕けすぎた内容だなと感じた私は、『ご確認ありがとうございます。もし不明な点がございましたら、こちらまでお申し付けください』と、意図的にビジネス感を全面に押し出したメールを送信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます